垂井宿を出て日守・野上を経て関ヶ原宿へ向かいます
六十九次 |
![]() |
岐阜県大垣市 美濃国 近鉄養老線東赤坂駅下車 |
「垂井一里塚」巻は垂井宿から関ヶ原宿の間にある「南宮神社近道道標」、日守の茶所、国重文の「垂井一里塚」、
伊吹山の「伊富岐(いぶき)神社」鳥居と本殿、垂井松並木と六部地蔵、家康が縁起をかつで最初に陣を張った「桃配山」、
野上の長者屋敷跡の「秋葉神社」、班女の観音堂がある真念寺などをGPS位置情報と共にご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
|
「垂井宿」から出ると中山道は斜めにJR東海道本線に接し踏み切りを渡りますが
車は「一方通行」ですので渡れません。
JR東海道線踏切 |
|
![]() |
![]() |
車は右の道を西へ進み陸橋を渡ってJR東海道本線の向こうを平行に走る「国道21号線」へ出ます。 |
![]() |
「中山道」はJR東海道本線を渡ると国道21号線へ出て |
![]() |
更に80mほど進むと「日守川」の向こうに「日守の茶所」と「垂井一里塚」の森が見えてきます。
「日守の茶所」と「垂井一里塚」
日守の茶所 不破郡垂井町日守 |
|
![]() |
|
常盤御前の墓所から移築 それを明治になって、一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場所として、 |
![]() |
また芭蕉ゆかりの場でもあり句詠の場としても利用され、大垣新四国八十八ケ所弘法の札所など貴重な建物です。 |
その隣が「垂井一里塚」(南塚のみ)
国重文 垂井一里塚 不破郡垂井町日守 |
|
![]() |
![]() |
慶長九年(1604年)徳川家康の命により主要街道に築造された一里塚の一つです。 「垂井一里塚」は、南一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されています。 |
![]() |
|
||
浅野幸長陣跡 またこの一里塚は関ヶ原合戦の時「甲斐府中」十六万石の領主だった 東軍の将「朝野幸長」の陣を張った場所でもありました。 合戦後は和歌山三十七万六千石に加増されました |
「中山道」は「国道21号線」を横断して80mほど進むと南側に小さな道標が見えます
南宮大社近道碑 不破郡垂井町日守 |
|
![]() |
![]() |
「南宮 江 近道 八町」とあります |
中山道を西へ200mほど進むと「国道21号線」と斜めに交差します。
国道21号線斜め横断 |
|
ここで市町村境です。
|
「国道21号線」を横断して200mほどで道標があります。
此処で「垂井町」から「関ヶ原町」へ入ります。
関ヶ原バイパス工事前の垂井と関ヶ原の行政境付近 |
![]() |
![]() |
![]() |
道標の先が工事中でした。 また一つ街道らしさが失われていくのではないでしょうか。 |
関ヶ原バイパス工事後の垂井と関ヶ原の行政境付近 |
![]() |
国道21号線を大きくカーブして横断します |
|
一部中山道は残っています | |
旧中山道あたりをバイパス地下道が通っています |
バイパス地下道の上を新中山道が通っています |
中山道消滅区間 No.9
No.20 中山道車両通行不能区間=m |
||||||||||
場所 |
垂井町伊吹 |
場所 |
||||||||
垂井町伊吹 から |
|
垂井町伊吹 まで |
||||||||
迂回ルート(青)、中山道=緑 |
||||||||||
|
|
|
旧住宅地図のまま説明させていただきます。
![]() |
「関ヶ原町」へ入ってから500mほどで「T字路」に差掛かると北側に鳥居が見えます。
伊富岐(いぶき)神社鳥居 垂井町伊吹 |
|
![]() |
![]() |
伊富岐(いぶき)神社 「伊吹山」の名前もこの神社から付けられたのでしょう 中山道から北へ800mほどの処に本殿があります |
50mほど行くとJR東海道本線踏切があります。
![]() |
![]() |
JR東海道本線踏み切りを渡ると「県道53号線」の下をくぐります。 |
700mほど来るとやっと神社が見えてきます。
![]() |
![]() |
路は狭くなりますが車でも境内まで入れます。 柱の裏には「民有地 第弐種境内 参千八百五拾坪」の明記があります。 |
![]() |
![]() |
草生した参道に鳥居が立ち、その奥に境内が見えます |
伊富岐神社
古代 伊富岐山麓に勢力を張っていた「伊福氏」の祖神をまつってあり、
この神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたと思われます。
この神社は古来より「美濃の二の宮」として崇敬されております。
伊富岐神社本殿 垂井町伊吹 |
|
地方豪族伊福氏の祖神が祭られていた伊富岐神社は、仁寿2年(852)地方神社から祭祀対象の官社になりました。 | |
![]() |
![]() |
社宝 また、「古絵図」もあり、縦105cm、横77cmの紙本着色のものでいつの頃のものかも分からないが、 |
大杉 垂井町伊吹 |
![]() |
言伝えによると、関ヶ原合戦の時、社殿は兵火にかかり炎上したが御神体は幹の分かれ目のところに安置してあったので 古来より御神木として仰がれいます。 |
再び街道へ戻って「関ヶ原宿」へ向いましょう。
![]() |
「伊富岐神社」鳥居から800mくらいで家並も無くなり松並木の街道が続き
次に家並がはじまりしばらくすると、右側(北側)に井戸屋が見えてきます。
それが「野上の七つ井戸」です。
野上「七つ井戸」 不破郡関ヶ原町野上 海抜 85m |
|
野上の「七つ井戸」 |
|
「野上の |
おしゃもじ塚 不破郡関ヶ原町野上 海抜 82m |
|
「野上の七つ井戸」西の小路を北へ入り道なりに50mほど進むと |
踏切の手前に説明板があります。 |
「平忠常の終焉の地」(おしゃもじ塚) |
「おしゃもじ塚」 |
垂井の松並木 不破郡関ヶ原町野上 |
|
![]() |
![]() |
町指定天然記念物旧中山道松並木 |
![]() |
松並木の中に「六部地蔵」がおまつりしてあります
六部地蔵堂 不破郡関ヶ原町野上 |
|
「六部」とは |
|
![]() |
![]() |
歯痛を治すお地蔵さん |
「六部地蔵」から500mほど進むと平行していた「国道21号線」と一緒になります。
国道21号線合流点 |
|
![]() |
西へ進むと、すぐに「関ヶ原宿」ですが、「国道21号線」を東に戻り「桃配山」へご案内します
桃配山 徳川家康最初の陣跡 不破郡関ヶ原町野上 |
|
国道21号線を300mほど東へ戻ると南に「桃配山」が見えてきます。
![]() |
![]() |
国史跡「家康最初の陣跡 |
![]() |
![]() |
![]() |
「関ヶ原宿」北の最後の陣地に移るまで此処で作戦を練ったものと思われます。 此処にある二つの岩は、家康が机代わりに使った伝えられています。 |
「桃配山」のいわれ |
|
![]() |
![]() |
家康の作戦場から関ヶ原方面はあまりよく見ることが出来ません。 |
「家康の」の縁起かつぎ |
|
![]() |
![]() |
「桃配山」は東海道新幹線で真っ二つ 山頂と思われた付近は東海道新幹線に真っ二つに分断され向こうの山へ行くことは出来ませんでした。 |
「桃配山」から更に東へ進み「野上長者屋敷跡」を探しました。
秋葉神社 不破郡関ヶ原町野上 |
|
![]() |
![]() |
「野上長者屋敷跡」と思われるあたりには「秋葉神社」が祀られていましたが、屋敷跡は見当たりませんでした。 |
「桃配山から「国道21号線」を1kmほど東へ行ったところに「班女観音堂」のある「真念寺」があります。
班女の観音堂 がある真念寺 不破郡関ヶ原町野上 |
|
「花子」の観音像
美濃国野上(当地)の宿の女「花子」と東国へ下る旅の途中立ち寄った吉田の少将と契るが、
発つとき「生まれた子が男であったら梅若丸と名づけよ」と云って形見に扇を置いていった。
生まれた男の子「梅若丸」は大きくなり父を訪ねて東国へ下るが、母「花子」もあとを追う
母が東国で尋先を訪れると少将は京都へ帰り、つい先ごろ「梅若丸」は死んで木母寺に葬られたと告げられます。
「花子」は狂気して野上に帰り観音山に観音像を祀り狂い死にしました。
その像はこの鶏籠山「真念寺」に安置されていますが、「花子」を弔う墓も塚もここ「野上」にはありません。
![]() |
![]() |
国道21号線の南にある「真念寺」 |
境内奥の本堂手前に「班女の観音堂」があります。
![]() |
![]() |
謡曲「班女」と花子、 |
再び西の「不破郡関ヶ原町一ツ軒(ひとつや)」の中山道と交わる所まで戻りましょう。
中山道は真っ直ぐの狭い路ですが車は通れません、いったん国道へ出て
50mほど先の信号交差点で右の中山道へ入ります。
旧道を400mほど進むと再び「国道21号線」へ出ます
国道21号線再合流点 |
|
「国道21号線」を西へ700mほど進むと「関ヶ原宿」の入り口の「若宮八幡宮」へ出ます。
では「関ヶ原宿」へ
街道コラム
【宿場の形態と火災】枡形 火災 美濃十六宿の大火災暦は |
街道コラム
【宿場の任務】人馬の継立て 休泊施設 逓送業務 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。