中山道六十九次のうち五十五宿目で中山道美濃十六宿の十一番目の宿「河渡宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県岐阜市 美濃国 JR東海線西岐阜駅下車 |
「河渡宿」巻は、「河渡の渡し跡」、「河渡の渡し古図」、「愛染堂」、「河渡宿」、「河渡一里塚跡」と「松下神社」、
河渡宿高札場跡と河渡宿本陣跡、杵築神社、河渡宿西口、生津畷跡、北方街道、天下ご免の「時の太鼓」、
大化の改新の「条里跡」、北方城址、伊久良河(いくらかわ)宮跡、北方円鏡寺、金原断層、根尾谷断層、
太古のロマン「野」古墳群、皇太神宮社、皇受神社、馬場の地蔵堂、本田延命地蔵堂、本田仲町秋葉神社、
本田代官所跡、本田立場跡と本田高札場跡、本田秋葉神社、なぜ?「五六川」などを、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
河渡宿 |
宿場の概要 幕府領、 宿高 一千三百石、 人口 272人、 家数 六十四軒、 旅籠 二十四軒、 本陣 一軒、 脇本陣 なし、 加納宿から 一里半(加納本町一里塚) 美江寺宿まで 一里六丁(河渡宿一里塚) |
岐阜市歴史博物館 蔵の「岐蘇路安見絵図」による当時の河渡宿の解説は
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合渡
ぎふの西に長柄川といふあり。ぎふの少し上より、川二ツにわかれ、合渡の十丁斗川上。 梅が寺の辺にて、両川一ツに合てなかるゆえ、合渡といふ。 いつぬき川、里人はいとぬき川と云。名所也。古歌多し。 |
合渡 (「岐蘇路安見絵図」より
ぎふの西に長柄川といふあり。ぎふの少し上より、川二ツにわかれ、合渡の十丁斗川上。
前の頁でも紹介しましたが長良川は60年程前までは、古川、古々川と本流の三つに分かれて流れていました
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長良川古川古々川
長良川の流れはかっては、3本に分かれていました。 |
上の写真と同じ場所からの現在の写真 |
長良川古川、古々川跡に並ぶ学校群
岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵
歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 河渡」(大判錦絵)
(mori@シルバー追記) |
長良川を越えて河渡宿へ
河渡の渡し跡 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
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河渡宿側渡し場跡 こちらも渡しの跡は何も見あたりません。 堤防の上に小さな祠がポツンと置かれているのが唯一つの目印です。 その足元を見るとお堂が有ります。 |
岐阜市内方面を見ても渡し場跡らしきものは見当たりません |
目印の祠(ほこら) |
川止め
長良川の川幅は、定水で幅五十間(90m)、出水時には百五十間(270m)にもなったそうです。
出水七合目(川幅百間=190m)で川止めになり渡舟の指し止めが出たそうです。
この「川止め」のお陰でこの宿は潤っただけで、平素は大きな遊郭のある「加納宿」へ旅人は急いだため宿場として潤いませでした。
「河渡川の戦い」 しかし、木曽川の次に長良川(河渡川)を渡河しなくてはなりません。 |
祠の堤防下には馬頭観音(愛染堂があります
堤防の上から見た祠と馬頭観音堂 |
愛染堂 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
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荷駄人足が金を出し合って建てた |
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馬頭観音堂縁起 東 加納へ一里半、西へ美江寺宿一里七町、この荷駄の送迎、旅人の往来、宿泊に伴い荷駄役の 地元では馬頭観音さんと仰ぎ、猿尾(通称、お幕場)に六間四面の堂宇を建立す。 その後明治24年の濃尾大地震で倒壊、同9年に大洪水で本堂流失、その後、堤内二再建。 |
中山道十六宿の石造馬頭観音では最大級 荷駄人足が100文ずつ持ち寄って建てた馬頭観音は高さ1.7m、右手に三叉(さんさ)・斧を、 左手には独鈷(どっこ)を持つ三面多臂(たひ)像です。 お堂は六間四面で大猿尾の上に 最初のお堂は渡し場脇の大猿尾(洪水の時水の勢いを弱めるための石積み)の上に建てられ、 お堂は六間四面(10m四方)の大きなもので、船を待つ旅人の休息所としても利用されました。 しかし、洪水や地震で堂は再三再四移築され戦後は宿の東入り口の堤内に移され路傍の馬頭観音としては、 珍しく唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)を持つお堂でした。 |
地蔵堂もお祭りしてあります。 |
堤防を下ると河渡宿へ入ります。
河渡宿 岐阜市上河渡 |
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河渡宿(ごうどしゅく) 中山道六十九宿の内五十五番目の宿で、 加納宿へは一里半(4.5km) 美江寺宿へは一里六丁(4.6km) 「京」へは二十九里十四丁(116.784km)。 |
河渡宿(岐阜市河渡)の町並み |
中山道沿いは付近より盛土がしてあって一段と高い |
河渡宿詳細
貧乏宿 |
河渡の渡し古図 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
昔も岐阜市内側には何もなかったようです。 |
今の宿場の町並み |
明治11年頃の河渡宿渡し場風景 |
宿内の中央辺りの北側にあります
河渡宿一里塚跡 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
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河渡の町並みの北側に一里塚跡はあります |
「河渡宿」の「一里塚」も片方は一里塚祈念碑が建ち「松下神社」がお祭りしてありますが、
道路の反対側の「一里塚」は民間地となっていて「売り地」の立て札がありました。
「河渡宿」碑と「一里塚」「松下神社」が一箇所にあります。 |
「一里塚跡」 此の宿の中の「一里塚」跡に「松下神社」がお祀りしてあります。
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松下神社
戦争で破片だけしかない代官「松下内匠」功績碑 |
松下神社由来 特に文化十二年六月荷は未曾有の洪水に見舞われ、このままでは宿も途絶えるのではと思われるほどでした。 此の功績に村人は、大変感謝しのちに「松下神社」を建立し、碑を刻んで感謝しました。 |
岐阜空襲 岐阜空襲の巻き添えで此の宿場も大半が焼けました。 何を間違えたのか? こんな田圃の真ん中の集落に米軍は爆弾を落としました。 そのため小さな宿場町の名残の家は全部焼けてしまい、他の宿場町と異なり近代的な家並みが並んでいます。 今でも屋号で呼び合う 今でも「美濃屋」「丸屋」「丸一屋」「綿屋」などと屋号で相手を呼び合う習慣に宿場町の名残がうかがえます |
河渡宿一里塚跡碑 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
中仙道河渡宿一里塚跡 |
下の絵図から見ると高札場は一里塚の前にあったようです
河渡宿高札場跡と 岐阜市河渡(ごうど) |
中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵) |
この宿場は脇本陣はありませんでしたが本陣は置かれていました。 |
しかし昔も交通事故はあったようです。 要するに大八車、馬車などの運転は気を付けろ。何度言っても改まる風はない。先日も伊三郎という若いのが子供をはねたので、木戸払いにした。・・・」とあります。当時から交通事故は多かったようです。 |
寺は巻頭の住宅地図から見ると宿から離れた所にあったようです
願明寺 岐阜市河渡2丁目 |
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町並みが途切れたところを南へ行くと
杵築神社 岐阜市河渡2丁目 |
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河渡宿の鎮守として宿内の安全を見守ってきた神社です。 |
中仙道を河渡宿から西へ300mほど進むと宿はずれへ出ます。
河渡宿西口 岐阜市河渡(ごうど)2丁目 |
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宿はずれ 二丁ほどで宿の町並みも途絶え、なお一丁ほど西へ行くと小さな川に出ます。 川に架かる橋は「慶応橋」です。 橋の袂に標識があり、更に西に進むと穂積町へ入ります。 生津は昔、当時の貴族が所有する「生津荘園」があった所です。 北方町はその荘園の北の方にある村と言う事で付けられた名前です。 |
集合住宅の前に「宿場碑」があります
河渡宿はずれから140mほどで「天王川」に架かる「慶応橋」を渡ると本巣郡穂積町です
ここが市町村境です。
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橋を渡ると穂積町生津(なまず)へ入ります。
中山道は生津(なまず)を過ぎ「本田(ほんでん)」へ向かいます。
生津畷(なまづなわて)跡 本巣郡穂積町生津外宮東町 |
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生津は昔、当時の貴族が所有する「生津荘園」があった所です。
此処で北方街道へ寄り道をし「野古墳群」「北方街道」や「大化改新の「条里制度の里」などを紹介ます
(本巣郡) 北方街道へ |
北方の由来 |
条里跡 本巣郡北方町高屋字条里 |
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大化の改新 此の地は孝徳天皇二年(645年)”大化の改新”後に班田制度の施行を全国に実施するにあたり平地の多いこの地区で土地区画制度が実施された「条理」跡です。 6丁(654m)四方を一単位として南北を「条」、東西を{里」と数えました。 岐阜県下ではこの「生津の高屋」と隣地区の真正町に残されています。 縦横一丁(109m)毎に道路と井溝を作りこれを坪と言い、各坪は整然と整えられていました。 しかし、戦後の農業政策により再度「区画整理」が行われ、この地方一帯にあった条里は跡形もなくなり、現在は北方町高屋の「条里公園」としてその遺構が残されているのみとなりました。 |
一辺が約100mの「坪」。広すぎてカメラに収まりません。 |
広いグランドの隅に説明板が建っています。 | |
周囲の溝は埋められて、勝手の面影はありません |
次に北へ約2,100mほど進むと円鏡寺へ出ます。
まず北方で一番有名な「円鏡寺」と「円鏡寺本坊」・時の太鼓の「西順寺」をご案内します
美濃の正倉院「池鏡山 円鏡寺」
北方円鏡寺 本巣郡北方町北方大門 |
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美濃の正倉院 |
創建は円空 |
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寺名「円鏡寺」の由来 創建時に池の中から円い鏡が出てきたので「円鏡寺」の名が付けられました。 |
同じ境内の東北に本坊があります
北方円鏡寺本坊 本巣郡北方町北方大門 |
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山門の菊の御紋章が印象的でした |
本堂の横の大きな講堂と黒松に見とれました |
円鏡寺の東南200m程のところに天下御免のときの太鼓がある「西順寺」があります。
天下御免の「時の太鼓」 本巣郡北方町清水1丁目 |
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北方領主「戸田光直」が将軍に馬術の |
西順寺正門 本堂は建て替えられて鉄筋コンクリート、太鼓櫓は昔のまま |
「史跡 時太鼓」碑 |
西順寺の裏門から北へ抜けると「北方俳諧道場跡」の案内板があります。
そのまま北へ70mほど進むと右(東)側に小さな案内板が有ります「五竹坊跡」です
北方五竹坊跡 本巣郡北方町北方本町 |
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北方町師弟史跡「五竹坊址」 美濃派俳諧獅子門道統第四世の居宅跡、五竹坊(元禄十三年〜安永九年)は 田中東伯といって医業を営んだのち北陸はじめ各地を巡り美濃派の俳諧を広めた (北方町文化財保護協会) |
五竹坊跡から40mほど北へ進むと右側に「美濃俳諧道場跡」の案内板があり
左(西)側に小路があるので西へ60mほど進むと左側に西運寺があります。
北方美濃派 本巣郡北方町北方石町 |
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芭蕉十哲の一人で美濃派俳諧開祖各務支考の弟子第三世蘆元坊とその弟子が 全国の同行のものに寄進を仰ぎ道場を開いた。 |
境内の片隅にあります | |
先ほどの案内板のある道路まで戻り左(北)へ30mほど進んで道路巾が狭くなるところの右(東)が「高札場跡」です。
北方高札場跡 本巣郡北方町北方本町 |
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町指定史跡「北方陣屋高札場跡」 ここに北方領主戸田家陣屋高札場跡です。(北方町文化在委員会) |
「時の太鼓の「西順寺」裏門まで戻り東へ110mほど進むと少し広い道の四差路へ出ます。
ここから北へかけて「郡界石」、「陣屋屋敷跡」、「奉行屋敷跡」、「大井神社」などがあります。
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西順寺裏門から来た道の四差路の東北角に「郡界石」があります
北方郡界石 本巣郡北方町北方地下(じげ) |
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北方陣屋屋敷跡の前にあります | 郡界石(通称 夜泣き石) 本巣郡と方県(かたがた)郡との両郡の境の 目印として置かれた(説明板より) |
「郡界石」の直ぐ後ろに北方奉行屋敷跡があります。
北方陣屋跡 本巣郡北方町北方地下(じげ) |
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北方陣屋跡 北方戸田氏は、初代光賢が寛文八年(1668)分知をうけてから、七代光遠が明治二年(1869) に版籍奉還をするまで、この地に陣屋を置きました。 役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所)などがあって、その周囲には奉行、代官などの 家臣の屋敷が置かれ、五千石の陣屋に相応しい堂々足るものであったと言われています。 |
敷地は当時のままのようで、かなり広い屋敷です。 |
射的場などあり城下町みたいですね。 |
「北方陣屋屋敷跡」の北隣が「北方奉行屋敷跡」です。
北方奉行屋敷跡 本巣郡北方町北方地下(じげ) |
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ここも広い屋敷ですので固定資産税が大変ではないのでしょうか?! |
さらに北へ80mほど進むと常誓寺があり門前の向かいに「北方城址」野案内標識があります。
標識の沿って東へ70mほど進むと道が南へクランクします
そこに「北方城址」があります
北方城跡 本巣郡北方町地下(じげ) |
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最後の領主は「安藤伊賀守守就」 住古阿刀氏館の跡と伝えられ、戦国時代、領主の居城となり「七間城」と言われました。 最後の領主は天昇十年(1582年)稲葉一鉄と |
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平成初期の頃の画像です |
北方合戦 |
以前は向かいの竹やぶに碑が建っていたように思います |
碑の文面は判読できません |
現在の大井神社東から東西160m、南北340m程の |
先ほどの道まで戻り北側が多い神社です。
大井神社 本巣郡北方町北方天王寺町 |
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ここで北方から更に北へご案内します
揖斐郡へ
太古のロマン「野古墳群」 揖斐郡大野町野(の) |
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規模が大きすぎて地上からでは全体を表現できません | ||
野(の)
揖斐郡大野町野にあるには200基を越える古墳がありす 集落の西にある9基の前方後円墳と円墳は素人目にも教科書通りだなと感じさせます。 この9基は国の重要文化財になっています。金の鏡が出土の古墳 |
前方後円墳
遠くから見ても、古墳の上にあがって見ても太古の昔に戻った気分になります。 周りがのどかな風景なので余計、太鼓のロマンに浸れます。 一度訪れてみて下さい。 |
ほとんどの史跡が消滅または景観を損ねる中で、野古墳群は奇跡的にかつての景観を残しています。 |
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南出口古墳。南東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。 |
同左。2003年2月28日撮影(以下、同日)。墳形が分かり易くなった。 |
登越古墳。西南西より。昭和3(1928)年3月12日撮影。 |
同左。たまたま用水工事中だったが、基本的に相違はない |
南屋敷西古墳。東より。昭和3(1928)年3月12日撮影。 |
同左。擁岸壁に変わったが、伐採により墳形はよく分かるようになった。 |
同町にはこの地域の他にも多数の古墳群が点在します。
また、揖斐郡には池田町に多数の古墳群があります。
更に北をご案内します
金原断層 本巣郡本巣町金原字西ノ越 |
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真っ直ぐだった道が横ずれ断層のため「く」の字に曲がった地形 | |
濃尾地震 明治24年(1891年)に起きた濃尾地震(マグニチュード8.4)は日本の内陸で発生した最大 しかし、根尾谷断層は6mの上下ズレですが、ここ金原西ノ越断層は8mものズレが起きたと記録されています。金原断層は有名にならなかった性か、現在は土地改良が行われ |
ついでに根尾谷断層も紹介します。
根尾谷断層 本巣市根尾水鳥地区 |
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濃尾地震で地表に顔を出した根尾谷断層の一部が、百二十年近くの時を越えて |
根尾谷断層と「地震断層観察館」 |
現在の根尾谷断層 |
地震発生当時の報道写真 |
断層の上に建てられた「地震断層観察館」 |
観察館の内部 |
断層付近にある水平に移動した畑 |
中山道に戻って美江寺宿へ
「河渡宿」を出て「天王河」の「慶応橋」を渡り穂積町生津(なまず)を過ぎ「本田」へ向かいます。
「慶応橋」から700mくらいで西へ向っていた「中山道」は少し北へカーブし北西に進みます。
このあたりが生津(なまず)内宮町です。
まず皇太神宮社、皇受神社、馬場の地蔵をご案内します |
皇太神宮社 本巣郡穂積町生津内宮町1丁目 |
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皇太神宮社(神明神社)は第一鳥居近くの糸貫川堤防上にあります。 |
生津内宮町から北西へ1000mほど進むと「馬場の地蔵堂」がある追分へ出ます。
馬場の地蔵堂 本巣郡穂積町馬場前畑町2丁目 |
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道の正面に土手があり小さな祠がお祀りしてあり「中山道」之標識があります。
土手には「神仏敬信、忠君愛国」の物騒な石標もあります。 此の追分けを北へ向かうと北方町、糸貫町へ向かいます。 美江寺宿へは更に西へ進みます。 |
無くなった追分道標 |
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今は小さなお堂に石地蔵が祀られています |
追分地蔵から見た左「中山道」。右「墨俣街道」 |
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右側には 右 高屋、北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル |
「馬場の地蔵堂」をさらに西へ進むと「糸貫川」へさしかかります。
糸貫橋から五六橋までをご案内します |
糸貫橋まで来ると「本田延命地蔵堂」が見えてきます
糸貫川の糸貫橋 本巣郡穂積町本田 (ほんでん)東町 |
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西に進み糸貫川の糸貫橋を渡り600mほどで本田へ入ります。
本田延命地蔵堂 本巣郡穂積町本田(ほんでん)仲町 |
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五六川を渡る手前に此の地方では有名な延命地蔵様があります。 数年前には倒壊しそうな、お堂に祭られて居ました。 (現在は新しく立て替えられました)
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本田地蔵堂(延命地蔵) 毎年八月二十四日に盛大な地蔵際が行われます。 江戸時代この中仙道を往来した旅人は此処で一休みして、 |
以前は野ざらしだった地蔵さんも今は大切に祀られています |
「延命地蔵」の斜向かいに「秋葉さん」がお祭りしてあります。
本田中町秋葉神社 本巣郡穂積町本田仲町 |
西へ300mほど進み仲町へ入り中川に架かる中川橋の袂に「代官所跡」があります
本田代官所跡 本巣郡穂積町本田仲町 |
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穂積町本田仲町にあります。 |
、初代代官 野田三郎左衛門
寛文十年(1670)に野田三郎左衛門が、初代代官に任命され陣屋を設けたと言われています。
代官の中には名代官と慕われ、十一年も在住した川崎平右衛門定孝らが当時の人々と深くかかわりました。
江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地代官所が 本田代官は後に川崎平右衛門定孝(十一年間在任)という |
「代官所跡」を過ぎて60mほど進むと南側に「立場跡」があります。
本田立場跡 本巣郡穂積町本田仲町 |
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「中山道街並」標識
同じく”穂積町教育委員会”による「中山道街並」標識がありました。
さらに西へ60mほど進むと「本田西町秋葉神社」があります
本田西町秋葉神社 本巣郡穂積町本田西町 |
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本田西町秋葉神社から更に60mほど進むと道が広くなります。ここに高札場がありました。
本田高札場跡 本巣郡穂積町本田西町 |
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本田西町の「高札場」跡 この辺りは南北の集落の街道が交わるところで代官所もあったので このため指定宿場の以外にも高札場が置かれたのでしょう |
江戸時代の「中山道絵図」によるとこのあたりが「高札場」だったと思われる場所です。 |
高札場跡から120mほど進むと往時を偲ばせるエノキがたっています。
県道交差点 穂積町本田松原 |
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県道を横断して230mほど進むと左側(南側)に小路があります
大正天皇行幸記念碑 穂積町本田松原 |
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民家のガレージと大きな駐車場の間の小路を南へ50mほど入ると碑があります |
東宮殿下御休息處 大正天皇が皇太子の頃に行幸されて、休息された場所のようです |
県道を横断して140mほど進むと五六川に架かる五六橋へ来ます
五六川の五六橋 穂積町本田松原 |
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さらに西へ進むと穂積町と巣南町の境を流れる五六(ごろく)川の「慶応橋」を渡ります。
なぜ?五六川 |
ここが市町村境です。
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中山道は「五六川」を渡ると「本巣郡穂積町本田」から「本巣郡巣南町美江寺」へ入ります
街道コラム
【河渡宿の整備】 河渡宿は、長良川とその支流の伊自良川の合流点であるため、泥沼の多い湿地帯で毎年水害に悩まされていた。 現在も地内にはその名前を残す神社が祭られている |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。