中山道六十九次のうち五十九宿目で中山道美濃十六宿の十五番目の宿「関ヶ原宿」をご案内します
六十九次 |
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岐阜県不破郡関ヶ原町 美濃国 JR東海線関ヶ原駅下車 |
「関ヶ原宿」巻は宿場入り口の土塁、若山八幡宮、樋口家の「関ヶ原與市の宮」、江戸時代から続く旅籠「ます屋」、
予想される「関ヶ原一里塚跡」、関ヶ原一里塚跡、八幡神社になった「関ヶ原宿本陣跡」、門だけ残った「関ヶ原宿脇本陣」、
大蛇伝説の「十九女(つずら)池」、「伊勢街道、北国脇往還道標」、九里半街道、関ヶ原合戦場跡の「東首塚」の
徳川宗春霊廟だった合戦供養堂と霊廟山門、境内にある首洗い井戸、と松平忠吉・井伊直政陣跡、田中吉政陣跡、
家康最後の陣跡、関ヶ原合戦「決戦場跡」、岡山狼煙場跡、笹尾山の石田三成陣跡、「関ヶ原歴史民族記念館」、
「西首塚」などをGPS位置情報と共にご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
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関ヶ原宿 |
宿場の概要 幕府領、 宿高 千九百石、 人口 1,400人、 家数 270軒、 旅籠 三十三軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 助郷高 7,430石 十二ケ村 (助郷についてはこの頁末に説明あり) 垂井宿から 一里半(垂井一里塚、) 今須宿まで 一里(今須一里塚、) |
垂井宿から一里十四町(約5.5km)。旗本竹中氏の知行地でもあります。
宿の長さ十二町四十九間((約1.4km)
町の規模は美濃十六宿2番目
「壬申の乱」の戦場となり、不破の関が置かれ、関ヶ原合戦の舞台となるなど古代から現代に至るまで、交通の要衝です。
関ヶ原は伊勢へつながる「伊勢街道」、長浜や越前に向う「北国街道」(北国脇往還)への分岐点として大いに賑わいました。
町の長さは美濃十六宿で城下町「加納宿」に次ぐ長さで、規模も一,二を争うほどです。
町並みはほぼ直線で、東町、中町、西町があります。
二百年前に防火対策都市
宝暦十年(1760年)の大火で大半の家屋が焼失したため、復興後は防火対策として道幅を倍に広げ、中央に水路を通しました。
「岐蘇路安見絵図」による当時の関ヶ原宿の解説は
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関ヶ原
大関村は、むかし不破の関の有りし所也。 川ばた左の方に、古木に藤の巻付きたる有。( 此所也とも云。 清見原の天皇と大友皇子、合戦の地也。(壬申の乱のことと思われます) |
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歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 関ヶ原」(大判錦絵) |
このあと関ヶ原宿の中の「中山道」は「国道21号線」と一緒です。
関ヶ原宿の江戸側口には土居(土手・土塁)がありました。
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宿の往還入口は枡形・柵・土居のいずれかを設けているところが多い |
「国道21号線」の「東町」の信仰交差点」を過ぎると右手に「若宮八幡宮」が見えてきます。
関ヶ原宿 不破郡関ヶ原町東町2丁目 |
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「国道21号線」沿いにあるので車で立ち寄るのは難しいとこです。 |
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明示末期の宿場 |
「若宮八幡宮」を過ぎて東町1丁目へ入ると北側にGSがあります。
関ヶ原與市の宮 不破郡関ヶ原町東町1丁目 |
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このガソリンスタンドの敷地内に「与一の宮」があります。(裏手に見える大きな木があるところです) |
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「関ヶ原與市宮」の伝え 子孫が健保六年(1218年)に宮祀ったのが「與市宮」です。 伊勢街道沿いに墓が残された居るそうです。 |
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「與市宮」は樋口家の所有で当家の敷地内にあります。 |
お参りはガソリンスタンドを通り裏へ回り「與市宮」は西側に入り口があります。 | |
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「與市宮」(樋口家の記述) 特記すべきことは、家康が合戦の翌日、関ヶ原を出るに際し、当家に禁制を寄せていることです。 |
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「樋口石油店」から「東公門」の信号交差点を越え70mほど行くと江戸時代からの旅籠屋があります。
現在は建物は立て替えられましたが由緒ある「升屋」です。
現在関ヶ原の位置が明示されていません
どこへ行ったか「関ヶ原一里塚跡」 |
「垂井一里塚」から「今須一里塚」間がプロアトラス(アルプス社)で測定すると
約7,880mです。その中間(約3,900m)点が東公門町信号交差点付近です
しかし、現地を探しても一里塚跡の標識は見当たりません
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証拠(1) 中山道分間延絵図には公門町あたりに一里塚が描かれています |
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住宅地図に当てはめてみると一里塚はこの辺りと思われます |
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参考資料 岐蘇路安見絵図の一里塚は若宮八幡宮より宿入口側に 描いてあるので違うように思われます |
更に西へ進むと右側にかっては旅籠だった「旅館ます屋」があります。
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江戸からつづく 不破郡関ヶ原町公門(くもん)3丁目 |
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「旅籠 升屋」の看板 |
「創業永長元年」の文字が見えます |
旅館「升屋」の次の信号「関ヶ原駅前」を過ぎて50mほどでバス停「中町」の前に
脇本陣があります。
関ヶ原宿脇本陣跡 不破郡関ヶ原町中町 |
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今は建物の痕跡は無く門だけが名残をとどめています。
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関ヶ原脇本陣 慶長年間(1596年〜1615年)は 本陣は何も営まなかったが、 宿泊料金は武士と農民・町人では |
(しどうぶなんぜんじ) 「無難禅師」は慶長八年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の高僧です。禅師は法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。なお寛文二年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います。当家は後に脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。 (関ヶ原町) |
脇本陣西の歩道橋をくぐル変則四叉路があります。
この道を北へ行くと「本陣跡」へ行きます。
その前に
南へ行く狭い道を300mほど進んで大蛇伝説のある「十九女池」(つづらいけ)へ行きましょう
大蛇伝説の 不破郡関ヶ原町関ヶ原字十九女(つづら) |
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池に棲む大蛇が若い女に化け、毎夜、旧家に椀を借りにきました。 |
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十九女池(つづらいけ)と竜女伝説 古老が怪しみてある夜借りに来た椀の糸底に針をさしてその糸を家人につけさせせましたところ、 今もこの「椀」は今も「法忍寺」に預けられています。 |
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今は「十九女池」の真ん中を東海道新幹線が走っています |
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もう一つの「伝説」 その後この池を「十九女池」と云うようになった。 この横笛は後「ほととぎす」と銘がつけられて「八幡神社」の社宝として今に残る。 |
もう一度「中山道まで戻ります。
画面の地方銀行の付近から北へは「北国街道」、南へは「伊勢路」が分岐していました。
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ここにあった道標は「関ヶ原歴史民俗記念館」の軒下に移設保存されています。
伊勢街道道標 北陸街道道標 不破郡関ヶ原町中町 |
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中山道から分かれて伊勢街道に至る 今は歴史民族資料館前に移築されています |
北陸街道道標はかっての本陣西側の 石碑には「北国 ゑちぜん 歴史民族資料館前に移築されています。 |
伊勢路は牧田で伊勢東街道(牧田川で船旅で桑名まで)と伊勢西街道(山道で国道365号線で亀山まで)に分岐し
西街道は関ヶ原合戦で島津軍が背走したとしても有名で、東街道は九里半街道として宿場争いで有名です。
九里半街道 |
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九里半街道は名古屋、桑名から揖斐川を上り、牧田川右岸の船附・栗笠・烏江の美濃三湊への |
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九里半街道と関ヶ原宿騒動(定本中山道美濃十六宿 郷土出版社) 江戸時代、美濃三湊、現在の養老町栗笠、船付、烏江から牧田を中継宿場として米原までの物資輸送の道。 岐阜県と滋賀県の県境に位置する関ヶ原町。 合戦以降、中山道は東海道と並ぶ主要道路として関ヶ原宿、今須宿が設けられ、大名の参勤交代も往来し、 関ヶ原宿騒動 九里半街道と地理的条件 牧田川と揖斐川の水運の利便性 (定本中山道美濃十六宿 郷土出版社より) |
地方銀行の「三叉路」北へ入ると八幡神社があります。
関ヶ原宿八幡神社 不破郡関ヶ原町中町 |
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突き当たりは「枡形になって八幡神社があります。 |
関ヶ原宿本陣跡 不破郡関ヶ原町中町 |
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本陣庭には「スダジイ」が植えられていましたが、今は八幡宮の境内になっています。 |
本陣の建坪は152坪(約500u)。寛永元年(1624年)から努めているが、
天保十四年(1843年)の当主「兵四郎」の持高は三石四斗。
家内(家に住むもの)6人(下男・下女各1人含む)。
脇本陣は旅籠屋を営んで居ましたが、本陣は何も営なんでいませんでした。
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スダジイは目通り4.4mで県天然記念物に指定されていす。 |
八幡神社の横の道は「北国脇往還」です。
この「北国脇往還」を北へ進むと東海道本線の上を通り、関ヶ原合戦の史跡の地へ入ります。
関ヶ原合戦跡 |
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東海道本線を渡るとすぐに首塚があります。
首塚は二ケ所ありますが、此処は「東首塚」です。
東 首 塚 不破郡関ヶ原町陣屋野 |
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国史跡「東首塚」 画像右は東海道本線の橋です。 |
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徳川宗春
身売りの霊廟 尾張藩主七代藩主、徳川宗春(1696〜1764)は、仁王山護国院(現在の永平寺別院、名古屋市東区代官町)に、霊廟が建てられ祀られた(文政四年=1821)。 派手好みの宗春は、倹約第一の将軍吉宗の政策にさからい、開放政策を打ち出し名古屋を繁栄させた移植の藩主。在位八年で藩主の座を追われ、25年間幽閉。死後も罪人とされ墓石に金網をかぶせられた。 戦災を免れ今も残る 護国院の奉安殿内にあった旧山王社本殿(霊廟)と唐門は昭和十六年(1941)、3千円で売り渡され、翌月に早速解体され関ヶ原に運ばれた。 これが結果幸いし、戦災を免れた。 しかしこの建物が宗春霊廟だった由緒を知る人は少ない。 (中日新聞より) なお、その時期になぜ売り出されたかは不明です。 |
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首塚の門前には道標があります。 「東首塚 陣屋野 一丁半」の文字が見えます。 |
「東首塚」の同じ敷地内にあります
首洗いの古井戸 不破郡関ヶ原町陣屋野 |
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供養堂と門は名古屋から 戦国期の戦場では、首実験は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築句と言うのが慣わしだったようです。 |
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が立てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、
名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。
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塚内にはいろいろな碑が立っています |
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首塚の東は「松平忠吉、伊井直政の陣跡」でもあります。
松平忠吉、井伊直政 陣所跡 不破郡関ヶ原町陣屋野 |
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関ヶ原合戦の火ぶたを切った井あやすの四男 午前八時ころ、軍監「本田忠勝」より改選を促され、直政、忠吉を擁して前進し「宇喜多秀家」の前面に出たが、先鋒は「福島政則」であると咎められ、方向を転じて「島津義弘」の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られました。 |
東首塚の門前の道標にしたがって北へ150mほど進むとまた道標があります。
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「←(北) 陣屋野 →(東)岡山 東軍烽火場 4丁」の道標があります。 |
陣屋野の方向へ30mほど進むと「田中吉政陣跡」があります。
田中吉政陣跡 |
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田中吉政陣跡 と言うように両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。 |
陣屋野の方向へ30mほど進むと「家康最後の陣跡」があります。
徳川家康最後の陣跡 不破郡関ヶ原町陣屋野 |
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関ヶ原合戦は、関ヶ原の北側一帯で繰り広げられました。
徳川家康が最初に陣を敷いたのが、宿の東、「桃配山」です。
対する「石田三成」は合戦の舞台が見渡せる眺望のいい北西の「笹尾山」に布陣しました。
此処から東1.2kmが東軍がのろしをあげた「丸山」。
開戦地は「天満山」南麓の「宇喜多秀家隊」に対し、東軍の「福島政則隊」が挑発し、戦端を開いた場所。
決戦地は笹尾山山麓一帯、「小早川秀秋」の裏切りによって、「大谷、小西、宇喜多」各隊が敗れ、石田軍も敗走しました。
「大谷吉継」の墓は「藤古川ダム」から1km入った山中にあります。
「徳川家康最後の陣地」は歴史民族資料館」西で、首実検も行った。
首塚は東西二ケ所にあります。
これらはすべて国指定史跡になっているが、ほかにも合戦に関わる史跡は一帯にあります。
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国史跡「徳川家康最後の陣跡」 周囲の土塁の中央高台は、天保十二年(1841年)に幕府の命により、 |
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天下分け目の合戦で有名な「関ヶ原合戦」は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦でした。 慶長五年九月十五日、午前八時頃 伊井、松平が先ず進出して 是を見た福島の隊は、宇喜多の隊を攻撃した。 かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、 家康は最初「桃配山」にあったが、午前11時頃には、陣屋野に進出して全軍の指揮をした。 「松尾山上」の「小早川秀秋」はかねてから家康に内応の約があったので、 小早川などの反応で「大谷隊」が壊滅すると形勢は逆転した。 そして最後に「島津惟新」は東軍の中央を突破し、伊勢街道へ脱出に成功しました。 その結果東軍が大勝し、徳川家康は、二世紀半にわたる泰平の世を実現することになります。 |
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御霊神社由緒 この合戦で幾千、幾万とも云われる将兵がこの地に屍をさらし、 この諸霊を祀るため、広く有志の浄財を呼びかけ幸い、関ヶ原合戦三百八十周年を機として |
関ヶ原歴史民族記念館 不破郡関ヶ原町陣屋野 |
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関ヶ原町内にあった道標は道が狭いため通行や道路拡幅の邪魔になり |
道しるべ(道標)
道しるべとは、広辞苑によると「道路を通行する人の便宜のため、木・石などで作り路傍に立って方向・里程(距離)
等を示す標示物・みちしるべ」とあります。
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JR関ヶ原駅前の国道21号線にあった道標 正 面 左 東京、右 西京 道 右側面 右 養老、伊勢 左側面 右 停車場 |
江戸時代には、「道分け石」また「石しるべ」とも云っていたようであります。
地名・社寺などへの方向を示し街道の名・里程を彫り旅人の便宜を図っていたのが、道しるべでした。
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近江と美濃の境で有名な「寝物語の里」の道標 |
中山道と北国往還の交差点の道標 |
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中山道から分かれて伊勢街道に至る歩道橋のあたりにありました。 「是より やうろう くわな道」と記されています。側面には寛政十一年の文字も見えます。 |
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これよりひらを 二り八丁 |
右 松尾山 |
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「歴史民族記念館」には、この他にも興味ある資料が展示されてます。 |
更に北へ1.2kmほど進むと「関ヶ原決戦地」の碑があります。
西軍の将「石田三成」陣跡の笹尾山への道筋ですので是非立ち寄ってください。
関ヶ原古戦場 不破郡関ヶ原町小関 |
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「陣屋野」からの道から少し東に寄りますが、見晴らしがよく遠くからでも、よく分かります。
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国史跡「決戦場」 小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、 「笹尾山」を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。 |
この決戦場から「笹尾山」の陣跡が手にとるように見えます。
笹尾山の陣跡への道はすぐに分かります。
石田三成陣跡 笹尾山駐車場 不破郡関ヶ原町小関 |
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「笹尾山」麓は当時の陣を復元してあります。 |
「笹尾山陣跡」までは数分で登れます。
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陣跡には指揮台が復元してあります。 |
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天下分け目の合戦で有名な「関ヶ原合戦」は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦でした。 慶長五年九月十五日、午前八時頃 伊井、松平が先ず進出して宇喜多の隊に向って戦端を開いた。 家康は最初「桃配山」にあったが、午前11時頃には、陣屋野に進出して全軍の指揮をした。 小早川などの反応で「大谷隊」が壊滅すると形勢は逆転した。 その結果東軍が大勝し、徳川家康は、二世紀半にわたる泰平の世を実現することになります。 |
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国史跡 「石田三成陣跡」 |
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ここ「笹尾山」一帯は石田三成隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、 小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、 |
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笹尾山には国史跡に恥じない碑が立っています。 |
中山道へ戻り更に西へ進みます
西首塚 不破郡関ヶ原町西町1 |
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西首塚 |
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大木の裏には胴塚があります。 |
「西首塚」を過ぎると関が原宿を出て「不破の関」跡へ向います。
街道コラム
【掃除丁場と雪の掘割】掃除丁場 堀割 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。