中山道六十九次のうち五十五宿目で中山道美濃十六宿の十一番目の宿「河渡宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十五宿

岐阜県岐阜市

美濃国

JR東海線西岐阜駅下車

「河渡宿」巻は、「河渡の渡し跡」、「河渡の渡し古図」、「愛染堂」、「河渡宿」、「河渡一里塚跡」と「松下神社」、
河渡宿高札場跡と河渡宿本陣跡、杵築神社、河渡宿西口、生津畷跡、北方街道、天下ご免の「時の太鼓」、
大化の改新の「条里跡」、北方城址、伊久良河(いくらかわ)宮跡、北方円鏡寺、金原断層、根尾谷断層、
太古のロマン「野」古墳群、皇太神宮社、皇受神社、馬場の地蔵堂、本田延命地蔵堂、本田仲町秋葉神社、
本田代官所跡、本田立場跡と本田高札場跡、本田秋葉神社、なぜ?「五六川」などを、ご案内します。

         

この頁で紹介する中山道区間

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
河渡(ごうど)の渡し場跡五六(ごろく)橋までの3,340mを案内します

河渡宿

宿場の概要

幕府領、 宿高 一千三百石、 人口 272人、 家数 六十四軒、 

旅籠 二十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 なし、           

加納宿から 一里半加納本町一里塚)

美江寺宿まで 一里六丁(河渡宿一里塚)

岐阜市歴史博物館 蔵の「岐蘇路安見絵図」による当時の河渡宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

合渡

ぎふの西に長柄川といふあり。ぎふの少し上より、川二ツにわかれ、合渡の十丁斗川上。
(岐阜の西に長柄川=長良川=と云うあり。岐阜の少し川上より、川が二つに分かれ、それは合渡の1000mほど川上である)
このことは前の頁で紹介してありますがこの頁でも再度掲載します。

梅が寺の辺にて、両川一ツに合てなかるゆえ、合渡といふ。
(梅が寺の辺りにて、両川は一つに合うために「合渡」と言う=現在は「河渡」と言います)

いつぬき川、里人はいとぬき川と云。名所也。古歌多し。
いつぬき川=糸貫川は里人は「いとぬき川」と言う。)

合渡 (「岐蘇路安見絵図」より

ぎふの西に長柄川といふあり。ぎふの少し上より、川二ツにわかれ、合渡の十丁斗川上。

前の頁でも紹介しましたが長良川は60年程前までは、古川、古々川と本流の三つに分かれて流れていました

長良川本流、古川、古々川の昭和14年以前の写真

長良川古川古々川

 長良川の流れはかっては、3本に分かれていました。
 古い写真を見るとよく分かります。
 一番手前が現在の長良川、その上が古川、一番奥が古々川です。
 昭和14年に現在の流れに改修されました。
古川、古々川跡地
 古川、古々川の跡は主に学校など公共の建物が多いようです。
 長良川競技場、長良川球場、早田小学校、伊奈波中学校、県立岐商、岐北高、明郷中学などが川の流れのように並びます。

上の写真と同じ場所からの現在の写真

長良川古川、古々川跡に並ぶ学校群

岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵

 

       歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 河渡」(大判錦絵)
       岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                                                               説  明
 加納宿から中山道を上り、長柄(ながら)川(現在の長良川)を渡ると河渡に至る。 現在は岐阜市の一部となった。 本図で描かれているのは鵜飼の様子である。 鵜飼は、現在でも行なわれている漁法であるが、古来よい伝わる鮎の漁法で、古くは『古事記』『日本書紀』といった文献にもその記録が見られる。        
 織田信長以降、近世においては将軍や大名に庇護され、5月11日から10月15日まで、雨天を除いく暗夜に実施されていたという。 船首にとりつけた舟篝の火皿に松明を焚き、川上から、川下へと舟を流しながら行なうものであるという。                                                      
 本図では、篝火によって舟を上だけが明るく照らされ、他はすべてシルエットで表現されている。 周辺の川面は篝火で照し出されて明るい。背景には薄墨の濃淡によって表現された金華山が見える。        
 これもシルエットで描かれた鵜の、水上部と水中部の描き分けが特に秀逸である。

                                                   (mori@シルバー追記)
      
「岐蘇路ノ駅 河渡 長柄川(ながら) 鵜飼舩」 
 昔の鵜飼は現在の鵜飼と多少異なっているようです。頭には風折烏帽子(かざおりえぼし)でなく、笠をかぶり、火の粉除けの胸当てもなく船頭は一人だけのようです

長良川を越えて河渡宿へ

河渡の渡し跡

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

北緯

35

24

21.1

東経

136

42

22.0

河渡宿側渡し場跡
 こちらも渡しの跡は何も見あたりません。

 堤防の上に小さな祠がポツンと置かれているのが唯一つの目印です。

 その足元を見るとお堂が有ります。

岐阜市内方面を見ても渡し場跡らしきものは見当たりません

目印の祠(ほこら)
 堤防の上に小さな祠が渡し場跡を教えてくれます。

川止め
 長良川の川幅は、定水で幅五十間(90m)、出水時には百五十間(270m)にもなったそうです。
 出水七合目(川幅百間=190m)で川止めになり渡舟の指し止めが出たそうです。
 この「川止め」のお陰でこの宿は潤っただけで、平素は大きな遊郭のある「加納宿」へ旅人は急いだため宿場として潤いませでした。

「河渡川の戦い」
 関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)の20日ほど前、西軍「石田三成軍」と東軍「徳川家康軍」は木曽川を渡るための戦い
「笠松、米野の戦い」、岐阜城攻撃のための「印食(いんじき)進撃」の後、岐阜城を落城させ城主「織田秀信」を出家させ
一気に大垣城へ向かおうとしました。

 しかし、木曽川の次に長良川(河渡川)を渡河しなくてはなりません。
 頼りにした岐阜城を落とされた石田三成は、ここで黒田長政・藤堂高虎勢を一気に潰し、
戦況を有利に導こうと決死の堅めで望みました。
 この戦いを「河渡川の戦い」と言います。

祠の堤防下には馬頭観音(愛染堂があります

堤防の上から見た祠と馬頭観音堂

愛染堂 

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

北緯

35

24

19.1

東経

136

42

16.4

今のお堂は昭和59年の建物

荷駄人足が金を出し合って建てた
 堤防下のお堂は、「荷駄役人足が天保13年(1842)に銭100文づつを出し合い、道中家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立しました。
 地元では「馬頭観音」さんと呼ばれてます。
 明治時代の洪水で被害に遭い建て直されたが、老朽化したため、今回建て直された。

 私が20数年前訪れたときは昔のままで、今にも倒壊しそうな建物でした。

馬頭観音堂縁起
正徳より天保年間にかけて徳川幕府泰平の記録に中仙道六十九次のうち
第五十四河渡宿大概帳に本陣「水谷冶兵衛」、問屋「久右衛門、八兵衛」、庄屋「水谷徳兵衛」とあり
本陣一軒、旅籠 大四軒、中八軒、小十一軒あり酒屋、茶屋、豆腐屋、煙草屋など建ち並び、
西国大名の江戸幕府へ参勤交代時には御伝馬役、徒歩役の命令あり。

東 加納へ一里半、西へ美江寺宿一里七町、この荷駄の送迎、旅人の往来、宿泊に伴い荷駄役の
人達が天保十三年に銭百文づつ寄進、家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を奉杞す。

地元では馬頭観音さんと仰ぎ、猿尾(通称、お幕場)に六間四面の堂宇を建立す。

その後明治24年の濃尾大地震で倒壊、同9年に大洪水で本堂流失、その後、堤内二再建。
昭和20年7月9日の大空襲の戦火は免れるも交通頻繁な場所等の理由で現在地に再建

中山道十六宿の石造馬頭観音では最大級
荷駄人足が100文ずつ持ち寄って建てた馬頭観音は高さ1.7m、右手に三叉(さんさ)・斧を、
左手には独鈷(どっこ)を持つ三面多臂(たひ)像です。
お堂は六間四面で大猿尾の上に
最初のお堂は渡し場脇の大猿尾(洪水の時水の勢いを弱めるための石積み)の上に建てられ、
お堂は六間四面(10m四方)の大きなもので、船を待つ旅人の休息所としても利用されました。
しかし、洪水や地震で堂は再三再四移築され戦後は宿の東入り口の堤内に移され路傍の馬頭観音としては、
珍しく唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)を持つお堂でした。

地蔵堂もお祭りしてあります。

堤防を下ると河渡宿へ入ります。

河渡宿

岐阜市上河渡

北緯

35

24

17.2

東経

136

43

13.8

河渡宿(ごうどしゅく) 

 中山道六十九宿の内五十五番目の宿で、
江戸から百六里二十七丁(419.205km)でした

加納宿へは一里半(4.5km)

美江寺宿へは一里六丁(4.6km)

「京」へは二十九里十四丁(116.784km)

河渡宿(岐阜市河渡)の町並み

中山道沿いは付近より盛土がしてあって一段と高い
その訳は「一里塚跡」を

河渡宿詳細
(正徳年間から天保年間にかけての徳川幕府太平録から)
 中山道六十九次の五十四番目の宿で、本陣一軒、(脇本陣はなし)旅籠屋(大)4軒、(中)9軒、(小)11軒、
その他に酒屋、薬屋、豆腐屋、煙草屋などが記録されています。
 本陣、水谷治兵衛 問屋、久右兵衛と八兵衛 庄屋、水谷徳兵衛ともあります。
参勤交代時の役務
 御配馬役、歩行役の命令あり。

貧乏宿
 東は大きな遊郭のある「加納宿」まで一里半(6km)
 西は谷汲山への分岐で有名な美江寺宿まで一里七丁(3.600m)と宿間隔が短く、
特徴のない「河渡宿」は川止めの時以外は素通り客が多く貧困な宿であったそうです。

河渡の渡し古図

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

昔も岐阜市内側には何もなかったようです。
古図には江崎村の文字が見えます。

今の宿場の町並み
(堤防の上から見たところ)

明治11年頃の河渡宿渡し場風景

宿内の中央辺りの北側にあります

河渡宿一里塚跡

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

北緯

35

24

17.3

東経

136

42

10.7

河渡の町並みの北側に一里塚跡はあります

 「河渡宿」の「一里塚」も片方は一里塚祈念碑が建ち「松下神社」がお祭りしてありますが、
道路の反対側の「一里塚」は民間地となっていて「売り地」の立て札がありました。

「河渡宿」碑と「一里塚」「松下神社」が一箇所にあります。

「一里塚跡」
 此の宿の中の「一里塚」跡に「松下神社」がお祀りしてあります。

 

松下神社

戦争で破片だけしかない代官「松下内匠」功績碑

        松下神社由来
  河渡宿は東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり、土地も低くひとたび大雨が降れば泥沼のごとくなりました。

 特に文化十二年六月荷は未曾有の洪水に見舞われ、このままでは宿も途絶えるのではと思われるほどでした。
 時の代官「松下内匠」が宿中を五尺余り土盛りをして、その上に家屋を改築して、文化十五年に工事を完成させ洪水に耐えるようにしました。

 此の功績に村人は、大変感謝しのちに「松下神社」を建立し、碑を刻んで感謝しました。
 神社も碑も太平洋戦争の戦災に遭い、今は、碑も一部しかありません。

          岐阜空襲
 岐阜空襲の巻き添えで此の宿場も大半が焼けました。
         
何を間違えたのか?
 こんな田圃の真ん中の集落に米軍は爆弾を落としました。
 そのため小さな宿場町の名残の家は全部焼けてしまい、他の宿場町と異なり近代的な家並みが並んでいます。
           今でも屋号で呼び合う
今でも「美濃屋」「丸屋」「丸一屋」「綿屋」などと屋号で相手を呼び合う習慣に宿場町の名残がうかがえます

 

河渡宿一里塚跡碑

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

     中仙道河渡宿一里塚跡
 河渡宿は、江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場でした。
 加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を経て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来、宿泊して大いに繁盛しました。
 此処はかって「一里塚」のあった場所であり、道の両側に夫々五間四方の石垣に土盛りがあり榎、松などが植えられていました。

下の絵図から見ると高札場は一里塚の前にあったようです

河渡宿高札場跡
河渡宿
本陣跡

岐阜市河渡(ごうど)

中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵)

 この宿場は脇本陣はありませんでしたが本陣は置かれていました。
 その「本陣跡」の表示も見当たりませんが絵図から見ると宿場の入り口近くの北側にあったようです
  此のあたり新河渡橋が完成しましたので静かな宿となりましたが、以前は旧街道の細い道に無断駐車と交通渋滞と未舗装のための埃でで大変でした。

         しかし昔も交通事故はあったようです。
    
 交通事故防止のお布告(おふれ)
 
弘化五年(1848)尾州藩の北方陣屋(今の北方町、美濃藩の中に飛び地)から出された「御布告」
「大八車並びに荷付け馬等引取候節、往来之障に不相成様に可致との儀は度々相触る置候、・・・」

 要するに大八車、馬車などの運転は気を付けろ。何度言っても改まる風はない。先日も伊三郎という若いのが子供をはねたので、木戸払いにした。・・・」とあります。当時から交通事故は多かったようです。

寺は巻頭の住宅地図から見ると宿から離れた所にあったようです

願明寺

岐阜市河渡2丁目

北緯

35

24

27.2

東経

136

42

16.6

   

町並みが途切れたところを南へ行くと

杵築神社

岐阜市河渡2丁目

北緯

35

24

13.2

東経

136

42

02.3

河渡宿の鎮守として宿内の安全を見守ってきた神社です。

中仙道を河渡宿から西へ300mほど進むと宿はずれへ出ます。

河渡宿西口

岐阜市河渡(ごうど)2丁目

北緯

35

24

17.3

東経

136

42

00.7

宿はずれ 
 二丁ほどで宿の町並みも途絶え、なお一丁ほど西へ行くと小さな川に出ます。

 川に架かる橋は「慶応橋」です。

 橋の袂に標識があり、更に西に進むと穂積町へ入ります。
  穂積町生津(なまず)を過ぎ「本田」へ向かいます。

 生津は昔、当時の貴族が所有する「生津荘園」があった所です。

 北方町はその荘園の北の方にある村と言う事で付けられた名前です。

集合住宅の前に「宿場碑」があります

   

河渡宿はずれから140mほどで「天王川」に架かる「慶応橋」を渡ると本巣郡穂積町です

ここが市町村境です。

行政区域

「岐阜市」から「穂積町」へ

岐阜市河渡町2丁目   

本巣郡穂積町生津(なまず)

ここまで、岐阜市高田町から11.4km      
長野県境から91.4kmです。

橋を渡ると穂積町生津(なまず)へ入ります。
  中山道は生津(なまず)を過ぎ「本田(ほんでん)」へ向かいます。

生津畷(なまづなわて)

本巣郡穂積町生津外宮東町

北緯

35

24

15.3

東経

136

41

47.0

生津は昔、当時の貴族が所有する「生津荘園」があった所です。

此処で北方街道へ寄り道をし「野古墳群」「北方街道」「大化改新の「条里制度の里」などを紹介ます

(本巣郡) 北方街道へ 

北方の由来
北方町
は昔「阿緒の里」と言われその後有力な荘園「生津荘」(なまずしょう)の北方に位置することから、何時の頃からか「北方」と言われるようになりました。
 その後「席田村」(むしろだむら)等と合併し北方町になりました。

条里跡 
 
  条里公園

本巣郡北方町高屋字条里

北緯

35

24

51.9

東経

136

41

37.0

大化の改新

 此の地は孝徳天皇二年(645年)”大化の改新”後に班田制度の施行を全国に実施するにあたり平地の多いこの地区で土地区画制度が実施された「条理」跡です。

 6丁(654m)四方を一単位として南北を「条」、東西を{里」と数えました。

 岐阜県下ではこの「生津の高屋」と隣地区の真正町に残されています。

 縦横一丁(109m)毎に道路と井溝を作りこれを坪と言い、各坪は整然と整えられていました。

 しかし、戦後の農業政策により再度「区画整理」が行われ、この地方一帯にあった条里は跡形もなくなり、現在は北方町高屋の「条里公園」としてその遺構が残されているのみとなりました。

一辺が約100mの「坪」。広すぎてカメラに収まりません。

広いグランドの隅に説明板が建っています。
周囲の溝は埋められて、勝手の面影はありません

次に北へ約2,100mほど進むと円鏡寺へ出ます。
まず北方で一番有名な「円鏡寺」「円鏡寺本坊」・時の太鼓の「西順寺」をご案内します

美濃の正倉院「池鏡山 円鏡寺」

北方円鏡寺

本巣郡北方町北方大門

北緯

35

25

59.9

東経

136

41

25.0

         美濃の正倉院
 
織田・豊臣・徳川氏から厚い信仰を受け織田信長の朱印状がの残されており、貴重な文化財を残すこの寺は美濃の正倉院とも呼ばれています。
 
楼門は明治神宮の南楼門のモデルとなったとされ、桧皮(ひわだ)ぶきの優美な造りにひかれます。

                         創建は円空
 
弘仁2年
(811年)に嵯峨天皇の勅命により空海が建立し、永延(えいえん)2年(988年)に一条天皇が「池鏡山 円鏡寺」の名を授けました。
  寺には国重要文化財で運慶作の木造金剛力士立像、木造聖観音立像、木造不動王立像、楼門などがあります。

    寺名「円鏡寺」の由来
 創建時に
池の中から円い鏡が出てきたので「円鏡寺」の名が付けられました。

同じ境内の東北に本坊があります

北方円鏡寺本坊

本巣郡北方町北方大門

北緯

35

26

00.5

東経

136

41

30.0

山門の菊の御紋章が印象的でした

本堂の横の大きな講堂と黒松に見とれました

円鏡寺の東南200m程のところに天下御免のときの太鼓がある「西順寺」があります。

天下御免の「時の太鼓」
西順寺

本巣郡北方町清水1丁目

北緯

35

25

58.3

東経

136

41

24.7

北方領主「戸田光直」が将軍に馬術の
妙技を披露した褒美
 
西順寺(さいじゅんじ)にある「時の太鼓」は、江戸時代の
北方地方に時をつげた太鼓です。 今から約300年前の元禄十年(1697年)当時の北方領主(旗本)戸田光直が五代将軍・徳川綱吉の御前で馬術の妙技を披露し、その時の褒美として打法を与えられ「時の太鼓」を討つことを許されたと伝えられる物です。
 当時は大名の中でも御三家のみ許されていた名誉なことで、
 今では「時の記念日」に「上下」に衣装を整えた打ち手が打法を披露します。

西順寺正門 本堂は建て替えられて鉄筋コンクリート、太鼓櫓は昔のまま

「史跡 時太鼓」碑

西順寺の裏門から北へ抜けると「北方俳諧道場跡」の案内板があります。
そのまま北へ70mほど進むと右(東)側に小さな案内板が有ります「五竹坊跡」です

北方五竹坊跡

本巣郡北方町北方本町

北緯

35

26

01.7

東経

136

42

13.9

北方町師弟史跡「五竹坊址」
美濃派俳諧獅子門道統第四世の居宅跡、五竹坊(元禄十三年〜安永九年)は
田中東伯といって医業を営んだのち北陸はじめ各地を巡り美濃派の俳諧を広めた
(北方町文化財保護協会)

五竹坊跡から40mほど北へ進むと右側に「美濃俳諧道場跡」の案内板があり
左(西)側に小路があるので西へ60mほど進むと左側に西運寺があります。

北方美濃派
俳諧水上道場跡

本巣郡北方町北方石町

北緯

35

26

03.4

東経

136

41

29.8

芭蕉十哲の一人で美濃派俳諧開祖各務支考の弟子第三世蘆元坊とその弟子が
全国の同行のものに寄進を仰ぎ道場を開いた。
境内の片隅にあります

先ほどの案内板のある道路まで戻り左(北)へ30mほど進んで道路巾が狭くなるところの右(東)が「高札場跡」です。

北方高札場跡

本巣郡北方町北方本町

北緯

35

26

04.5

東経

136

41

33.2

町指定史跡「北方陣屋高札場跡」
ここに北方領主戸田家陣屋高札場跡です。(北方町文化在委員会)

「時の太鼓の「西順寺」裏門まで戻り東へ110mほど進むと少し広い道の四差路へ出ます。
ここから北へかけて「郡界石」、「陣屋屋敷跡」、「奉行屋敷跡」、「大井神社」などがあります。

 

西順寺裏門から来た道の四差路の東北角に「郡界石」があります

北方郡界石

本巣郡北方町北方地下(じげ)

北緯

35

25

59.3

東経

136

41

33.7

北方陣屋屋敷跡の前にあります 郡界石(通称 夜泣き石)
本巣郡と方県(かたがた)郡との両郡の境の
目印として置かれた(説明板より)

「郡界石」の直ぐ後ろに北方奉行屋敷跡があります。

北方陣屋跡

本巣郡北方町北方地下(じげ)

北緯

35

25

00.5

東経

136

41

37.3

北方陣屋跡
北方戸田氏は、初代光賢が寛文八年(1668)分知をうけてから、七代光遠が明治二年(1869)
に版籍奉還をするまで、この地に陣屋を置きました。
役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所)などがあって、その周囲には奉行、代官などの
家臣の屋敷が置かれ、五千石の陣屋に相応しい堂々足るものであったと言われています。
敷地は当時のままのようで、かなり広い屋敷です。

射的場などあり城下町みたいですね。

「北方陣屋屋敷跡」の北隣が「北方奉行屋敷跡」です。

北方奉行屋敷跡

本巣郡北方町北方地下(じげ)

北緯

35

26

00.5

東経

136

41

37.4

ここも広い屋敷ですので固定資産税が大変ではないのでしょうか?!

さらに北へ80mほど進むと常誓寺があり門前の向かいに「北方城址」野案内標識があります。

標識の沿って東へ70mほど進むと道が南へクランクします
そこに「北方城址」があります

北方城跡

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

26

03.2

東経

136

41

39.4

町の東はずれの常誓寺前の
竹藪が「北方城址

最後の領主は安藤伊賀守守就」 
北方町の東の町はずれにある常誓寺前の小川を東に渡った竹藪が北方城址です。

 住古阿刀氏館の跡と伝えられ、戦国時代、領主の居城となり「七間城」と言われました。

 最後の領主は天昇十年(1582年)稲葉一鉄と
戦って討死にした安藤伊賀守守就(あんどういがのかみもりなり)でした。

安藤伊賀守守就」討ち死に
の場所にある記念碑

 

平成初期の頃の画像です

 

北方合戦
戦国時代、この辺りを治めていたのは安東守就という”美濃三人衆”の一人、1580年武田氏への内通容疑をかけられ、
北方を追われました。
2年後織田信長が本能寺で討たれると挙兵して北方城奪取を試みたものの、三人衆の一人「稲葉一鉄」に敗北。
この後一族は、一鉄に次々と滅ぼされた。これが、北方合戦と呼ばれています。

以前は向かいの竹やぶに碑が建っていたように思います

碑の文面は判読できません

現在の大井神社東から東西160m、南北340m程の
広さの平城で多くの屋敷を城内に含め水路で固めた
形式の城であったと考えられるそうです。

先ほどの道まで戻り北側が多い神社です。

大井神社

本巣郡北方町北方天王寺町

北緯

35

26

03.2

東経

136

41

39.9

   

ここで北方から更に北へご案内します

揖斐郡へ

太古のロマン「野古墳群」

揖斐郡大野町野(の)

北緯

35

28

42.7

東経

136

37

31.9

規模が大きすぎて地上からでは全体を表現できません
野(の)

 揖斐郡大野町野にあるには200基を越える古墳がありす

 集落の西にある9基の前方後円墳と円墳は素人目にも教科書通りだなと感じさせます。

 この9基は国の重要文化財になっています。金の鏡が出土の古墳

前方後円墳

 遠くから見ても、古墳の上にあがって見ても太古の昔に戻った気分になります。

 周りがのどかな風景なので余計、太鼓のロマンに浸れます。

 一度訪れてみて下さい。

 ほとんどの史跡が消滅または景観を損ねる中で、野古墳群は奇跡的にかつての景観を残しています。
むしろ伐採により古墳としての景観はよくなっ
ています。
これだけの景観を維持している古墳群は、恐らく全国的に見ても極めて重要と言えるでしょう。
何とかこの景観を次世代に残せないか、と心
底から願っています。


南出口古墳。南東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。2003年2月28日撮影(以下、同日)。墳形が分かり易くなった。

登越古墳。西南西より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。たまたま用水工事中だったが、基本的に相違はない

南屋敷西古墳。東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。

同左。擁岸壁に変わったが、伐採により墳形はよく分かるようになった。

同町にはこの地域の他にも多数の古墳群が点在します。
また、揖斐郡には池田町に多数の古墳群があります。

更に北をご案内します

金原断層

本巣郡本巣町金原字西ノ越

北緯

35

34

03.9

東経

136

38

59.5

真っ直ぐだった道が横ずれ断層のため「く」の字に曲がった地形  

濃尾地震

明治24年(1891年)に起きた濃尾地震(マグニチュード8.4)は日本の内陸で発生した最大
級の地震で、この実施による死者数は7千人以上。阪神・淡路大地震をしのぐ数でした。
岐阜県南西部を縦断し名古屋市に至る地域で、震度7に匹敵するゆれに見舞われました。
全壊家屋は14万戸あまり。愛知県の北西部や大垣、岐阜など、八割以上の家屋が倒壊しました。私どもの小さい頃、古老から、よく話を聞かされました。
特に有名なのが、隣村の「根尾谷断層」です。

しかし、根尾谷断層は6mの上下ズレですが、ここ金原西ノ越断層は8mものズレが起きたと記録されています。金原断層は有名にならなかった性か、現在は土地改良が行われ
断層の形がわずかに残っているだけです。残念です。

ついでに根尾谷断層も紹介します。

根尾谷断層

本巣市根尾水鳥地区

北緯

35

36

48.7

東経

136

37

22.8

濃尾地震で地表に顔を出した根尾谷断層の一部が、百二十年近くの時を越えて
今でも残っています。
高さ六bの崖が今でもありますが、さすが時が経ち崖も雨風でなだらかになり草も生え、
往時の姿はありません。
しかし、この崖は「断層が動いて地震が起こる」と言う現在の常識を世界中に
知らしめた貴重なものです。
最近崖の一部の上に「地震断層観察館」が建てられ地震発生当時の写真や断層を
直接見ることが出来る、地層が掘られています。

根尾谷断層と「地震断層観察館」

現在の根尾谷断層

地震発生当時の報道写真

断層の上に建てられた「地震断層観察館」

観察館の内部

  断層付近にある水平に移動した畑
 地震発生以前はお茶の木は真っ直ぐに植えられていたが。
 地震により地面が水平に動いたため曲がってしまった。

中山道に戻って美江寺宿へ

「河渡宿」を出て「天王河」の「慶応橋」を渡り穂積町生津(なまず)を過ぎ「本田」へ向かいます。

「慶応橋」から700mくらいで西へ向っていた「中山道」は少し北へカーブし北西に進みます。
このあたりが生津(なまず)内宮町です。

まず皇太神宮社皇受神社馬場の地蔵をご案内します

皇太神宮社

本巣郡穂積町生津内宮町1丁目
(なまずないぐう)

北緯

35

24

22.3

東経

136

41

31.8

皇太神宮社(神明神社)は第一鳥居近くの糸貫川堤防上にあります。
この堤防道路は古くから「北方」と「墨俣」を結ぶ街道でした。

生津内宮町から北西へ1000mほど進むと「馬場の地蔵堂」がある追分へ出ます。

馬場地蔵堂

本巣郡穂積町馬場前畑町2丁目

北緯

35

24

32.4

東経

136

41

04.1

 道の正面に土手があり小さな祠がお祀りしてあり「中山道」之標識があります。

 土手には「神仏敬信、忠君愛国」の物騒な石標もあります。

 此の追分けを北へ向かうと北方町、糸貫町へ向かいます。

 美江寺宿へは更に西へ進みます。

無くなった追分道標
かって追分道標があったと伝えたれますが、今はありません。
話によると、約1mの平らな石で、重さが100kgほどあり、地元青年団が担いで競争をしたと言われています。

今は小さなお堂に石地蔵が祀られています

追分地蔵から見た左「中山道」。右「墨俣街道」

追分道標の代わりに

昭和8年に立てられた石柱があります。
右 合渡・加納ヲ経テ名古屋ニ至ル
左 本田・美江寺ヲ経テ京都ニ至ル

                右側には
       右 高屋、北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル

「馬場の地蔵堂」をさらに西へ進むと「糸貫川」へさしかかります。

糸貫橋から五六橋までをご案内します

糸貫橋まで来ると「本田延命地蔵堂」が見えてきます

糸貫川の糸貫橋

本巣郡穂積町本田 (ほんでん)東町

北緯

35

24

31.0

東経

136

40

52.4

西に進み糸貫川の糸貫橋を渡り600mほどで本田へ入ります。

本田延命地蔵堂

本巣郡穂積町本田(ほんでん)仲町

北緯

35

24

31.0

東経

136

40

52.4

 五六川を渡る手前に此の地方では有名な延命地蔵様があります。

 数年前には倒壊しそうな、お堂に祭られて居ました。

 (現在は新しく立て替えられました)

 

本田地蔵堂(延命地蔵)
この地蔵は、90cmの石の座像像で彫りが美しく優雅な面相です。
背面に「石工名古屋門前町大坂屋茂兵衛」、
台座には「文化六巳巳歳(1809)八月二十四日建立 濃州本巣郡上本田村」と刻まれています。

毎年八月二十四日に盛大な地蔵際が行われます。
かっては、尾張、美濃、江州(近江)の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われています。

江戸時代この中仙道を往来した旅人は此処で一休みして、
お地蔵様に旅の安全を祷って旅を続けました。

以前は野ざらしだった地蔵さんも今は大切に祀られています

「延命地蔵」の斜向かいに「秋葉さん」がお祭りしてあります。

本田中町秋葉神社

本巣郡穂積町本田仲町

   

西へ300mほど進み仲町へ入り中川に架かる中川橋の袂に「代官所跡」があります

本田代官所跡

本巣郡穂積町本田仲町

北緯

35

24

30.0

東経

136

40

42.6

穂積町本田仲町にあります。
本田(ほんでん)には往時をしのばせる町並みが残っている街道筋です。
江戸時代の一時期に代官所が置かれた跡に説明板が立っています。

初代代官 野田三郎左衛門

寛文十年(1670)に野田三郎左衛門が、初代代官に任命され陣屋を設けたと言われています。
代官の中には名代官と慕われ、十一年も在住した川崎平右衛門定孝らが当時の人々と深くかかわりました。

江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地代官所が
ありましたが、詳細は定かでありません。
しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1760年)
野田三郎佐衛門が初代代官に任ぜられ、
この地に陣屋を設けたと思われます。

本田代官は後に川崎平右衛門定孝(十一年間在任)という
名代官を迎えるなど、この地の人々にも大きく関わりました。
明和七年(1770年)大垣藩に預けられるまで続いたこの地には、
今でも「代官跡」、「御屋敷跡」、「牢屋敷跡」という
地所が残っています。
(穂積市教育委員会)

「代官所跡」を過ぎて60mほど進むと南側に「立場跡」があります。

本田立場跡

本巣郡穂積町本田仲町

北緯

35

24

29.5

東経

136

40

41.5

「中山道街並」標識
 同じく”穂積町教育委員会”による「中山道街並」標識がありました。

さらに西へ60mほど進むと「本田西町秋葉神社」があります

本田西町秋葉神社

本巣郡穂積町本田西町

北緯

35

24

29.6

東経

136

40

42.6

本田西町秋葉神社から更に60mほど進むと道が広くなります。ここに高札場がありました。

本田高札場跡

本巣郡穂積町本田西町

北緯

35

24

30.0

東経

136

40

38.4

本田西町の「高札場」跡

 説明によると「中山道分間延絵図によるとこの辺りにあった」とあります。

この辺りは南北の集落の街道が交わるところで代官所もあったので

 このため指定宿場の以外にも高札場が置かれたのでしょう

江戸時代の「中山道絵図」によるとこのあたりが「高札場」だったと思われる場所です。

高札場跡から120mほど進むと往時を偲ばせるエノキがたっています。

県道交差点

穂積町本田松原

北緯

35

24

30.0

東経

136

40

34.4

 

県道を横断して230mほど進むと左側(南側)に小路があります

大正天皇行幸記念碑

穂積町本田松原

北緯

35

24

30.3

東経

136

40

18.6

民家のガレージと大きな駐車場の間の小路を南へ50mほど入ると碑があります
東宮殿下御休息處
大正天皇が皇太子の頃に行幸されて、休息された場所のようです

県道を横断して140mほど進むと五六川に架かる五六橋へ来ます

五六川の五六橋

穂積町本田松原
巣南町美江寺  

北緯

35

24

31.0

東経

136

40

18.6

さらに西へ進むと穂積町と巣南町の境を流れる五六(ごろく)川「慶応橋」を渡ります。

なぜ?五六川
美江寺宿の入り口にある川で江戸日本橋から数えて美江寺宿は
五十六番目の宿であるためにこの川を「五六川」と名づけられたと
言われています。

ここが市町村境です。

行政区域

「穂積町」から「巣南町」へ

本巣郡穂積町本田(ほんでん)松原

本巣郡巣南町美江寺   

ここまで、本巣郡穂積町から4.1km     
長野県境から94.0kmです。

中山道は「五六川」を渡ると「本巣郡穂積町本田」から「本巣郡巣南町美江寺」へ入ります

街道コラム

【河渡宿の整備】

 河渡宿は、長良川とその支流の伊自良川の合流点であるため、泥沼の多い湿地帯で毎年水害に悩まされていた。
そこで美濃代官は文化十一年(1814)、幕府から2,000両の援助を受け、4年がかりで宿場内に砂・砂利土の三段で高さ五尺の土盛りを行ない、家屋の改修を行って、宿場の形態を整えた。

 現在も地内にはその名前を残す神社が祭られている

         

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。