中山道六十九次のうち五十六宿目で中山道美濃十六宿の十二番目の宿「美江寺宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十六宿

岐阜県本巣郡巣南町

美濃国

樽見鉄道美江寺駅下車

「美江寺宿」巻は、谷汲山参道道標と谷汲巡礼街道、「まくわうり」発祥の「真桑村」、「美江寺一里塚跡」「端光寺句碑群」、
「自然居士の墓」、陶器の狛犬がある「美江神社」と美江寺宿高札場跡、道山に岐阜へ持っていかれた「美江寺観音」、庄屋屋敷
「和田家」、美江寺宿本陣跡と美江寺宿問屋跡、開蒙学校跡、「美江寺城跡」、伊勢神宮のふるさと伊久良河(いくらがわ)宮跡、
伊久良河宮跡となりに植えられた御所柿から生まれた富有柿発祥地、美江寺宿西口の「道標」と、美江寺千手観世音堂、
自然居士が千体彫った「千躰堂」、神明神社、公共工事で「消えた中仙道」、鷺田橋、立田村のパナマ運河「船頭閘門」
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

          

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
五六(ごろく)橋呂久(ろく)の渡し場跡までの4、050mを案内します

美江寺宿

宿場の概要

幕領・大垣藩領、 宿高 八百九十八石、 人口 582人、 家数 136軒、 

旅籠 十一軒、 本陣 一軒、 脇本陣 なし、           

合渡宿から 一里六丁(合渡宿一里塚)

赤坂宿まで 二里八丁(美江寺一里塚、青木一里塚) 

豊臣秀吉時代から重要視された宿場

美江寺宿は徳川家康による街道整備が進む前から豊臣秀吉の命によって宿場として
重要視され「問屋場」が設けられていました。

谷汲分岐から二丁ほど進むと美江寺観音があった「美江神社」へ出ます。

 東の「河渡の渡し」(長良川)と、西の「呂久(ろく)の渡し」(揖斐川)の中間にある宿。

 また、すぐ東に五六川、西に犀川に挟まれ豪雨の度に宿場に通じる道は冠水したそうです。

 江戸より五十五宿、百七里十四丁(421.7km) 京へは二十八里八丁(110.9km
 旅人の宿泊も少なく、宿の経営は苦しかったようです。

中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵)の文字を判読してみました

現在の住宅地図にこれから、ご案内する場所を表示してみました。比較してください

美江寺宿は「脇本陣」はありませんでした。
「高札場」「美江神社」の前にあったそうです。
また、「問屋場」「本陣」が兼ねていたそうです。

「岐蘇路安見絵図」による当時の美江寺宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

美江寺

半里北に真桑村あり、瓜の名物也
(半里=2kmほど=北に真桑村=本巣郡真正町真桑=あり、瓜=まくわ瓜のこと=が名産也)

ろく川、くいぜ川と云。舟わたし。半り下を、さはたり川と云。
(呂久川=揖斐川=、杭瀬川=現在も同じ=は橋がなく渡しだったようです)

「岐蘇路安見絵図」にある「まくわ瓜」の名産地紹介

まくわうり 

本巣郡真正町真桑(まくわ)

北緯

35

25

47.2

東経

136

40

07.3


 「まくわうり」の名前は此の地方「本巣郡真正町真桑(まくわ)」からが由来と言われています。

 「岐蘇路記」(きそじき=木曽路記)に”美江寺の半里北に真桑村あり此の地より瓜の多く出るところなり・・毎年瓜の時期には江戸へ献上す」とあります。

 昔から全国各地で栽培されていましたが、特に此の地方の「まくわうり」が香りが良くて風味が優れ、美味しいと評判になり、宮廷や将軍にも献上されていたそうで、自然に此の呼び名になったと言われています。

美江寺宿の始まり
 美江寺は徳川幕府の宿場制が整備される以前の天正十七年(1598)に豊臣秀吉の下知により「問屋場」が設けられ
往還(五街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に当たったのが始まりです。

美江寺宿の公式開設
 江戸時代になって「中山道が整備されるに及んで、寛政十四年(1637年)、「伝馬役家」と「徒歩役家」を各々二十五軒を定め
問屋の支配下におき、子打つ業務にあったのが、美江寺宿の公式開設です。

関ヶ原合戦と美江寺宿
徳川家康
 関ヶ原合戦の時、家康は江戸から十日間でここ美江寺まで兵を進めました

 

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 美江寺」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                             説  明
 長良川を渡って揖斐川に至る間に、美江寺の町がある。長良川、揖斐川と木曽川の支流が網の目のように流れているこの辺りは、しばしば氾濫に見舞われていたため、奈良時代、水害からの守護を祈って美江寺が建てられた。 地名はこれに由来する。
 この図は、揖斐川のほとりを描いたものであろうか。坂を下る旅の僧が、野良帰りの土地の人に道を尋ねているところである。 夕暮れどき、向こうの空は赤く染まり、遠くの盛はすでに暗くなりかけている。 空には雀が飛んでいる。 青々とした竹は風にゆられ、傍らには今を盛りと咲いている椿が2本。 こうした、ありふれた何でもない風景を纏め上げる手腕こそ、広重の特質を見る。

宿繁栄計画(1)、酒屋業創立
元禄九年(1696)加納藩は美江寺宿繁盛のため造り酒屋を取り立てるよう指示した。
宿役人はこれを承けて、随原村(本巣郡糸貫町随原)の文左衛門を適当と上申したので、藩は加納の酒屋与次左衛門の
酒株(酒屋営業権)を分与し、文左衛門は美江寺村へ引越して酒屋業を営んだ。屋号は「布屋」、小森家である。
(現在もこの付近には酒屋で小森家は多い)

宿繁栄計画(2)、移住計画と宅地造成
職人などで美江寺村へ移住したいと願う者があれば、宿の繁昌になるから引っ越させよと、元禄九年に藩から村役人に
指示が出ている。また、加納藩では、美江寺村の戸数が少なく宿場経営が困難なため、元禄十一年(1699)に新町を
作ることを計画し、枡形の北、すなわち氏神の美江神社から北へ犀川の堤防までの造成工事を行ない、用地買収費を
含まない事業費だけで三百二十両に達した。
しかし、翌十三年までに移住したのは32戸で、藩の熱意にもかかわらず計画は成功しなかった。

宿繁栄計画(3)、飯盛女野許可願い
天保五年(1834)に其の許可を大垣藩預領所へ願いでた。(美江寺村は宝暦六年の付け替えで加納藩から幕領になり、
その後大垣藩預かりとなる)  しかし、願いは差し戻され、不許可となったばかりでなく、次のような請書を提出させられた。
「美江寺宿には何軒かの茶屋があり、飯盛女を召抱えています。村の若い者が茶屋通いをすると農業も怠け、
田畑を売り払い、年貢も納められなくなります。働き手の少ない村では村の石高も守りきれなくならないよう、親・親戚
・五人組からよく注意し、そのような所へ立ち寄らないようさせます」と書かされたようで、すでに飯盛女は居たようです。

宿繁栄計画(4)、稽古相撲興行
文久二年(1862)に美江寺宿から御領役所へ稽古相撲興行の願いが出ている。
米価が高騰し難儀をしている百姓を救済し、伝馬の相続をさせる資金集めに、神社の境内で稽古相撲を興行し、
参集した人たちから少しずつ見物料を徴収した模様であるが成否は不明である。

「中山道」五六川」を渡って1800mほど西へ行くと「美江寺宿」の入り口にある樽見鉄道の踏切を渡りす。

そこが「美江寺宿」の入り口です。

美江寺宿入口

樽見鉄道踏切

北緯

35

24

31.4

東経

136

39

50.3

この付近はところどころに「中山道」の標識があります。

「美江寺宿」入り口の樽見鉄道「樽見線」踏切

 

美江寺宿
谷汲山参道
道標

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

31.3

東経

136

39

48.9

谷汲参道
 岐阜から赤坂までの中山道で北に向かう街道があれば、それはほとんど谷汲参道と言ってもかまいません。
 びっくりするほどの参道が谷汲を目指しています。
 ここ赤坂宿の入り口の路傍にも「北方 谷汲ニ至ル」の道標があります。

小さな橋のガードレールの横に立つ「道標」

谷汲巡礼街道

今から千二百年前からの由緒ある参道です。

             谷汲巡礼街道
 「西国三十三カ所霊場巡り」の満願札所である谷汲山華厳寺(揖斐川町谷汲徳積)に向かう街道です。
 ここ中山道美江寺宿から北へ真正町真桑〜糸貫町を北上し、本巣町織部で北方町から来た谷汲街道に合流し華厳寺に至る道程です。
 通説では、巡礼風習が定着したとされる室町時代から街道が栄え始めたとされています。

       谷汲の由来
 谷間から油が涌きだしそれを汲んでお寺の灯明にしたことから山号がおくられたそうです。

     谷汲山華厳寺参道
 仁王門から南へ延びる約800bのほぼ直線の道路で飲食店や土産物店、料理旅館など五十店舗ほどが並び門前町として栄えてきました。
 道の両側にはソメイヨシノが約350本植栽され、春には花見客で賑わい、紅葉シーズンにも人手が多くなります。
 山門から本道までの参道は少し前までは両側に沢山の堂宇が並んでいましたが、現在ではそのほとんどが朽ち果て屋敷跡だけになっています。

再び中山道へ戻ります。

樽見鉄道の踏切をわたり200mほどに「美江寺一里塚跡」があります。

美江寺宿一里塚跡

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

30.7

東経

136

39

43.1

中山道の両側とも大正時代に開墾され宅地になったため「一里塚」の
名残もなく民家になっています。

民家とガレージの間に「美江寺一里塚跡」碑が建っています。

最近「一里塚碑」の建っていた民家が壊されて空き地になっていました。

「一里塚碑」の立つ東(手前)の信号機のある路地を北に入ると「瑞光寺」があります。

瑞光寺句碑群

本巣郡巣南町美江寺七軒町

北緯

35

24

34.3

東経

136

39

44.0

瑞光寺は浄土宗西山派の寺院で、美濃派獅子門 第九世道統山本友左坊の菩提寺です。

細い路地を200mほど進むと広い道に出まると「瑞光寺」があります。

寺名号碑

境内に立つ史跡碑

「瑞光寺」は本陣当主の菩提寺
「瑞光寺」は美濃派獅子門第九世道統で、美江寺宿の本陣兼問屋場だった山本家の山本友左坊の菩提寺です。

天保十四年(1843)に本陣当主「友左坊」が近所の俳人数人と芭蕉句碑旅人と我名呼れん初時雨」
を立てて以来、多くの句碑が立てられました。

「友左坊」の句碑や、明治に三派に分かれていた美濃派を統合した「各務於菟」の句碑などが並んでいます。

「友左坊」の墓も境内にはあります。

中山道に戻り200mほど西へ進むと「自然居士之墓」碑があります。

自然居士之墓

本巣郡巣南町美江寺七軒町

北緯

35

24

33.2

東経

136

39

41.7

自然居士の生立ち
自然居士は和泉の国(大坂府)日根郡自然田村で生まれ、臨済宗南禅寺大明国師(1212〜1291)に師事し、
鎌倉後期(1300年頃)の禅僧と考えられるが生没年月ははっきりしません。

「自然居士」は和泉国(大坂府)生まれの鎌倉後期の禅僧で美江寺に滞在し、
千躰仏を作り、この地で没しました。

「自然居士」の千躰仏は美江寺宿西の「千躰寺」に安置されていますので後ほど御案内します

碑の横道を奥に入ると朽ちた立て札があります。

どれが自然居士に墓?
正徳五年(1715年)、時の領主(加納藩主)安藤対馬守信友が美江寺村を巡視し、
古跡を訪ねたのに対し庄屋が案内したのが自然居士之墓であったと伝えられています。
墓には多数の五輪塔があってどれが、自然居士のものかはっきりしません。

中山道をさらに西へ100mほど進むと、街道は「美江神社」の鳥居へ出ます。
ここを左(南)へ中山道は曲がります。

信号から真っ直ぐに延びる道は大正時末期に作られた道で宿場にはありませんでした。

中山道分間延絵図(美江寺宿)東京国立博物館蔵

美江寺宿
美江寺は既に、天正十七年(1589)豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられ、往還の荷物中継ぎの業務に
当たっていましたが、江戸時代になって中仙道が整備されるに及んで、
近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となりました。

寛永十四年(1637)四月伝馬役家と徒歩役家各々二十五軒を定めて問屋の支配下におき、
交通業務に当たったのが、美江寺宿公式開設であります。

宿場機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1669)春、時の領主「加納藩」の
戸田丹波守光永によって建設され、問屋「山本金兵衛画管理を兼ねました。
以後、「山本家」が世襲して宿駅制廃止まで継承しました。

一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕府改革の影響でしょう。

明治三年(1870)閏(うるう)十月、民部省布告による「宿駅制廃止」に伴い、宿場の歴史を閉じました。

「美江明神」(みえみょうじん)
「美江神社」の創建は不詳ですが960年頃の「美濃国神名帳」には「美江明神」として記されているそうです。
明寺14年に「美江神社」と改め近くの日吉神社、八幡神社、神明宮、貴船神社を合祀しました。

宿の枡形
枡形が「美江神社」と「宿場」の出口と「新月橋」を渡って「千躰寺」にも一つあります。

「美江寺宿の枡形」へ出ます。

美江神社

美江寺宿高札場跡

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

30.9

東経

136

39

35.5

宿の中央に当たる曲がり角に建っています。
創建年は不詳ですが熊野三所大権現が祀られ、かっては権現様と呼ばれていたそうです。

神社の入り口付近には「高札場」があったそうです。

伊賀の国から十六条村へ
 美江寺観音は養老年間(717〜724年)に勅願所として建立されました。
各時代の守護に厚い保護を受け盛時には二十四坊を数えました。

道三に持ち去られた観音様

 盛時には二十四坊を数えた寺も兵火にかかり、その上、
大勢の信仰を集めていた本尊を「斎藤道三」が天文十八年(1549年=関が原合戦の31年前)岐阜へ持ち去ってしまいました。
永禄十年に織田信長が現在地にお堂を建ててお祭りしました。
(現在の岐阜市美江寺町にあり)

鳥居脇に立つ宿碑

境内の宿碑

美江神社の拝殿

 

拝殿内にある「陶器の狛犬」

美江神社の境内にある美江寺観音で井之口(岐阜)を発展させるために、当時蚕にご利益があると人気だった
美江寺観音菩薩を斉藤道三が井之口へ持ち去られてから住民が再度建立した観音様です

美江寺宿
美江寺観音

本巣郡巣南町美江寺

養老三年(719)に美濃遷都を考えていた元正天皇が伊賀寺の十一面観音像を移したのが開祖です。

美江神社の境内
 斎藤道三に持ち去られた観音の代わりに、
宿の人々が互いに金を出し合い再建した、観音様です。

蔵から出てきた観音像
戦国時代、斎藤道三により、現在の岐阜市に移されたため、廃寺になり、宿場時代には本尊はなかったが、
明治36年に夢のお告げで、庄屋「和田家」の蔵にあった観音像を祀り堂を立てて現在にいたりました。

以前は観音像の両側の段にあった「自然居士」が彫ったと伝えられる「千躰仏」は今は、
千躰堂(のちほど紹介)へ移されています。

明治36年に夢のお告げで、庄屋「和田家」の蔵にあった観音像

観音堂の脇の「観音石」 境内に合祀されている秋葉様 境内に合祀されているお稲荷さん

美江神社前の信号器三叉路をそのまま西へ進んで伊久良河宮へ行ってみましょう(約2300m西北)

伊久良河宮跡
(いくらのかわみや)

本巣郡巣南町井居倉

北緯

35

25

07.8

東経

136

38

38.5

伊勢神宮が出来る前の神宮
伊勢神宮は皇祖天照大神をお祭りし、皇位のしるしに八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としている。
伊勢の皇大神宮は、垂仁天皇の御代に「伊久良河宮」として、当地居倉に祭られていた。
このことは、日本書紀・延暦儀式帳・倭姫命世記などの古い書物に記されている。
(現地説明板より)
正面は天神神社で御船代石は天神本宮右側にお祭りしてあります

倭姫命は天照大神の御霊代を祀る地を探し
 倭姫命は、垂仁天皇10年、倭姫命は天照大神の御霊代を祀る地を探し、淡海国 坂田宮
より美濃国伊久良河の地にたどり着く、この地に、垂仁天皇14年までの約4年滞在する。
この時「伊久良河宮」としてこの地に社殿が作られたのが始まりと伝えられる。

倭姫命は2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、「中嶋宮」
(酒見神社と坂手神社の説がある)に滞在することとなる。

「伊久良河宮 天神宮」、「天津神神社」とも呼ばれていたが、明治6年(1873年)、
天神神社に改称する。

伊久良河宮跡(いくらがわみや)
 垂仁天皇(すいにん)のとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)が伊勢に祀られる前、お祀りするにふさわしい場所を求め
各地を遷ったとき4年間鎮座したと伝えられる場所。

伊久良河宮跡として、居倉天神神社があります。
全国に8万数千もある神社のおおもと伊勢神宮のふるさとがこの伊久良河宮跡です。
ここにある御船代石は、文化庁の全国遺跡地図に祭祀遺跡として載せられてお、保護されています。

御船代石
このあたりが「伊久良河宮」として皇大神宮が祭られていたところでる。
古い絵図には、御船代石の前にも拝殿があり、大切にお祭りされていたことが分かる。
御船代石とは、神の宿る意思と言う意味である。この御船代石あたりが昔の御禁足地で、
神獣文鏡などの祭祀遺物が出土している

岐阜県特産の富有柿発祥地は伊勢神宮のふるさと伊久良河宮跡の居倉天神鳥居の西側にあります

岐阜県名産品の
富有柿発祥地

本巣郡巣南町居倉(瑞穂市居倉)

北緯

35

25

07.2

東経

136

38

46.5

居倉御所という柿の種類

 文政3年(1820)頃、当時50代半ばだった小倉ノブが御所柿を家屋に近い場所に植えた。
 御所柿が植えられた場所は、美濃国大野郡居倉村(現在の瑞穂市居倉)で、隣には元伊勢のひとつに数えられる伊久良河宮跡である天神神社があり由緒は神代にまで遡る。

 この神社、もしくは地名にちなみ、植えられた御所柿はいつしか「居倉御所」と呼ばれるようになった。 御所柿とは甘柿の品種のひとつで奈良県御所市が原産とされる。 ただし、大きな甘柿の総称として「御所柿」の呼び名が使われ、代表的な品種に晩御所(岐阜)、天神御所(岐阜)、次郎(静岡)、花御所(鳥取)、そして、この居倉御所(岐阜)、後の富有がある。

 安政4年(1857)、小倉ノブの孫に当たる小倉長蔵が居倉御所の栽培を開始し、福嶌才冶(慶応元年に当地で生まれた)さんが研究の結果今までより大きくて立派な実がなるようになりました。この柿全国的な品評会に入勝を重ね農林省園芸試験場にも認められ天皇陛下への献上にも及んだ。其の柿は、富有柿と命名され日本各地に広まった。
              (現地の碑より)

岐阜で生まれた富有柿
 この名前の由来は、中国の書物「礼記」。「富有」が天下を治める」と言う意味であることから名付けられました。                                          

柿一般
柿の種類は世界に千以上あると言われ、産地によって大きさや形、甘さや渋さなど、様々なちがいがあります。
日本にはそのままでも甘い柿がありますが、それは突然異変で生まれた日本固有の種類。 世界でも”Kaki”という
表記でしられています。  (生活情報誌 月刊 ぷらざ より)                                

果宝柿(かほうがき)
 全国一の出荷額を誇る特産富有柿の高級品「袋掛け富有柿」のブランド名を「果物の宝物」の意味を込めて「果宝柿」に2008年10月に決まりました。         

もう一度、美江寺宿の美江神社前の信号三叉路まで戻ります

美江寺宿庄屋屋敷
「和田家」

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

30.1

東経

136

39

34.3

「美江神社」前の枡形角にあります。

美江寺宿の古い家並み
 今も古い家並みが往時の面影を残しています。

江戸時代
 
「中山道」が整備されると近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となり発展しました。

五十四宿発足
 寛永十四年(1637)四月 駅伝役家と歩行役家、
各々二十五軒を定めて問屋の支配下に置き
交通業務の公式開設に持ち込みました。

旅籠
 一般旅人のための旅籠や茶屋は年代によって
増減はありますが宿場の位置からして経営は
苦しかったようです。

美江寺宿の大きな出来事
和宮親子内親王の江戸下向

 当宿場の大きな出来事は江戸末期の文久元年(1861年)十月二十六日の和宮親子内親王の江戸下向の途次の当宿場での小憩と、

東征軍東山鎮撫隊
 慶応四年(1868年)二月二十一から二十二日両日、当地を発進地とした東征軍東山鎮撫隊の事は大きな出来事でした。

「本陣」
 宿場機関の一つである本陣は宿場開設より二十二年後の寛文九年(1669年)となりました。
 時の領主、加納藩の戸田丹波守光永によって建設され、問屋「山本金兵衛」が管理を兼ね増した。
 以後は山本家が世襲し宿場制度が廃しされるまで継承しました。

美江寺宿
本陣
問屋跡

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

24.6

東経

136

39

33.8

宿場制度による駅伝業務再開
古くから養蚕の信仰が厚かった「美江寺観音」があったため近郷からの参拝者も多く、
谷汲街道があったので通行人も多く物資の流通の拠点でもありました。

豊臣秀吉の時代問屋場が設けられ賑わった宿場が徳川時代の宿場制度が整備され駅伝業務も整えられましたが
隣の垂井宿や華やかな加納宿に押され、河渡宿と同様に精彩を欠き宿経営は苦しかったようです

初代は問屋「角右衛門」が管理
寛文九年(1669年)に領主加納藩主によって建設され、問屋「角右衛門」が管理したそうですが、
初代から三代目までが、不都合(不祥事)により追放、その後、「金兵衛」が問屋役となり苗字帯刀を許され「山本」と名乗り、
以来「山本家」が世襲で経営管理に当たってきたそうです。
本陣の規模は「長さ三間半(約6m)、梁二間(約4m)湯殿雪隠(トイレ)共」という小規模なものでした。
住まいと問屋場は別棟で、旅人のほとんどは通過客で宿泊は無かったようです。

濃飛震災で宿場は全壊
寛永年間には「伝馬役」と「徒歩役」各々二十五軒を定め問屋「山本家」の支配下に置き駅伝業務をした記録が残っています。

濃飛震災時に宿場は一軒を除き全壊し、その後建てなおされましたが、
損傷が激しく平成三年に再建築されました。

改築
 十数年前に来たときは古い本陣の面影を残した建物でしたが、今は建て直されていました。

美江寺宿問屋役の交替
江戸時代の初期に、角右衛門、其の養子三蔵、三蔵の子長助が問屋場をしきっていました。
この長助が次の罪状で慶安二年(1651)に追放処分となった。

一、上方の商人が江戸へ送った繰綿十駄を美江寺宿継立ての夜、一梱包を破り半分抜き取って、代わりに藁を詰めて、
  次の宿場へ送った。
一、鍋島侯家臣三人が伝馬継立てを要求したのが応ぜず、悪態までついた。
一、越前松平候家中の侍八人の通行が俄か(にわか)であったので伝馬継立てを拒否した。
一、近藤庄兵衛野家来が加納宿まで到着できず日が暮れて、宿泊を申し出たが拒否した。
一、美江寺宿の氏神の田を数年にわたり耕作しながらその分の年貢米を納めなかった。
一、長助の父三蔵の養父角右衛門は、自分の屋敷内に村共同の米蔵を作り、其の途市の残米を横領し代官に切りつけ   られた。翌年自分の家に放火して類焼を及ぼし角右衛門は京都へ出奔した。
一、角右衛門の養子三蔵は、通行の人々とたびたび喧嘩をしでかした。また抜き身の槍を振り回し五年の入牢となってい   る。
 このような親子三代の不都合に迷惑をした美江寺村は加納藩に願い出て、その結果、長助は追放となった。
以後は金兵衛が問屋と也世襲したのが山本家である。

その後
山本家は俳諧美濃派の一派となるなど、文化活動も盛んで芭蕉百五十回忌に、
芭蕉句碑を瑞光寺に建てるなど宿に尽くした

 

開蒙学校跡

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

24.6

東経

136

39

33.8

開蒙学校跡 本陣跡の向かいにあります。

濃尾震災
 明治二十四年の濃尾大地震で酒屋一軒を残し全壊してしまいました。
 現在の建物はそれ以降の建物だと思われます。

美江寺城跡

本巣郡巣南町美江寺

北緯

35

24

26.8

東経

136

39

36.7

美江寺城跡は巣南町中(なか)小学校にあります。

校庭の西隅に模擬城壁と碑があります

戦国時代の美濃守護職「土岐氏」の武将だった「和田氏」の居城跡で、
「斎藤道三」に攻められ、天文十一年(1542年)に灰燼に帰しました。

美江寺城跡
 室町時代に美濃国守護職であった「土岐氏」の部侍「和田八郎」画応仁・文明の頃(1460年代)
本巣郡舟木左十六条に居館を構えたのが「美江寺城の創設です。

 その後「八郎」の子「和田佐渡守」、次いで「和田伊予守高成」、「和田持監高行」と代々此処に遽って土岐氏に至りました。

斎藤道三が台頭して守護職「土岐頼盛と軍を構えた時美江寺城主は「和田持監」であった、
天文十一年(1542年)道三の軍勢が美江寺城を襲い九月四日夜これを攻略し城は灰燼に帰しました。

 いつの頃か城址に神明神社が祀られましたが大正三年(1914年)神社を美江神社に遷して
此処に小学校が建てられました。

 

美江寺宿西口道標

本巣郡巣南町十七条

北緯

35

24

19.7

東経

136

39

34.7

「美江神社」から南へ400mほどの「T字路」に道標があります。

宿場は終わり
 家並みも三丁ほどで途切れ道は西に曲がります。 真っ直ぐは大垣道。

真っ直ぐ南が大垣、墨俣へ、西が「赤坂宿」です。

大化改新の「条里の里」
 このあたりは今でも十七条と当時の名残が残っています。

中山道は西の「呂久(ろく)の渡し」

「道標」から100mほどで観音堂に出ます
途中に「中山道」の案内板があります

 

美江寺宿
千手観音堂

本巣郡巣南町十七条

北緯

35

24

18.1

東経

136

39

31.1

   

観音堂のを過ぎるとすぐに「犀川」(さいかわ)の「新月橋」(しんげつ)を渡ります。

昔はよく氾濫した「犀川」

   

100mほど西に進むと中山道は突き当たりに出ます。

千躰堂(千躰寺)

本巣郡巣南(すなみ)町新月

北緯

35

24

17.9

東経

136

39

26.3

三つ目の枡形に「千躰堂」(千躰寺)があります
この「千躰寺」に「自然居士」の千躰仏は安置されています。
「自然居士」は和泉国(大坂府)生まれの鎌倉後期の禅僧で美江寺に滞在し、 千躰仏を作り、この地で没しました。

祠の前を南に曲がり西にカーブしながら犀川と平行に進むと「神明神社」があります。

神明神社

本巣郡巣南(すなみ)町田之上

北緯

35

24

11.8

東経

136

39

22.7

「神明神社」  このあたりは昔、松並木だったそうです。

   

さらに600mほど進み長護寺川に当たり右折し、「県道156号線」に出ます。

県道156号線合流点

北緯

35

23

59.4

東経

136

39

13.2

画面左の建物(巣南中学)前から「県道156号」へ
正面に見えるのが民家風の交番

「県道156号」を南へ150mほど進むと民家風の交番手前に案内板があり昔の中山道の跡に新しい道が作られています。

新しい中仙道を西へ辿ると、市の厚生施設の庭があり、その向こうに中山道が堤防に向かって延びています

50mほどで左折すると中山道へ
(最近道路工事で中山道が一部消えています)

中山道消滅区間 No.9

No.20 中山道車両通行不能区間

場所

本巣郡巣南(すなみ)町大月

場所

本巣郡巣南町大月

から

   
   
   

 

 

本巣郡巣南町大月

まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

 

消えゆく中山道

本巣郡巣南(すなみ)町大月

北緯

35

23

52.0

東経

136

39

10.7

戦前の中山道

左折したあとは真っ直ぐに堤防へ向って進むと「揖斐川」へ出ます。
橋は県道156号線に架かる「鷺田橋」(さぎた)です。

堤防から振り返って見る「中山道」

 

呂久の渡し跡付近
(東側)

北緯

35

23

35.9

東経

136

38

50.0

(東側)
 天正時代、織田信長が岐阜に在城し、天下統一ため京に近く交通の要衝である近江の安土城

 に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、

 赤坂−呂久−美江寺−河渡−加納の新路線が栄えるようになりました。

 

鷺田橋

本巣郡巣南(すなみ)町大月

北緯

35

23

28.5

東経

136

38

49.6

対岸の渡し付近は大垣市でなく巣南町のままです。

呂久の渡し(西側)

 天正時代から栄えた街道は江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来
 交通の要所となりました。

 慶長十五年(1610年関ヶ原合戦後10年目)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭八人、助務七人がおかれていました。

現在は対岸へは先ほどの「鷺田橋」を渡ります

この付近紹介

神様・川崎平右衛門

 保住町一円を治めた本田村陣屋の代官で、牛牧(うしき)閘門(きもん=水門)を築き五六川沿いの村々を水害から守り、のちに神として祀られました。 

現在でもその「閘門」は立派に働いています。

牛牧(うしき)地区に残っている「閘門」

五六川からは遠いのですが重要文化財の「船頭平閘門」を紹介します

船頭平閘門

愛知県海部郡立田村大字福原新田

北緯

35

07

47.1

東経

136

40

58.3

工事費は15万円(約5億円) 
船頭平閘門は、明治32年(1899)から2年7ヶ月を費やし明治35年(1902)に完成しました。
 浸透水が非常に多く、排水作業が大変であったため、
工事は思いのほか難工事でした。
 工事費は、15万4,836円11銭9厘で、今日の費用に
換算すると約5億円になります。

設置の目的
木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)は明治20〜45年に
河川工事により三川が分流されました。
しかし、当時は未だ貨物や旅客の揺さ輸送は舟運が主で、水面の高低差が約1mもあり 東西の往来ができなくなり,木曽川・長良川の水運が途絶し,桑名港が衰退したため、
基本的には,パナマ運河の閘門と同じ造りの閘門を造り
問題を解決しました。

船頭平閘門の
概要写真

閘門の構造
この閘門は複閘式で門扉が二重となっており我が国初めてのものです。

   

旧閘門管理棟

ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke 1842-1913)
1842年、オランダのゼーラント州コリンスプラートで、海岸港湾建設業者の息子として生まれました。
家業に従事しながら土木工学を学び、1873(明治6)年に来日、1910(明治43)年に帰国するまで、
日本各地の河川・港湾の土木工事の計画・指導をしました。1913年、アムステルダムで死去。

木曽川文庫
宝暦治水、明治改修や木曽三川の町村資料が
豊富に揃っています

改修により取り外された旧門扉
完成以来90年余り活躍し、長年の歴史に耐えてきた閘門は、平成6年に改築工事が行なわれました。
 この改修により劣化して水密性の落ちた水門扉をステンレス製に取り替えられました。
内側の小さい扉が、たて6.8m、よこ3.2m、重さ約9トン、外側の大きい扉が、たて7.6m、よこ3.2m、
重さ約10トンあります。
 その他には、閘門開閉装置の手動から電動への切り替え、石積みの補修の工事が行なわれました。
 改築にあたっては、明治当時の景観や構造をなるべく残すように配慮されました。

このほか、この近辺にある「おちょぼ稲荷」の紹介

千代保稲荷神社
室町時代の文明年間、八幡太郎義家の子孫で豪族の森八海が一帯を開拓し、社をまつったのが
始まりとさています。もともとは森家の屋敷神であったが、庶民信仰の対象として人気を集め、
戦後以降本格的に門前町が形成され、水商売の神様としておまいりが多くなりました。
千代保のいわれ
千代保神社には先祖の霊廟、宝剣、義家の画像の3点があり、
これを千代に保てとの伝えがありこれが千代保稲荷の語源となったそうです。
おみくじやお守りを一切出さないわけ。
おみくじやお守りを出さない理由は、上の社宝3点の「霊を分けない」ということからだそうです。

富有柿発祥の地、牛牧閘門、千代保稲荷については近日詳しい画像を掲載する予定です。

では中山道へ戻り「呂久の渡し」で呂久へ

鷺田橋

本巣郡巣南(すなみ)町大月

北緯

35

23

28.5

東経

136

38

49.6

現在は対岸へは先ほどの「鷺田橋」を渡ります

呂久の渡し(西側)

 天正時代から栄えた街道は江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来
 交通の要所となりました。

 慶長十五年(1610年関ヶ原合戦後10年目)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭八人、助務七人がおかれていました。

次は「皇女和宮記念公園」(呂久の渡し跡)へ進みます。

街道コラム

【美江寺宿の整備】

 美江寺宿は、延宝三年(1675)、総戸数は八十九軒で、街道筋に五十九軒が軒を並べていた。ところが此の内、座敷に畳の敷いてある家が八軒、畳が無く、むしろ敷きの家が十三軒、あとは度座(土間)家が多く、商家も旅籠もない宿場であった。

 これでは宿場としての機能を果たすことができないと、元禄十二年(1699)、幕府は美江寺宿の補強に取りかかり、1080余人の人足を雇って、家々の補修から井戸まで設け、また五十二両余の助成金を交付して町並みの閾値に家を建て、間口一間につき金二分の引越し助成金を付けて他村からの移住を推進し、美江寺宿の発展を図った。

 その結果、天保十四年(1843)には、総家数136軒、旅籠11軒の宿場となった。