美濃路七宿のうち「名古屋宿」
美濃路七宿 のうち名古屋宿 |
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愛知県名古屋市中区那古野 尾張国 |
番号 | 由緒地 | 地名 |
美7-01 | 五条橋 | |
美7-02 | 屋根神様 | |
美7-03 | 四間道 | |
美7-04 | 伝馬橋 | |
美7-05 | 札の辻跡 | |
美7-06 | 大須観音 | |
美7-07 | 西別院 | |
美7-08 | 東別院 | |
美7-09 | 古渡城跡 |
美7-01 五条橋 愛知県 |
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美7-02 屋根神様 愛知県 |
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美7-03 四間道 愛知県 |
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美7-04 伝馬橋 愛知県 |
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名古屋宿 |
宿場の概要 尾張藩領、 宿高 なし、 宿長 23町(約2,509m)、 人口 1、002人、 家数 236軒、 旅籠 なし、 本陣 なし、 脇本陣 なし、 問屋場(伝馬番所) 1ケ所、 清洲宿から 二里(約7,9km)(須ケ口一里塚・江川一里塚) 熱田(宮)宿まで 一里半(約5,9km) |
名古屋宿 名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高(しゅくたか)はなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町の「伝馬役四カ町」 で宿役(伝馬会所)は、伝馬町筋本町西南の角にあり、高札場と向き合っていました。 この付近を「札の辻」といい、宿場の中心でした。 宿場の長さは、23町(約2,509m)で、天保十四年(1843)の名古屋宿は、家数1,157軒、人口4,188人でした。 名古屋宿は、慶長十八年(1613)に設置されましたが、はじめは道中奉行の支配下ではなかったので、寛文三年(1663)に藩の願い上げにより道中奉行の支配下となりました。 他の宿場とは異なり、宿内には本陣・脇本陣・旅籠屋がありませんでした。 原則として名古屋宿での諸大名の休泊はなく、上りは宮宿から清須宿まで、下りは清須宿から宮宿まで直通させ、名古屋宿を通過させました。 ただ貴顕(きけん)の休泊の場合には藩からの指示に従いました。 たとえば、朝鮮通信使の場合には性高院を宿所として、藩が接待に当たりました。 また、一般の旅人は宿場に近い玉屋町にあった22軒の旅籠屋を利用しました。 このように名古屋宿は特殊な宿場でしたが、一般の人馬継立は、伝馬番所で他の宿と同様に行いました。 伝馬番所は初め渡辺金左衛門が勤め、寛文3年に吉田伊兵衛が受け継ぎ、以後吉田氏が世襲しました。 また、立人足や囲人足がなかったので、必要な場合には2軒あった人足問屋からの雇人足を利用しました。 |
美濃路ー14/15 |
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美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。 |
美7-5 伝馬会所札の辻 愛知県 |
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美7-6 大須観音 愛知県 |
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栄国寺 愛知県 |
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美濃路外れ
芝居濫觴(橘座)跡 愛知県 |
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美7-09 古渡城址碑 愛知県 |
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東別院境内
美濃路ー15/15(終り) |
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美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。 |
美7-08 真言宗大谷派 愛知県 |
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美7-07 西本願寺名古屋別院 愛知県 |
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白山神社 愛知県 |
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美7-06 大須観音 愛知県 |
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金山駅近く
三叉の道標 愛知県 |
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「美濃路」はここで終点です。
東海道「宮宿」を起点とすればここが「美濃路」の始まりです。
長い間ありがとうございました。
街道コラム
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