赤坂宿から昼飯(ひるい)を通り、照手姫や盗賊熊坂長範、平治の乱で傷を負って、ここまで逃れたが
亡くなった源頼朝の兄朝長の墓などがある青野を通り垂井宿へ向かいます。
六十九次 |
![]() |
岐阜県大垣市 美濃国 近鉄養老線東赤坂駅下車 |
「源朝長の墓」巻は、「旧円興寺跡」と「源朝長之墓」、「旧円興寺仁王門跡」、「源朝長墓参」の「芭蕉句碑」、「刀石」、
「史跡源朝長墓」、「大炊家の墓」、大きくないのに「灌頂大橋」(がんしょうおおはし)、「現円興寺」と国指定「木造聖観世音立像」、
青墓宿の遊女が捨てた粉糠が小山となった「粉糠山古墳」、お取つぶしになった青野城の大門を移築し「延長寺」の山門、
「昼飯(ひるい)と青墓の民家」、「青墓のよしたけあんと円願寺跡」、「照手姫水汲みの井戸」、
安八郡安八町町屋結(むすぶ)にある照手姫伝説と結神社と町屋観音堂などを
GPS位置情報と共に、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
|
東海道本線下り線昼飯ガード手前を北へ曲がって1.5kmほど進みます。
JR東海道線下りガード 大垣市昼飯(ひるい)町 |
|
![]() |
JR東海道本線下りのガード |
青墓5丁目追分 |
|
![]() |
![]() |
県道214号線の途中に現「円興寺」への道標があります。左に進みます。 (大垣市青墓町4丁目(左)3丁目(右)の境) |
源朝長(ともなが)之墓 大垣市青墓町5丁目 |
|
源朝長(みなもとのともなが)は源頼朝・義経の兄です |
||
![]() |
![]() |
![]() |
さらに北へ進むと道標があります |
その脇に古い道標があります |
Y字型の道を右へ
「源朝長之墓」と「旧圓興寺跡」の 大垣市青墓町5丁目 |
|
|
![]() |
||
この案内板は裏参道のものです |
裏参道登り口 大垣市青墓町 |
|
表参道からさらに数百メートル北へ進むと「裏参道」口があります。
距離的には裏参道が短いのですが、うっそうとした山道は気味が悪いので表参道を登りました。
![]() |
![]() |
表参道を入ると道幅は広くて車でもいけそうですが、此れは上流で「防災ダム」工事用の道で途中駐車場は無いので |
![]() |
![]() |
数百メートル進むといよいよ石段の登り路です |
また数百メートル進むと広場へ出ます |
仁王門跡と推定される場所まで10分くらいです。
この付近には他に句碑などもあります
旧圓興寺仁王門跡 大垣市青墓町 |
|
![]() |
仁王門跡推定地 金剛力士像とは本来金剛杵を持った夜叉の像が 右を那羅延金剛、左を蜜述金剛と呼ぶこともあるが、 |
朝長之墓にお参りした松尾芭蕉の句碑 大垣市青墓町 |
![]() |
正徳二年(1712)刊 京都萬屋喜兵衛版 苔埋む蔦のうつヽの念仏哉 俳聖松尾芭蕉の身の来遊は、貞享・元禄難関前後 |
仁王門跡からさらに数百メートル登ると道標があります
道標から数メートルのところに「刀石」があります
刀石 |
![]() |
![]() |
源朝長公の墓へお参りするとき礼儀として帯刀を一時預けておくためのもので「刀石」と呼ばれています |
刀石の脇にお墓があります
史跡 大垣市青墓町 |
|
![]() |
![]() |
源朝長は源頼朝、義経の兄 |
![]() |
源氏の系図(源義家から四代までの抜粋) |
「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。 |
|
![]() |
源朝長の墓 義朝の次男「朝長」は落延びる途中、僧兵に襲われて足に傷を負い、 その後、壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼし、父義朝の敵を討った |
源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。
大炊家之墓 |
![]() |
大炊家の墓 平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の |
「旧円興寺跡」へ行く予定で展望台へ出てしまいました
旧圓興寺跡 大垣市青墓町 |
「円興寺」は信長により焼かれました
延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
この山に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。
その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領は五千俵と伝えられています。
天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)に麓に移して立てられました。
(途中、地図を読み間違い旧円興寺跡にはいけませんでした)
![]() |
元円興寺跡(現円興寺は麓に再建されています) 延暦九年(790年)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて 当時は、坊舎末寺など、百余ケ寺、寺領五千俵を領し、山麓一帯は多数の 天正二年(1574年)織田信長の兵火に罹り、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、 しかし、承応元年(1652年)雷火によって再び焼失した際に、
|
この間にわき道を辿ると鐘楼跡、御堂跡(本堂)、講堂跡、僧房跡、金堂跡、多宝塔跡などがありますが
一人で心細く、寄れませんでしたので画像はありません。
展望台 |
|
![]() |
麓へ下りて現「円興寺」へ行く途中にある小さな橋ですが名前は「大橋」
灌頂大橋 大垣市青墓町 |
|
![]() |
![]() |
このあたりは「大垣市青墓町5丁目」 |
![]() |
![]() |
「がんしょう橋」の由来がありましたが意味がよく分からない由来でしたが、 |
「がんしょう橋」を渡るとすぐに「円興寺」が見えてきます。
現「圓興寺」 大垣市青墓町5丁目 |
|
![]() |
![]() |
天台宗篠尾山圓興寺 |
山頂の「圓興寺」は信長により焼かれました
延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
山頂に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。
その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領は五千俵と伝えられています。
天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)にこの地に移して立てられました。
![]() |
![]() |
国指定重要文化財「木造聖観音立像」 この仏様は、寺伝によると伝教大師が円興寺のご本尊として自ら刻まれたと伝えられます。 像高140cで檜の一本から彫りだした一木彫成像です。 顔や体にぐっと張り詰めた緊張感がみなぎり、また衣文にあらわれた波線の切れ味は鋭いうちにも温容をあらわした平安前期貞観彫刻の典型です。 像面は茶褐色の木地をあらわしているがもとは彩色であったものと思われます。 県内にある貞観彫刻のうちでも最も優れた像といわれています。 |
木造観世音立像 |
難を逃れた観世音菩薩像
山頂にあったあった「旧円興寺」が天正二年(1574)織田信長により焼かれましたが
本尊の観音像は難を逃れ
万治元年(1658)にこの地に移して「円興寺」が立てられ祀られました。
![]() |
国指定重要文化財
像身は檜材の一本彫で、等身の像を上回る また、頭部の形成、幅広い天冠台、翻波(ほんぱ)式の |
大楠 |
![]() |
![]() |
境内を覆う大きな「楠」 |
元の「中山道」へ戻って「東海道本線下り線」のガード(大垣市青墓町)をくぐって西へ。
![]() |
ガードをくぐってすぐに北へ入る道があります。
この道を北へ進むと100m位で西側に「粉糠山古墳」が見えてきます
古墳の上にお墓
粉糠山古墳のほとんどが墓地になっています。
現在なら文化財保護違反になりそうですが古墳の上にお墓を作ってなぜ悪い!
と言うような理論が先行したのではないでしょうか
粉糠(こぬか)山古墳 大垣市青墓町1丁目 海抜 29m |
|
![]() |
粉糠(こぬか)山古墳 |
|
大垣市指定史跡粉糠山古墳 |
大垣市指定史跡粉糠山古墳 |
青野城址の大門を移築の 大垣市青墓町1丁目 |
|
![]() |
![]() |
山門は青野城の大門を移築したもの |
白髪神社 大垣市青墓町1丁目 |
|
![]() |
![]() |
昼飯と青墓の民家
![]() |
![]() |
地域の名家でしょうが大きな家が多数見受けられます。 |
![]() |
青墓のよしたけあん 大垣市青墓町2丁目
|
|
落のびる「牛若」
平治の乱(1159年)で元治が敗れたあと、父「源の義朝」は知多半島で討たれ、兄「頼朝」ともは離ればなれになり、
隠れ住む鞍馬山も危うくなった「牛若丸」が、奥州の「金売り吉次」一行に隠れ「東山道」の当地 青墓で休息したたとき、
持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦、竹となれ」
と読んだ場所と伝えられています。
青墓は美濃源氏の拠点
青墓は源氏の拠点で「平治の乱」後、源義朝一行も此処「青墓」で休息し落延びたといわれています。
また、義朝の次男「朝長」は途中「僧兵」に襲われて戦傷を負いながら青墓までたどり着いたあとに
十六歳で自刃しました。
その墓は「旧円興寺」にありましたが、現在は「円興寺」の南西にあり、地域の信仰を集めていると言われています。
![]() |
![]() |
牛若丸(源義経)の杖 |
![]() |
![]() |
「木曽路名所絵図」より |
「よしたけあん」の向かい電柱の脇に小さな石碑があります
「照手姫水汲井戸」とあります
照手姫水汲井戸 大垣市青墓町2丁目 |
|
![]() |
![]() |
石碑を南へ100mほど進むと伝説の「井戸」が見えてきます |
伝説「小栗判官と照手姫」
昔、武蔵・相模(むさし・さがみ)の郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいました。
「小栗判官正清」と相思相愛となりますが、判官は便代の家来に毒殺され、彼女は悲しんで放浪の末、
人さらい遭い、この地の青墓長者の元へ売られてきてした働きとしていじめ抜かれました。
一方、判官はその後霊泉につかり蘇生して、照手姫を探し出して妻に迎えたと言う伝説があります。
|
![]() |
||
小栗判官正清と照手姫伝説は藤沢市の「遊行寺」にもあります。 小栗判官の名前も内容も少し違いますが、昔 かなり有名な実話がいろいろ変えて伝わったと思われます。 |
小栗判官照手姫の伝説(藤沢遊行寺) 長生院に伝わるこの伝説はとても有名です。
|
![]() |
浄瑠璃にもなった「照手姫井戸」 |
美濃地方での「照手姫」伝説 地名にも残る安八町結(むすぶ) 「小栗判官」と結ばれるよう祈願して結ばれたので「照手姫」が治めた |
|
町屋観音堂 照手姫の護持仏と言われる黄金仏を頭上にいただく十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀(せんだん)木の作です。 その像を祀る観音堂です。 照手姫伝説 |
|
結神社にまつわる照手姫(てるてひめ)伝説 結神社には、相模(さがみ)国(現神奈川県)の郡代横山修理大夫の娘「照手姫」と常陸(ひたち)国(現茨城県)の 今からおよそ560年前永享〜嘉吉年間(1429〜1444年)のころ、照手姫は故あって、結の地にとどまり、 その満願の日に、結大明神が照手姫の枕もとに立って、「よく守り本尊の指図に従って祈願した。 それで、姫の願いを叶えてやりたいのだが、姫が持っている黄金の守り本尊は、わたくしに縁のある仏だから、 照手姫はなつかしい小栗判官さまに再会したいという願いが叶うならばと、願望の成就を喜んで黄金の やがて、なつかしい小栗判官に再会することができたという伝説です。 |
|
照手姫が結ばれた「結神社」 安八の「鎌倉街道」沿いの西結にある「結神社」(嘉応年間(1169〜1171年)の創設。 常陸国の小栗判官殿再会を願った相模国の照手姫が願をかけたところ、のちに結ばれたので「結神社」と言われるようになった伝説が残ることから、縁結びの神として信仰を集めています。 境内には、側神像群、石狛犬、御手洗鉢、など町指定の文化財も数多くあります。 |
|
また、この地方に小栗判官にまつわる墨俣・生八幡(小栗の社)が掲載漏れですと
地元の早野様からご指摘がございましたので、近日掲載したいと思っています。
次の頁は「美濃国分寺跡」を紹介します
街道コラム
【美濃十六宿の成立】当初の美濃十六宿 その後の美濃十六宿 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。