中山道六十九次のうち五十六宿目で中山道美濃十六宿の十二番目の宿「美江寺宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県本巣郡巣南町 美濃国 樽見鉄道美江寺駅下車 |
「美江寺宿」巻は、谷汲山参道道標と谷汲巡礼街道、「まくわうり」発祥の「真桑村」、「美江寺一里塚跡」、「端光寺句碑群」、
「自然居士の墓」、陶器の狛犬がある「美江神社」と美江寺宿高札場跡、道山に岐阜へ持っていかれた「美江寺観音」、庄屋屋敷
「和田家」、美江寺宿本陣跡と美江寺宿問屋跡、開蒙学校跡、「美江寺城跡」、伊勢神宮のふるさと伊久良河(いくらがわ)宮跡、
伊久良河宮跡となりに植えられた御所柿から生まれた富有柿発祥地、美江寺宿西口の「道標」と、美江寺千手観世音堂、
自然居士が千体彫った「千躰堂」、神明神社、公共工事で「消えた中仙道」、鷺田橋、立田村のパナマ運河「船頭閘門」
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
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美江寺宿 |
宿場の概要 幕領・大垣藩領、 宿高 八百九十八石、 人口 582人、 家数 136軒、 旅籠 十一軒、 本陣 一軒、 脇本陣 なし、 合渡宿から 一里六丁(合渡宿一里塚) 赤坂宿まで 二里八丁(美江寺一里塚、青木一里塚) |
豊臣秀吉時代から重要視された宿場 美江寺宿は徳川家康による街道整備が進む前から豊臣秀吉の命によって宿場として 谷汲分岐から二丁ほど進むと美江寺観音があった「美江神社」へ出ます。 東の「河渡の渡し」(長良川)と、西の「呂久(ろく)の渡し」(揖斐川)の中間にある宿。 また、すぐ東に五六川、西に犀川に挟まれ豪雨の度に宿場に通じる道は冠水したそうです。 江戸より五十五宿、百七里十四丁(421.7km) 京へは二十八里八丁(110.9km) |
中山道分間延絵図(東京国立博物館蔵)の文字を判読してみました |
現在の住宅地図にこれから、ご案内する場所を表示してみました。比較してください |
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美江寺宿は「脇本陣」はありませんでした。
「高札場」は「美江神社」の前にあったそうです。
また、「問屋場」は「本陣」が兼ねていたそうです。
「岐蘇路安見絵図」による当時の美江寺宿の解説は
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美江寺
半里北に真桑村あり、瓜の名物也 ろく川、くいぜ川と云。舟わたし。半り下を、さはたり川と云。 |
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「岐蘇路安見絵図」にある「まくわ瓜」の名産地紹介
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美江寺宿の始まり
美江寺は徳川幕府の宿場制が整備される以前の天正十七年(1598)に豊臣秀吉の下知により「問屋場」が設けられ
往還(五街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に当たったのが始まりです。
美江寺宿の公式開設
江戸時代になって「中山道が整備されるに及んで、寛政十四年(1637年)、「伝馬役家」と「徒歩役家」を各々二十五軒を定め
問屋の支配下におき、子打つ業務にあったのが、美江寺宿の公式開設です。
関ヶ原合戦と美江寺宿
徳川家康 関ヶ原合戦の時、家康は江戸から十日間でここ美江寺まで兵を進めました
歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 美江寺」(大判錦絵) |
宿繁栄計画(1)、酒屋業創立 宿繁栄計画(2)、移住計画と宅地造成 宿繁栄計画(3)、飯盛女野許可願い 宿繁栄計画(4)、稽古相撲興行 |
「中山道」は「五六川」を渡って1800mほど西へ行くと「美江寺宿」の入り口にある樽見鉄道の踏切を渡りす。
そこが「美江寺宿」の入り口です。
美江寺宿入口 樽見鉄道踏切 |
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この付近はところどころに「中山道」の標識があります。 |
「美江寺宿」入り口の樽見鉄道「樽見線」踏切 |
美江寺宿 本巣郡巣南町美江寺 |
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谷汲参道 岐阜から赤坂までの中山道で北に向かう街道があれば、それはほとんど谷汲参道と言ってもかまいません。 びっくりするほどの参道が谷汲を目指しています。 ここ赤坂宿の入り口の路傍にも「北方 谷汲ニ至ル」の道標があります。 |
小さな橋のガードレールの横に立つ「道標」 |
谷汲巡礼街道 |
今から千二百年前からの由緒ある参道です。 |
谷汲巡礼街道 |
谷汲の由来 |
谷汲山華厳寺参道 |
再び中山道へ戻ります。
樽見鉄道の踏切をわたり200mほどに「美江寺一里塚跡」があります。
美江寺宿一里塚跡 本巣郡巣南町美江寺 |
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中山道の両側とも大正時代に開墾され宅地になったため「一里塚」の 名残もなく民家になっています。 |
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民家とガレージの間に「美江寺一里塚跡」碑が建っています。 |
最近「一里塚碑」の建っていた民家が壊されて空き地になっていました。 |
「一里塚碑」の立つ東(手前)の信号機のある路地を北に入ると「瑞光寺」があります。
瑞光寺句碑群 本巣郡巣南町美江寺七軒町 |
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瑞光寺は浄土宗西山派の寺院で、美濃派獅子門 第九世道統山本友左坊の菩提寺です。
細い路地を200mほど進むと広い道に出まると「瑞光寺」があります。 |
寺名号碑 |
境内に立つ史跡碑 |
「瑞光寺」は本陣当主の菩提寺
「瑞光寺」は美濃派獅子門第九世道統で、美江寺宿の本陣兼問屋場だった山本家の山本友左坊の菩提寺です。
天保十四年(1843)に本陣当主「友左坊」が近所の俳人数人と芭蕉句碑「旅人と我名呼れん初時雨」 |
「友左坊」の句碑や、明治に三派に分かれていた美濃派を統合した「各務於菟」の句碑などが並んでいます。 |
「友左坊」の墓も境内にはあります。 |
中山道に戻り200mほど西へ進むと「自然居士之墓」碑があります。
自然居士之墓 本巣郡巣南町美江寺七軒町 |
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自然居士の生立ち
自然居士は和泉の国(大坂府)日根郡自然田村で生まれ、臨済宗南禅寺大明国師(1212〜1291)に師事し、
鎌倉後期(1300年頃)の禅僧と考えられるが生没年月ははっきりしません。
「自然居士」は和泉国(大坂府)生まれの鎌倉後期の禅僧で美江寺に滞在し、 |
「自然居士」の千躰仏は美江寺宿西の「千躰寺」に安置されていますので後ほど御案内します
碑の横道を奥に入ると朽ちた立て札があります。 |
どれが自然居士に墓? |
中山道をさらに西へ100mほど進むと、街道は「美江神社」の鳥居へ出ます。
ここを左(南)へ中山道は曲がります。
信号から真っ直ぐに延びる道は大正時末期に作られた道で宿場にはありませんでした。 |
中山道分間延絵図(美江寺宿)東京国立博物館蔵 美江寺宿 寛永十四年(1637)四月伝馬役家と徒歩役家各々二十五軒を定めて問屋の支配下におき、 宿場機関の一つである本陣は、宿場開設より三十二年後の寛文九年(1669)春、時の領主「加納藩」の 一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕府改革の影響でしょう。 明治三年(1870)閏(うるう)十月、民部省布告による「宿駅制廃止」に伴い、宿場の歴史を閉じました。 「美江明神」(みえみょうじん) 宿の枡形 |
「美江寺宿の枡形」へ出ます。
美江神社と 美江寺宿高札場跡 本巣郡巣南町美江寺 |
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宿の中央に当たる曲がり角に建っています。
創建年は不詳ですが熊野三所大権現が祀られ、かっては権現様と呼ばれていたそうです。
神社の入り口付近には「高札場」があったそうです。
伊賀の国から十六条村へ |
道三に持ち去られた観音様
盛時には二十四坊を数えた寺も兵火にかかり、その上、
大勢の信仰を集めていた本尊を「斎藤道三」が天文十八年(1549年=関が原合戦の31年前)岐阜へ持ち去ってしまいました。
永禄十年に織田信長が現在地にお堂を建ててお祭りしました。
(現在の岐阜市美江寺町にあり)
鳥居脇に立つ宿碑 |
境内の宿碑 |
美江神社の拝殿 |
拝殿内にある「陶器の狛犬」 |
美江神社の境内にある美江寺観音で井之口(岐阜)を発展させるために、当時蚕にご利益があると人気だった
美江寺観音菩薩を斉藤道三が井之口へ持ち去られてから住民が再度建立した観音様です
美江寺宿 本巣郡巣南町美江寺 |
養老三年(719)に美濃遷都を考えていた元正天皇が伊賀寺の十一面観音像を移したのが開祖です。
美江神社の境内 |
蔵から出てきた観音像
戦国時代、斎藤道三により、現在の岐阜市に移されたため、廃寺になり、宿場時代には本尊はなかったが、
明治36年に夢のお告げで、庄屋「和田家」の蔵にあった観音像を祀り堂を立てて現在にいたりました。
以前は観音像の両側の段にあった「自然居士」が彫ったと伝えられる「千躰仏」は今は、 |
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明治36年に夢のお告げで、庄屋「和田家」の蔵にあった観音像 |
観音堂の脇の「観音石」 | 境内に合祀されている秋葉様 | 境内に合祀されているお稲荷さん |
美江神社前の信号器三叉路をそのまま西へ進んで伊久良河宮へ行ってみましょう(約2300m西北)
伊久良河宮跡 本巣郡巣南町井居倉 |
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伊勢神宮が出来る前の神宮 伊勢神宮は皇祖天照大神をお祭りし、皇位のしるしに八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としている。 伊勢の皇大神宮は、垂仁天皇の御代に「伊久良河宮」として、当地居倉に祭られていた。 このことは、日本書紀・延暦儀式帳・倭姫命世記などの古い書物に記されている。 (現地説明板より) |
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正面は天神神社で御船代石は天神本宮右側にお祭りしてあります |
倭姫命は天照大神の御霊代を祀る地を探し 倭姫命は2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、「中嶋宮」 「伊久良河宮 天神宮」、「天津神神社」とも呼ばれていたが、明治6年(1873年)、 |
伊久良河宮跡(いくらがわみや) 伊久良河宮跡として、居倉天神神社があります。 |
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御船代石 このあたりが「伊久良河宮」として皇大神宮が祭られていたところでる。 古い絵図には、御船代石の前にも拝殿があり、大切にお祭りされていたことが分かる。 御船代石とは、神の宿る意思と言う意味である。この御船代石あたりが昔の御禁足地で、 神獣文鏡などの祭祀遺物が出土している |
岐阜県特産の富有柿発祥地は伊勢神宮のふるさと伊久良河宮跡の居倉天神鳥居の西側にあります
岐阜県名産品の 本巣郡巣南町居倉(瑞穂市居倉) |
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居倉御所という柿の種類 文政3年(1820)頃、当時50代半ばだった小倉ノブが御所柿を家屋に近い場所に植えた。 この神社、もしくは地名にちなみ、植えられた御所柿はいつしか「居倉御所」と呼ばれるようになった。 御所柿とは甘柿の品種のひとつで奈良県御所市が原産とされる。 ただし、大きな甘柿の総称として「御所柿」の呼び名が使われ、代表的な品種に晩御所(岐阜)、天神御所(岐阜)、次郎(静岡)、花御所(鳥取)、そして、この居倉御所(岐阜)、後の富有がある。 安政4年(1857)、小倉ノブの孫に当たる小倉長蔵が居倉御所の栽培を開始し、福嶌才冶(慶応元年に当地で生まれた)さんが研究の結果今までより大きくて立派な実がなるようになりました。この柿全国的な品評会に入勝を重ね農林省園芸試験場にも認められ天皇陛下への献上にも及んだ。其の柿は、富有柿と命名され日本各地に広まった。 |
岐阜で生まれた富有柿 |
柿一般 柿の種類は世界に千以上あると言われ、産地によって大きさや形、甘さや渋さなど、様々なちがいがあります。 日本にはそのままでも甘い柿がありますが、それは突然異変で生まれた日本固有の種類。 世界でも”Kaki”という 表記でしられています。 (生活情報誌 月刊 ぷらざ より) |
果宝柿(かほうがき) |
もう一度、美江寺宿の美江神社前の信号三叉路まで戻ります
美江寺宿庄屋屋敷 本巣郡巣南町美江寺 |
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「美江神社」前の枡形角にあります。
美江寺宿の古い家並み |
江戸時代
「中山道」が整備されると近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となり発展しました。
五十四宿発足 旅籠 |
美江寺宿の大きな出来事
和宮親子内親王の江戸下向
当宿場の大きな出来事は江戸末期の文久元年(1861年)十月二十六日の和宮親子内親王の江戸下向の途次の当宿場での小憩と、
東征軍東山鎮撫隊
慶応四年(1868年)二月二十一から二十二日両日、当地を発進地とした東征軍東山鎮撫隊の事は大きな出来事でした。
「本陣」
宿場機関の一つである本陣は宿場開設より二十二年後の寛文九年(1669年)となりました。
時の領主、加納藩の戸田丹波守光永によって建設され、問屋「山本金兵衛」が管理を兼ね増した。
以後は山本家が世襲し宿場制度が廃しされるまで継承しました。
美江寺宿 本巣郡巣南町美江寺 |
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宿場制度による駅伝業務再開
古くから養蚕の信仰が厚かった「美江寺観音」があったため近郷からの参拝者も多く、
谷汲街道があったので通行人も多く物資の流通の拠点でもありました。
豊臣秀吉の時代問屋場が設けられ賑わった宿場が徳川時代の宿場制度が整備され駅伝業務も整えられましたが
隣の垂井宿や華やかな加納宿に押され、河渡宿と同様に精彩を欠き宿経営は苦しかったようです
初代は問屋「角右衛門」が管理
寛文九年(1669年)に領主加納藩主によって建設され、問屋「角右衛門」が管理したそうですが、
初代から三代目までが、不都合(不祥事)により追放、その後、「金兵衛」が問屋役となり苗字帯刀を許され「山本」と名乗り、
以来「山本家」が世襲で経営管理に当たってきたそうです。
本陣の規模は「長さ三間半(約6m)、梁二間(約4m)湯殿雪隠(トイレ)共」という小規模なものでした。
住まいと問屋場は別棟で、旅人のほとんどは通過客で宿泊は無かったようです。
濃飛震災で宿場は全壊
寛永年間には「伝馬役」と「徒歩役」各々二十五軒を定め問屋「山本家」の支配下に置き駅伝業務をした記録が残っています。
濃飛震災時に宿場は一軒を除き全壊し、その後建てなおされましたが、
損傷が激しく平成三年に再建築されました。
改築 十数年前に来たときは古い本陣の面影を残した建物でしたが、今は建て直されていました。 |
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美江寺宿問屋役の交替 一、上方の商人が江戸へ送った繰綿十駄を美江寺宿継立ての夜、一梱包を破り半分抜き取って、代わりに藁を詰めて、 その後 |
開蒙学校跡 本巣郡巣南町美江寺 |
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開蒙学校跡 本陣跡の向かいにあります。 |
濃尾震災
明治二十四年の濃尾大地震で酒屋一軒を残し全壊してしまいました。
現在の建物はそれ以降の建物だと思われます。
美江寺城跡 本巣郡巣南町美江寺 |
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美江寺城跡は巣南町中(なか)小学校にあります。 |
校庭の西隅に模擬城壁と碑があります |
戦国時代の美濃守護職「土岐氏」の武将だった「和田氏」の居城跡で、
「斎藤道三」に攻められ、天文十一年(1542年)に灰燼に帰しました。
美江寺城跡 その後「八郎」の子「和田佐渡守」、次いで「和田伊予守高成」、「和田持監高行」と代々此処に遽って土岐氏に至りました。 斎藤道三が台頭して守護職「土岐頼盛と軍を構えた時美江寺城主は「和田持監」であった、 いつの頃か城址に神明神社が祀られましたが大正三年(1914年)神社を美江神社に遷して |
美江寺宿西口道標 本巣郡巣南町十七条 |
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「美江神社」から南へ400mほどの「T字路」に道標があります。 |
宿場は終わり 家並みも三丁ほどで途切れ道は西に曲がります。 真っ直ぐは大垣道。 |
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真っ直ぐ南が大垣、墨俣へ、西が「赤坂宿」です。 |
大化改新の「条里の里」 |
中山道は西の「呂久(ろく)の渡し」へ |
「道標」から100mほどで観音堂に出ます
途中に「中山道」の案内板があります
美江寺宿 本巣郡巣南町十七条 |
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観音堂のを過ぎるとすぐに「犀川」(さいかわ)の「新月橋」(しんげつ)を渡ります。
昔はよく氾濫した「犀川」
100mほど西に進むと中山道は突き当たりに出ます。
千躰堂(千躰寺) 本巣郡巣南(すなみ)町新月 |
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三つ目の枡形に「千躰堂」(千躰寺)があります |
祠の前を南に曲がり西にカーブしながら犀川と平行に進むと「神明神社」があります。
神明神社 本巣郡巣南(すなみ)町田之上 |
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「神明神社」 このあたりは昔、松並木だったそうです。 |
さらに600mほど進み長護寺川に当たり右折し、「県道156号線」に出ます。
県道156号線合流点 |
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画面左の建物(巣南中学)前から「県道156号」へ |
「県道156号」を南へ150mほど進むと民家風の交番手前に案内板があり昔の中山道の跡に新しい道が作られています。 |
新しい中仙道を西へ辿ると、市の厚生施設の庭があり、その向こうに中山道が堤防に向かって延びています |
50mほどで左折すると中山道へ
(最近道路工事で中山道が一部消えています)
中山道消滅区間 No.9
No.20 中山道車両通行不能区間=m |
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場所 |
本巣郡巣南(すなみ)町大月 |
場所 |
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本巣郡巣南町大月 から |
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本巣郡巣南町大月 まで |
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迂回ルート(青)、中山道=緑 |
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消えゆく中山道 本巣郡巣南(すなみ)町大月 |
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戦前の中山道 |
左折したあとは真っ直ぐに堤防へ向って進むと「揖斐川」へ出ます。 |
堤防から振り返って見る「中山道」
呂久の渡し跡付近 |
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(東側) 天正時代、織田信長が岐阜に在城し、天下統一ため京に近く交通の要衝である近江の安土城 に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、 赤坂−呂久−美江寺−河渡−加納の新路線が栄えるようになりました。 |
鷺田橋 本巣郡巣南(すなみ)町大月 |
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対岸の渡し付近は大垣市でなく巣南町のままです。
呂久の渡し(西側)
天正時代から栄えた街道は江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来 慶長十五年(1610年関ヶ原合戦後10年目)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭八人、助務七人がおかれていました。 |
現在は対岸へは先ほどの「鷺田橋」を渡ります
この付近紹介
神様・川崎平右衛門 保住町一円を治めた本田村陣屋の代官で、牛牧(うしき)閘門(きもん=水門)を築き五六川沿いの村々を水害から守り、のちに神として祀られました。 現在でもその「閘門」は立派に働いています。 |
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五六川からは遠いのですが重要文化財の「船頭平閘門」を紹介します
船頭平閘門 愛知県海部郡立田村大字福原新田 |
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工事費は15万円(約5億円) 設置の目的 |
船頭平閘門の |
閘門の構造 |
旧閘門管理棟 |
ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke
1842-1913) |
木曽川文庫 |
改修により取り外された旧門扉 完成以来90年余り活躍し、長年の歴史に耐えてきた閘門は、平成6年に改築工事が行なわれました。 この改修により劣化して水密性の落ちた水門扉をステンレス製に取り替えられました。 内側の小さい扉が、たて6.8m、よこ3.2m、重さ約9トン、外側の大きい扉が、たて7.6m、よこ3.2m、 重さ約10トンあります。 その他には、閘門開閉装置の手動から電動への切り替え、石積みの補修の工事が行なわれました。 改築にあたっては、明治当時の景観や構造をなるべく残すように配慮されました。 |
このほか、この近辺にある「おちょぼ稲荷」の紹介
千代保稲荷神社 |
富有柿発祥の地、牛牧閘門、千代保稲荷については近日詳しい画像を掲載する予定です。
では中山道へ戻り「呂久の渡し」で呂久へ
鷺田橋 本巣郡巣南(すなみ)町大月 |
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現在は対岸へは先ほどの「鷺田橋」を渡ります |
呂久の渡し(西側)
天正時代から栄えた街道は江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来 慶長十五年(1610年関ヶ原合戦後10年目)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭八人、助務七人がおかれていました。 |
次は「皇女和宮記念公園」(呂久の渡し跡)へ進みます。
街道コラム
【美江寺宿の整備】美江寺宿は、延宝三年(1675)、総戸数は八十九軒で、街道筋に五十九軒が軒を並べていた。ところが此の内、座敷に畳の敷いてある家が八軒、畳が無く、むしろ敷きの家が十三軒、あとは度座(土間)家が多く、商家も旅籠もない宿場であった。 これでは宿場としての機能を果たすことができないと、元禄十二年(1699)、幕府は美江寺宿の補強に取りかかり、1080余人の人足を雇って、家々の補修から井戸まで設け、また五十二両余の助成金を交付して町並みの閾値に家を建て、間口一間につき金二分の引越し助成金を付けて他村からの移住を推進し、美江寺宿の発展を図った。 その結果、天保十四年(1843)には、総家数136軒、旅籠11軒の宿場となった。 |