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美濃路七宿のうち「萩原宿」

美濃路七宿

のうち萩原宿

愛知県稲沢市稲葉

尾張国

 

美濃路ー3
起宿へ

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー5
稲葉宿へ

大垣からの「美濃路」「東海道」と結ぶ交通量の多い街道でした。

 

番号 由緒地 地名
-01 天神の渡し跡  愛知県一宮市西萩原葭山
-01 天神の渡し跡  愛知県一宮市萩原松山
-02 孝子佐吾平の碑 愛知県一宮市明地新田橋上南
-03 市川房江生家 愛知県一宮市明地新田橋上南
-04 萩原橋 愛知県一宮市明地新田橋下
-05 脇本陣森半兵衛辞世の句碑 愛知県一宮市萩原町萩原上町
-06 萩原宿本陣址 愛知県一宮市萩原町萩原上町
-07 萩原宿問屋場跡 愛知県一宮市萩原町萩原下町
-08 馬頭観音 愛知県一宮市萩原町萩原下町
-09 正端寺 愛知県一宮市萩原町萩原
-10 徳川家茂小休跡 愛知県一宮市萩原町串作長田
-11 高木一里塚址 愛知県一宮市萩原町串作
-12 中嶋宮(鳥居) 愛知県一宮市萩原町中島道場東切
  中嶋宮(本宮=長隆寺西) 愛知県一宮市萩原町中島丸宮
-13 長隆寺 愛知県一宮市萩原町中島丸宮

 

 

美濃路ー09/15
「天神の渡し(西)」から萩原宿と「高木一里塚跡」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は9区間目です)

 

蓮池の秋葉神社

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

17

27.7

東経

136

44

46.8

 

県道136号線を進むと蓮池口三叉路信号へ来ます。

更に進むと県道147号線の交差点を過ぎます

天神の渡し跡(西)

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

17

14.1

東経

136

45

11.7

               一宮指定文化財 史蹟 天神の渡し跡
 天神の渡し跡は、かって之木曽川の主流であった現在の日光川の渡船場の跡で、「萩原渡し」とも呼ばれた。
 日光川は、野府川と五城川(小信川)が合流し、古川、萩原川ともいわれた。
 天正十九年(1591)と推測される豊臣秀吉の四奉行連署の『萩原船頭給継目証文』によると、この年六十石の船頭給が与えられていたことが知られる。
 その後、慶長の頃まで引き続き尾張藩によって六十石の給米が支給されていた。
 これは天正十四年(1586)の大洪水で、木曽川の主流が現在の位置を流れるようになった後も、萩原川の流れが広く沼地化として渡船を必要としたのであろう。
 その後洪水のたびに川幅が狭められて、渡しは廃止され、萩原宿の西に板橋が架けられた。
 天神の渡しの位置は、日光川左岸の萩原山の天神(一宮市萩原町萩原字松山)と、右岸のここ天神神社のあたりといわれており、両神社の社殿の間は、直線距離でおおよそ四百八十メートルあり、その頃の川幅の広さを物語る。
                        (一宮教育委員会)

 

天神の渡し跡(東)

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

17

01.3

東経

136

45

27.5

             美濃路天神の渡し跡
 今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。
 当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。
 この渡しの辺りは萩原川とも言った。

     斉藤道三が信長と会見の後、信長を見送りに来た。
 織田信長が木曽川沿いの聖徳寺で、美濃の斎藤道三と会見した帰りに、道三が渡し場まで見送りにきたという伝説がある。
 (当時は木曽川の本流はこのあたりを流れていたと思われる。川幅も数百bもあり天神の渡し跡(西)は現在もかなり離れた場所にある)

 天正十四年(1586)の大洪水以降、主要流路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。
 この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推測される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」などによって知られよう。
 江戸時代終わりの頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。
 織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったと伝えられる。
 江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇往還として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。
 徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
                       (一宮教育委員会) 

 

やがて名神高速道路ガードが見えてきます。

名神高速道路のガードをくぐり100mほど進んだ左(東)側に「孝子佐吾平祠」があります。

孝子佐吾平祠

愛知県尾西市西萩原

北緯

35

16

52.4

東経

136

45

10.0

               孝子佐吾平由来
 天保年間に江戸参勤のため、萩原宿近くを通りかかった明石藩主松平斎宣の行列の前を暴れ馬を取り押さえようと横切った萩原宿の馬方佐吾平を、先駆の武士が無礼打ちにした。
 佐吾平は、吉藤村風張に生まれ家は貧しかったが、盲目の老母によく仕え、孝子の誉れが高かった。
 村人は佐吾平の死をいたみ、この地に小祠を建て後世に伝えた。
                            (現地の石碑より)
 
この話を聞いた尾張藩は明石藩を責め、明石藩が尾張藩領を通過する際は、夜間で葬式の装いをしてのみ通行を許可したという。

県道136号線を進み日光川を渡ります。

 

 

 

 

萩原橋

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

47.2

東経

136

45

13.9

   
   
   

 

 

日光川を渡り80mほど進むと北側に稲荷神社があります。

稲荷神社を過ぎ、次の交差点を右(南)へ曲がります。

萩原宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 不明、

宿長 8丁36間(約938m)、 人口 1、002人、 家数 236軒、 

旅籠 17軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 2ケ所、          

起宿から 一里(約3,9km)(冨田一里塚)

稲葉宿まで 一里半(約5,9km)(高木一里塚)

              萩原宿
 萩原宿のある萩原村は、慶長13年(1608)の伊奈備前守の検地の際、西之川村から分かれたと思われます。
 しかし、一般的には「萩原西之川」と呼ばれ、天保十二年(1841)の村絵図では、両村が境界もなく1枚に描かれています。
 尾張藩が編纂した地誌『尾張志』には、「稲葉より一里余の馬数にて、町屋立つヾけり。天正の頃まで八荒野にて、荒古北方西之川なといひしを、長尾武蔵守吉房入道屋敷を取建られしより、萩原西之川と呼しとそ、慶長五年(1600)神君石田三成を誅戮し給ひ、関ヶ原より御凱旋遊はされし時、この美濃路を開き宿並となし給ひぬ。天下御統一の折なるゆえ此道筋を御吉例海道と唱ふるよし、萩原の里老申伝へたり。」と記しています。
 でした。
 天保十四年(1843)の萩原宿(串作村を含む)は、家数236軒、人口1,002人、旅籠屋17軒8中6軒・小11軒)、本陣・脇本陣各1軒、問屋場2か所8鵜飼家・木全家)がありました。
 本陣の森権左衛門は、寛永年間(1624〜1644)に日光川筋や西之川一帯に新田を開発しています。
 脇本陣の森半兵衛は村庄屋を兼ね、「我をとう人にたとえよ松の風 中島郡萩原駅 森半兵衛 宝暦九年(1759)己卯歳生 文政二年(1819)己卯歳卒 春秋六十有一」の辞世の句碑が宝光寺にあります。

脇本陣森半兵衛
辞世の句碑

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

48.4

東経

136

45

20.8

   
   
   

 

県道136号線を曲がって100mほど進むと右(東)側に「萩原宿本陣跡」碑が見えます。

萩原宿本陣跡

愛知県尾西市萩原町萩原

北緯

35

16

42.6

東経

136

45

20.6

「萩原宿本陣跡碑」から60mほどの左側に「萩原宿問屋場跡碑」が建っています。

萩原宿問屋場跡

愛知県尾西市萩原町萩原

北緯

35

16

41.8

東経

136

45

20.5

問屋場跡を過ぎると商店街に入り正面に正端寺が見えます

 

 

正端寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.4

東経

136

45

18.5

   

 

萩原の地蔵堂

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.3

東経

136

45

18.5

 

 

 

曲がり角の目印
霊池山蓮開寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.3

東経

136

45

18.5

 

正端寺で左(東)へ曲がり信号を過ぎ、名鉄尾西線を渡り次の信号(串作南)を右(南)へ曲がります。

串作(くしつくり)南交差点

串作南交差点を右(南)へ曲がります

串作南交差点を右(南)折して一つ目の信号を過ぎて60mほどの左に一里塚があります

高木の一里塚跡

愛知県一宮市萩原町高木

北緯

35

16

10.9

東経

136

46

08.5

酒屋さん隣でおくに引っ込んでいるため、見逃す恐れがあります。

「高木の一里塚跡」碑を過ぎると道は狭くなります

さらに県道136号線を進むと左側に「日蓮上人」の碑があります

南無妙法蓮華経碑

愛知県一宮市萩原町高木

北緯

35

16

06.9

東経

136

46

11.4

道の左側に碑は建っています。
 文化元甲子年(1804)の文字が見えます。  「日蓮」の文字も見えます

ふたたび道は狭くなります

「高木橋」調査中

高木橋

愛知県

北緯

35

15

59.2

東経

136

46

16.2

   
   
   

 

狭くなってから進むと左側に小さな墓があります。

行倒れ武士墓

愛知県一宮市萩原町西御堂

北緯

35

15

48.2

東経

136

46

36.4

「臨池先生願疜墓」と読めます

天保七甲暦七月廿二日 発記筆遺門人 稲葉北村 凌無寺十七世

次の頁は「」へ。

 

 

 

 

 

 

美濃路ー09/15
「天神の渡し(西)」から萩原宿と「高木一里塚跡」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は9区間目です)

 

 

 

日光川を渡り80mほど進むと北側に稲荷神社があります。

稲荷神社を過ぎ、次の交差点を右(南)へ曲がります。

萩原宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 不明、

宿長 8丁36間(約938m)、 人口 1、002人、 家数 236軒、 

旅籠 17軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 2ケ所、          

起宿から 一里(約3,9km)(冨田一里塚)

稲葉宿まで 一里半(約5,9km)(高木一里塚)

              萩原宿
 萩原宿のある萩原村は、慶長13年(1608)の伊奈備前守の検地の際、西之川村から分かれたと思われます。
 しかし、一般的には「萩原西之川」と呼ばれ、天保十二年(1841)の村絵図では、両村が境界もなく1枚に描かれています。
 尾張藩が編纂した地誌『尾張志』には、「稲葉より一里余の馬数にて、町屋立つヾけり。天正の頃まで八荒野にて、荒古北方西之川なといひしを、長尾武蔵守吉房入道屋敷を取建られしより、萩原西之川と呼しとそ、慶長五年(1600)神君石田三成を誅戮し給ひ、関ヶ原より御凱旋遊はされし時、この美濃路を開き宿並となし給ひぬ。天下御統一の折なるゆえ此道筋を御吉例海道と唱ふるよし、萩原の里老申伝へたり。」と記しています。
 でした。
 天保十四年(1843)の萩原宿(串作村を含む)は、家数236軒、人口1,002人、旅籠屋17軒8中6軒・小11軒)、本陣・脇本陣各1軒、問屋場2か所8鵜飼家・木全家)がありました。
 本陣の森権左衛門は、寛永年間(1624〜1644)に日光川筋や西之川一帯に新田を開発しています。
 脇本陣の森半兵衛は村庄屋を兼ね、「我をとう人にたとえよ松の風 中島郡萩原駅 森半兵衛 宝暦九年(1759)己卯歳生 文政二年(1819)己卯歳卒 春秋六十有一」の辞世の句碑が宝光寺にあります。

美3-20 脇本陣森半兵衛
辞世の句碑

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

48.4

東経

136

45

20.8

   
   
   

 

県道136号線を曲がって100mほど進むと右(東)側に「萩原宿本陣跡」碑が見えます。

美3-21 萩原宿本陣跡

愛知県尾西市萩原町萩原

北緯

35

16

42.6

東経

136

45

20.6

「萩原宿本陣跡碑」から60mほどの左側に「萩原宿問屋場跡碑」が建っています。

美3-22 萩原宿問屋場跡

愛知県尾西市萩原町萩原

北緯

35

16

41.8

東経

136

45

20.5

問屋場跡を過ぎると商店街に入り正面に正端寺が見えます

 

 

美3-23 正端寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.4

東経

136

45

18.5

   

 

美3-24 萩原の地蔵堂

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.3

東経

136

45

18.5

 

 

 

美3-25 曲がり角の目印
霊池山蓮開寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

38.3

東経

136

45

18.5

 

正端寺で左(東)へ曲がり信号を過ぎ、名鉄尾西線を渡り次の信号(串作南)を右(南)へ曲がります。

串作(くしつくり)南交差点

串作南交差点を右(南)へ曲がります

串作南交差点を右(南)折して一つ目の信号を過ぎて60mほどの左に一里塚があります

美3-26 高木の一里塚跡

愛知県一宮市萩原町高木

北緯

35

16

10.9

東経

136

46

08.5

酒屋さん隣でおくに引っ込んでいるため、見逃す恐れがあります。

「高木の一里塚跡」碑を過ぎると道は狭くなります

さらに県道136号線を進むと左側に「日蓮上人」の碑があります

美3-27 南無妙法蓮華経碑

愛知県一宮市萩原町高木

北緯

35

16

06.9

東経

136

46

11.4

道の左側に碑は建っています。
 文化元甲子年(1804)の文字が見えます。  「日蓮」の文字も見えます

ふたたび道は狭くなります

「高木橋」調査中

美3-28 高木橋

愛知県

北緯

35

15

59.2

東経

136

46

16.2

   
   
   

 

狭くなってから進むと左側に小さな墓があります。

美3-29 行倒れ武士墓

愛知県一宮市萩原町西御堂

北緯

35

15

48.2

東経

136

46

36.4

「臨池先生願疜墓」と読めます

天保七甲暦七月廿二日 発記筆遺門人 稲葉北村 凌無寺十七世

 

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は10区間目です)

 

 

美3-30美4-01 中嶋宮鳥居

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

15

43.5

東経

136

46

49.6

   
   

 

美3-31美4-02 中嶋宮本殿

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

01.9

東経

136

46

46.8

   
   

 

美3-32美4-03 長隆寺

愛知県稲沢市稲葉町3丁目

北緯

35

16

01.9

東経

136

46

48.7

       愛知県指定文化財
1、木造阿弥陀如来及び両脇侍像 三軀(鎌倉時代)
1、五大尊画像             一幅(南北朝時代)
          一宮指定文化財
1.紙本著色愛染明王画像     一幅(室町時代)

                  長隆寺
 真言宗豊山派の寺院で、創建は14世紀頃。 中世の尾張の土豪だった中島氏の菩提寺と思われます。
 本堂は宝暦八年(1758)、山門は貞享五年(1688)の建立で、江戸時代の景観を伝えています。

 

 

美濃路ー3
起宿へ

美濃路七宿
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美濃路ー5
稲葉宿へ

美濃路七宿のうち「萩原宿」

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。