垂井宿の南にある南宮大社、「永亨の乱」によって滅亡した足利持氏の遺児「春王丸」、「安王丸」結城氏再興のため
 蜂起し鎌倉幕府の総攻撃を受け敗退し捕らえられ京都への護送途中、この地で斬首。その墓などがある御所の等を紹介します

六十九次
のうち
五十八宿

岐阜県不破郡垂井町

美濃国

JR東海線垂井駅下車

「南宮神社」巻は、南宮大社参道に沿いにある垂井の泉、垂井城跡にある専精寺、垂井城跡碑、玉泉禅寺、春王・安王の墓と
関ヶ原合戦の池田輝政陣跡、悲運の春王丸・安王丸最期の金蓮寺、金連寺南のマンボ(横穴式井戸)、勝神社と勝宮古墳、
在原業平ゆかりの在原山薬師寺、千句の里の阿弥陀寺、九十九坊石仏・関ヶ原合戦の長曽我部盛親陣所跡・連理のサカキ・
竹中半兵衛の隠棲地のある栗原城址、南宮大社大鳥居、南宮神社摂社「吉葛神社」、美濃一の宮「南宮神社」、
関ヶ原合戦の「吉川広家陣跡」、高校のグランドつくりに邪魔になって壊された冑山古墳、佛足石のある清月院、
朝倉山真禅院と国重文の撞けない「梵鐘・北条政子寄進の「鉄塔」・国重文の「三重塔」、「伊勢桑名路道標」、大垣路道標、
比女神社、南宮神社摂社の大領神社、伊勢路南宮大社入り口常夜灯、美濃二の宮の大領神社、宮代廃寺跡
などをGPS位置情報と共に紹介します。

       

この頁で紹介する南宮大社参道区間図赤線:中山道 )
垂井南宮大社大鳥居南宮大社までの1,230mを案内します

南宮神社へは「垂井宿」中町にある大鳥居をくぐり南へ進みます。

南宮大社鳥居

不破郡垂井町垂井 中央

北緯

35

22

06.0

東経

136

31

40.8

鳥居脇の道標には「南宮社 江 八町」とあります。

鳥居を振り返ると道の両側は古い町並みが続きます。

南(左折)して、この大鳥居をくぐり南へ向うと「垂井の泉」へ出ます

 

垂井の泉

不破郡垂井町垂井 泉

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

「垂井」の名の起こり
聖武天皇の天平十二年(740年)行幸ゆかりの泉ともいわれ、
平安時代の藤原隆経の歌集「詞花集」に
「昔見し たる井の水かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」
から「垂井」の地名の起源でもあると言われています。

「大ケヤキ」の根元から湧き出る泉は旅人の喉を潤し、
古来から多くの旅人が歌に詠み、地元の人々の生活用水にもなっています。

 日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山征伐の折、毒気にあたり失神した時、この泉で意識を取り戻した。
 「居醒めの清水」ともいわれています。この事蹟を江戸末期の信州の国学者岩下貞融が碑文の原文に書き、境内の専精寺に残している。

「続日本記」にある「曳常泉」もこの場所?
「続日本記」天平十二年(740年)十二月条に見える、
美濃行幸中の「聖武天皇」が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くから由緒がある場所です。

松尾芭蕉も元禄四年(1691年)、本龍寺で冬ごもりをした、その時にこの泉を訪れ、
「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」
と作句しました。

大ケヤキ

不破郡垂井町垂井 泉

樹齢八百年
岐阜県指定の天然記念物「大ケヤキ」は高さ25m、目通り約8.2m
ありましたが、近年一部が風で折れ往時の風格はありません。

「垂井の泉」付近は神社仏閣があたくさん在ります。

「垂井の泉」の横にもお寺があります

垂井城址の
専精寺

不破郡垂井町垂井 泉

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

「垂井城」のあった寺
「垂井の泉」の上にある「専精寺」がります。
関ヶ原合戦に西軍に参戦した「平塚為広」「垂井城」のあった場所です
合戦の結果西軍は負けたので、「垂井城」は取り壊されたのでしょう。今は跡形もありません

垂井城は、どこまでが城域であったか判らないが、専精寺一帯は周囲より一段高い地形となっているので境内そのものが城内だったと思われます。
これから推察すると専精寺の北側にある玉泉寺や永正寺あたりも垂井城の一郭と思われます。

専精寺の参道の南の駐車場に垂井城址碑があります。

垂井城址碑

不破郡垂井町垂井 泉

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

専精寺山門南の駐車場に「垂井城跡碑」があります。
 垂井城は、築城年代や築城者については定かでないが、慶長5年に平塚為広が垂井12,000石を領
して居城した。 同年の関ヶ原の合戦では平塚為広は敦賀城主大谷吉継と供に行動、関ヶ原の合戦にて
討ち死にした。

  平塚為広と垂井城跡推定地
 ここは、関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡といわれています。
 平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には、病気の吉継にかわり、大谷隊が指揮しました。    
 小早川秀秋隊が西軍を裏切り大谷隊へ攻めかけると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。   (垂井教育委員会)       

垂井の泉にある玉泉禅寺です。

玉泉禅寺

不破郡垂井町垂井 泉

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

「垂井の泉」前の南宮大社参道を南へ進み悲劇の「春王丸・安王丸の墓」と処刑された金蓮寺行きましょう.。
専精寺からJR東海道線の陸橋を渡り坂を下り最初の三叉路を西へ曲がります。

画像の横断歩道手前の三叉路を西へ曲がります

西へ180mほど進むと国道21号線「御所野西」信号へ出ます。
この信号をわたり奥へ進むと「春王丸・安王丸墓と池田輝政陣跡」があります

春王丸・安王丸墓

池田輝政陣跡

不破郡垂井町御所

北緯

35

21

55.5

東経

136

31

37.5

「国道21号線」南に大きな看板が立っています。

看板横の喫茶店東の狭い路を南へ50mほど入ると墓地があります。

墓地中央に木の生い茂った場所がありそこにまつられています。

            史跡「春王・安王の墓」
 嘉吉元年(1441年)関東官領「足利持氏」の遺児「春王丸」(13歳)、「安王丸」(11歳)は結城合戦に敗れ捕らえられ、京都へ護送中、将軍「足利義教」の命により、垂井の時宗「金蓮寺」において斬られ此処に葬られました。

辞世の歌
夏草や青野が原に 咲くはなの 身の行衛こそ 聞かまほしけれ(春王丸)

身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば(安王丸)

結城合戦−足利持氏与党の最後の抵抗と「春王丸」、「安王丸」無念
その後 結城氏は1387年から50年にわたり鎌倉府下で下野守護として領土を治めていました、
しかし、「永亨の乱」において足利持氏方に味方したため守護を小山氏に奪われ遺恨を持っていました

 「永亨の乱」によって、足利持氏が滅亡しましたが、その遺児「春王丸」、「安王丸」は難を逃れ結城氏朝に匿われていました。

    「春王丸」、「安王丸」は結城氏再興のための犠牲
 そして当主である結城氏朝は小山氏打倒と下野守護奪還のため、足利持氏の遺児を奉じて、
公方党であった諸氏に檄を飛ばし、勢力を糾合し、結城城において蜂起したのです。

 鎌倉幕府はこれに対して上杉憲実に命じて結城城を包囲させ持久戦としたうえで信濃、甲斐、駿河の軍勢を結城に向かわせた。
結城方は奮戦し篭城約1年も持ちこたえたものの最期は幕府と上杉憲実の軍勢の総攻撃を受け敗退しました。
 この乱のあと担ぎ出された持氏の遺児「春王丸」、「安王丸」は京都への護送途中、美濃垂井において殺され、
鎌倉公方の一族は絶えたかに見えました。

         「春王丸」、「安王丸」にはもう一人兄弟が居た
 しかし、遺児の中で、もう一人奇跡的に信濃国人大井氏に匿われていた遺児がいたのです。
これが後に鎌倉公方に復帰し、その後関東管領、幕府と相争った足利成氏でありました。

 その後足利成氏の子孫は関東地方の勢力と手を結び、勢力を拡大し、豊臣秀吉の代には秀吉に臣従し所領を安堵され名も「結城晴朝」改姓します。

「結城晴朝」はその後、秀吉の養子となっていた徳川家康の次男「秀康」を養子に迎え隠居しました。
この「秀康」は「松平」改姓し江戸時代まで続き「春王丸」、「安王丸」の無念は晴らされることになりました。

関ヶ原合戦池田輝政陣跡

不破郡垂井町御所

「春王丸」、「安王丸」の墓は池田輝政陣跡でもあります

池田輝政

 小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死すると家督を継いだ
「池田長政」池尻城主、大垣城主、岐阜城主を経て
 三河吉田十五万二千石の領主になりました。

 そして徳川家康の息女督姫をめとり、関ヶ原合戦では東軍に属し、織田秀信(信長の孫)のこもる岐阜城を攻略し、関ヶ原合戦当日は南宮山の西軍に備え、この御所野に陣を構えました。

 合戦後は姫路五十二万石に加増され、姫路宰相と呼ばれました。

再び南宮大社参道へ戻り5mほど南の三叉路を東へ入ると金蓮寺の裏へ出ます。
ここを南へ回り込んで正面の山門へ出ます

春王丸・安王丸最期の地
金蓮寺

不破郡垂井町御所

北緯

35

21

55.2

東経

136

31

55.2

              悲運の春王丸・安王丸
  室町幕府五代将軍義量が若死にすると、関東管領足利利持氏は将軍職に望みを抱いたが、戦いは敗れ(永享の乱)。
 持氏の子春王丸・安王丸を奉じて、再び結城氏朝が挙兵したが敗れ、嘉吉元年(1441)篭城していた下総(しもふさ)之結城から春王丸・安王丸は京都に送られる途中、将軍義教の命でこの垂井の地の金蓮寺において処刑されました。 時に春王十三歳、安王十二歳でした。
 寺には当時の住持が彫ったという、二人の木造が安置されています。
(垂井町教育委員会)

           怪奇ロマン「八犬伝」の舞台の「金蓮寺」
 頃は室町、反逆者足利持氏(もちうじ)之遺児春汪・安王が捕らえられて、樽井(たるい)の金蓮寺で処刑される。
 このとき矢来の中に宝刀「村雨丸」を持って飛び込み、痛手を負いながらも両公達(きんだち)と父匠作(しょうさく)之三つの首を持って逃げ失せる若者が、犬塚番作。八犬士の一人で犬塚信乃(しの)の父だ。
 これが妖気立ち込める「八犬伝」序幕で、信乃誕生の場面で、これから話が始まる「金蓮寺」である

 

マンボ

(5)マンボ

マンボ

 地下水を集めて導水する一種の横井戸で農業用水施設として利用されてきました。かつて垂井には百数本のマンボがあったとされますが、現在ではそのほとんどが姿を消してしまいました。
 わずかに現存するマンボは、洗い場として利用されたり、水田のかんがい用に使われたりしています。

                垂井盆地のマンボ
 金蓮寺の南の道に出ると、この道筋の庭先に珍しいマンボ(地下水を集めた横井戸)が見られる。
不破地方ではかってあちらこちらに見られたが今では貴重な存在となりました。
 マンボとは、他に例を見ない長い横井戸のような暗渠のことで、素掘りでつくり、地中の浸透水を集め、目的の田んぼまで水を運ぶための灌漑施設です。
 此処の横穴は600mも掘ってあるそうです。
 40年前には126本のマンボがありましたが、圃場整備をきっかけに大部分が消滅しました。
                       垂井盆地に115本確認
 この地方では、ここの他に野上北整理マンボ(入口)―野上北整理マンボ(出口)など垂井盆地には115本のマンボ(垂井町114本、関ヶ原町1本)が確認されています。
 他には南濃町,上石津町,養老町にも残されています。全国的にも多く見られますが現存するものは珍しい
                           名前の由来
 三重県大安町ではマンボを漢字で「間風」と書き,隣の三重県北勢町では「間歩」もしくは「間保」と綴っています。
 知多半島では「マンボ」あるいは「マンボー」と呼びます。
 鉱山用語では、坑道を「まぶ(間府)」といいます。
 鉱山技術者にとってみれば類似の施設ですので、鉱山用語からの転用が説得力があります。
しかし、谷崎潤一郎の『細雪』にマンボウの記述があり,「マンボウとはガード,トンネルの事で,オランダ語のマンプウに由来する」と述べています。また、スペイン語からの派生という説もあるようです。

次に金蓮寺近くから栗原までに点在する由緒ある場所をご案内します

勝神社勝宮古墳

不破郡垂井町表佐(おさ)字番屋敷1729

北緯

35

21

34.2

東経

136

33

00.0

                 勝神社
 筑後玉垂命(ちくごたまたれのみこと)(武内宿禰(たけのうちすくね))勝氏が祀られているといわれ、本殿北には前方後円墳があります。周囲は約30m、高さ約3mの古墳で、石室をつくった石材が残っています。

    垂井町指定史跡 勝宮古墳
 この古墳は、勝神社の本殿北に接して、六世紀後半から七世紀初めに造られたと思われる前方後円墳である。
 周囲50b、基部東西29b、後円部の直径約11b、高さ約2.5b、前方部の高さ約1.3bで西向きの小規模のものである。今は古墳の頭部が破壊されて石棺の小石が現れて、南部も西部も壊されている。  (垂井教育委員会)

在原山薬師寺

不破郡垂井町表佐(おさ)字

北緯

35

21

25.0

東経

136

33

05.2

        在原山薬師寺
 六歌仙の1人、在原業平(ありわらのなりひら)が美濃権守(ごんのかみ)として赴任した元慶3年(879)に建立し、在原業平寺と呼ばれていたといわれています。天明2年(1782)、大本山永平寺47世天 海薫元(てんかいくんげん)が再興して、曹洞宗に改宗されました。
       薬師寺の由来
 当山は全国に多数ある在原業平ゆかりの寺の一つです。 在原朝家臣業平(825〜880)は平安時代の歌人。
 六歌仙の一人であり「伊勢物語」の主人公とみなされています。
 在原朝臣業平は平城天皇と桓武天皇の孫であり従四位上美濃守として垂井府中の国府に赴任し表佐(おさ)のこの地に館を建立しました。
 天慶四年(880)朝臣業平公は没し陽成天皇(在位876〜884)の勅願により館跡に業平寺が創建され業平公をお祭りしました。
 天明三年(1783)永平寺の四十七世天海大和尚が往山され在原山薬師寺として現在にいたっています。
           (不破郡垂井町表佐)

 

阿弥陀寺

不破郡垂井町表佐(おさ)字

北緯

35

21

23.9

東経

136

32

59.7

(9)阿弥陀寺(千句の里) 阿弥陀寺(千句の里)
 連歌の巨匠飯尾宗祇(いいおそうぎ)が、連衆16名と共に句会を催したことから、千句の里と呼ばれるようになりました。
 阿弥陀寺27世の住職敬誉(けいよ)上人が表佐千句(別名、十花千句)などを残し、上人の墓がまつられています。
         千句の里
 この地は文明八年三月六日より三日間連歌の巨匠飯尾宗祇が師の専順をはじめ十六名の連歌師と連句の会を催した地で千句の里い云う。
 宝永八年正月阿弥陀寺大二十七世住職 敬誉上人連句の会の千句を写筆して「表佐千句」或いは「十花千句」と呼ばれ後世に伝えられている。
           (垂井町教育委員会)

 

栗原城址

不破郡垂井町栗原

北緯

35

20

06.4

東経

136

32

14.5

  長曽我部盛親陣跡説明板
 県道から細い坂道を登ると、長曽我部盛親陣の説明板のところに至ります。ここは廃寺跡でもありす。
 ここから連理のサカキ・九十九坊の案内に従い登ります。

九十九坊石仏

長曽我部盛親陣跡説明板から15分ほどで九十九坊跡にきます。

(8)九十九坊の石仏 九十九坊の石仏
 鎌倉時代には栗原山に99の僧坊を持つ久保寺双寺(くぼうじそうでら)があり、隆盛を誇っていたと伝えられています。建武2年(1335)の足利・新田両氏の戦いで焼失したという伝承があり、現在山腹から見つかる石仏、墓石を集めた九十九坊記念塔が山腹斜面に作られています。

連理のサカキ
竹中半兵衛隠棲地
長曽我部
盛親の陣跡

                 連理のサカキ
 九十九坊石仏から5分で連理のサカキに至ります。
 この連理のサカキの周辺が長曽我部の陣跡でもあり、また、竹中半兵衛の隠棲地の伝承もあります。
 ここまでの至る所に平坦地があります。九十九坊は奈良時代からの寺で、南北朝期の足利氏、新田氏の争乱に巻き込まれ、足利氏に焼き払われたと伝わります。なお、
                          連理の訳
 連理のサカキは樹齢400年の木で、幹が根元で二つに分かれていて、一方の幹から出た枝が、他方の幹にゆ着している連理の状態になっているからです。
                     竹中半兵衛の隠棲地
 竹中半兵衛の隠棲地としての伝承は、永禄七年(1564)、主君斎藤龍興に対しての制裁で岐阜城を一時期乗っ取ったもので、その後、龍興に城は返還するも、斎藤家を去り、ここに隠棲したというものです。
                     長曽我部盛親の陣跡
 ここは 慶長五年(1600)関ヶ原合戦のおり長曽我部軍が戦意なく伊勢から北上し、廃寺跡であるため、6000人が野営できる平坦地があったので陣を敷き、どちらに付こうか戦況を眺めた場所です。
 盛親は土佐二十二万石も国主であり、西軍に付いていましたが、戦後、改易となり、土佐一国は召し上げられました。

 

大関鏡岩の碑

       大関鏡岩の碑
 民家の庭先にあり、ちょっと見つけにくいが、表佐で生まれ幕末から明治にかけて大関まで昇進した力士。
 当時は横綱はなく、大関が一番強い力士でした。
鴨居を一人でかついだとか逸話が多く残っているそうです。

再び南宮大社参道へ戻り南へ進み東海道新幹線ガード下をくぐります

新幹線ガードの大鳥居

不破郡垂井町宮代

北緯

35

21

45.2

東経

136

31

46.9

やがて「東海道新幹線」ガードの向こうに
大鳥居が見えてきます

「南宮神社」は「大鳥居」からあと数百mです。

途中、「南宮神社の摂社 吉葛神社」前を通ります

南宮大社の摂社吉葛神社

垂井町宮代 城屋敷

北緯

35

21

41.7

東経

136

31

47.8

摂社は北の入り口に「吉葛神社」、南の入り口に「大領神社」が御祭してあります。

「南宮神社摂社 吉葛神社」から200mくらいで南宮神社です。

南宮神社

垂井町宮代堅瀬古(みやしろかたせこ)

北緯

35

21

28.2

東経

136

31

46.0

旧国弊大社で美濃国「一宮」
社伝によれば慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦で社殿のすべてを焼失。
寛永十九年(1642年)三代将軍「徳川家光」が再建しました。

現在は全社殿十五棟が「重要文化財」に指定されています

広い境内は本殿、拝殿、楼門など朱塗の華麗な姿を並べています。

南宮大社の案内板の文字は薄くて読みづらくなっていました。

 金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神に全国の鉱山、金属業の総本営として現在も深い崇敬を集めています。

広い境内は静寂で心が洗われます。

 かなものの神様、このため絵馬には斧、鎌、鍬などや鉱石が奉納されています。

江戸時代の奉納とされています。

金の含有量が多い鉱石も奉納されています。

       現在、社殿は十五棟
 鎌倉から戦国まで源氏、北条氏、土岐氏にあがめられましたが、関ヶ原合戦で社殿、堂塔が焼失しました。
 現在の社殿は寛永十九年(1642年)三代将軍「家光」が再建し、社殿は十五棟あり、国指定の建造物になっています。
 また、建築史上貴重な史料である造営文書六百二十三冊が残っています。

仁王門には木製の狛犬が本殿を守っています。

境内北隅にある「奥原山甫之史跡」の碑

境内の北にある道標
「左 朝倉山へ六丁」

道標のある道を北へ進み「朝倉山真禅院」へ行ってみましょう
「朝倉山真禅院」へ向う途中に不破高校があり右側にグランドがあります。
グランドの手前の道を北へ入ると「仏足石」のある清月院があります

仏足石(清月院)

不破郡垂井町宮代

北緯

35

21

55.2

東経

136

31

55.2

不破高校グラウンド東 由来など不明

不破高校のグランドと校舎の間の道を進み、グランドの端まで進むと北へ入る「隣松寺」参道があります

その参道を隣松寺山門まで進み東を見ると巨石が道端にゴロゴロ置いてあります。

冑山古墳跡

垂井町宮代

北緯

35

21

31.6

東経

136

31

26.8

不破高校のグランド・体育館西の隣松寺参道を入る

隣松寺は平将門にいわれのある有名な古刹です。

不破高校新設のとき古墳が邪魔になり発掘して、グランド横に残骸を移動しそのまま。
垂井町教育委員会が判断したのでしょうが残念です。

「朝倉山真禅院」への参道へ戻り50mほど西へ進むと左(南)側に「吉利広家陣跡」の案内板があります。

吉川広家陣跡

垂井町宮代

北緯

35

21

29.0

東経

136

31

19.4

合戦の世渡りべた
吉川広家は毛利元就の次男吉川元春の子。「文禄・慶長の役」では石田三成と対立しました。

関ヶ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら本家の輝元が西軍に属したため、主家の存続をはかり、
東軍に内通しました。

合戦当日、南宮山のふもとに陣を構え、毛利隊が合戦に参戦するのを押し止める役割を果たしました。
しかし、合戦後の広家の思惑がはずれ、毛利家は大幅に領地を削減されることとなりました。
(垂井町教育委員会)

更に300mほど西へ進むとに「朝倉山真禅院」はあります

朝倉山真禅院

垂井町宮代 朝倉

北緯

35

21

31.0

東経

136

31

10.8

明治の「神仏分離令」
かっては「朝倉山真禅院」は別当寺として「南宮大社」内に在りましたが
明治の「神仏分離令」で移築されました。

三重塔が美しい真禅院

別名「朝倉山南神宮寺」

南宮大社は金山日子を祀る美濃国「一の宮」で鉱山金属業の総本宮として広く全国から崇敬されています。

創建は1250年前
当寺は、今から1250年前の創建で、開基の行基菩薩、自ら本尊阿弥陀如来尊像を彫刻され「象背山宮処寺」と名付け、
本州阿弥陀如来四十八願の霊刹の第三十四番札所とお定めになったのが天正十一年二月(739年)であり、
その翌年十二月二日には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺及び曳常泉(垂井の泉のことと思われます)へ行幸されています。
(続日本記、日本記略)

         「朝倉山真禅院」は最初は「大神宮寺」
 その後延暦の年勅命により比叡山延暦寺伝教大師により南宮神社と両部習合され寺号を「大神宮寺」と改められました。
 その功徳は天慶二年(839年)の平将門反乱の時、朱雀天皇の勅命により、将門調伏祈願のため延暦寺僧「明達阿闍梨助」修僧二十人と共に
 南神宮寺で秘法により修したところ結願の」時「将門」首級到着で、その法験を御喜賞になり法躰殿の勅願と若干の寺社領を下賜されました。

 1501年に火災で炎上
 ついで後冷泉天皇の康平二年正(1059年)には安倍貞任の追討の御祈願あり、その霊験により篤い信仰を得ましたが、文亀元年(1501年)の火災で諸堂社灰燼となりましたので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ政房此れを諸司に命じ復旧に着手、十一年後の永正八年(1511年)ようやく竣工となりました。

      関ヶ原合戦でまたも炎上
 くだって天正十七年(1589年)豊臣秀吉により供田百六十石、寺社堪忍分として二百石の朱印は、家康の代(慶長十四年)に四百五石の朱印状となりましたが慶長五年の関ヶ原合戦により諸建築は兵火にかかり灰塵に帰しました。 その後徳川幕府の政務官に再建を嘆願しましたが時の大御所此れを了諾するも戦後とて捗らず、ようやく徳川三代将軍「家光」によって再建の運びとなり、寛永十九年(1642年)に再興されました。

境内には撞けない「鐘撞き堂」があります。

国重要文化財「梵鐘」

垂井町宮代 朝倉

美濃国最古の鐘
この「梵鐘」は平安中期以前(約千二百年前)のもので
総高165cm、口径107cm、厚さ8.5〜9cm美濃国最古の鐘といわれています。

「梵鐘」は大型で、大小の区画からなる袈裟襷は雄大で、その中には装飾はありません。
撞座は撞きつぶされてはっきりせず蓮弁の切り込みが認められ程度です。

                    撞けない鐘
 銘文はありませんが竜頭と撞座の向き、高さ、口唇の形などは、この時代の特徴を表しているとのことです。
 この「梵鐘」は撞座部分が永い年月の間に撞きつぶされ胴の部分と同一になると割れる恐れがあるため、国の指導により撞かないようにしているそうです。

境内にある「鉄塔」

北条政子寄進の鉄塔

垂井町宮代 朝倉

県重要文化財「鉄塔」
この鉄塔は、室町時代の応永五年八月十日(1398年)河内国の高大路家久による鋳物で、
下幅百糎、鉄塔の上層には菩提六体、下層には四天王像が鋳付けられています。

 

三重塔

垂井町宮代 朝倉

国重要文化財 三重塔
この三重塔は、天平十三年(741年)辛巳歳の草創で、関ヶ原合戦により焼失しましたが、
徳川三代将軍「家光」により造営の運びとなり、寛永十九年(1642年)九月に再建されました。

その後明治初年の「神仏習合廃止」(神仏分離令)により南宮社執行「真禅院秀覚法印」
三重塔を含む二十二堂塔を統廃合し、
村人らの絶大な奉仕によって明治四年(1871年)三月までに南宮社から現在地まで移しました。

            解体修理に1億数千万円
 構造は、三間三重塔婆、本瓦葺で柱礎石の上端より相輪頂部までの全高は25m、内部に本尊「大日如来」を安置しています。 

  この塔は、永年の風雪と荷重により全体に西方へ傾斜していた上に昭和56年の豪雪で屋根に損傷を受けたため、文化庁の指導により昭和57年7月から33ケ月を要し、総事業費1億23百万円余をついやして全面解体修理が行われ現在の姿で我々の眼に触れさせてくれます。

再び「南宮神社」まで戻ります。

伊勢・桑名路道標

垂井町宮代堅瀬古(みやしろかたせこ)

北緯

35

21

27.8

東経

136

31

47.1

昔から信仰が厚く方々から街道が通じています。

「南宮神社」境内の南東にある道標

 

天保の文字が見えます

右 いせ、やうろう
右 垂 井 道  

道標に沿って南東方向へ道を約200m進むと街道は二つに分かれます。

摂社大領神社境内うらの
道標

垂井町宮代堅瀬古(みやしろかたせこ)

北緯

35

21

25.3
東経

136

31

57.2

「南宮神社 摂社 大領神社」境内北にある道標

左 大かき を御 みち

右 いせ やうろう 島かさ 路

大垣路をたどってしばらく東へ進んで見ます。

垂井町宮代堅瀬古東
大垣路道標

北緯

35

21

12.5

東経

136

32

04.6

三叉路の隅に自然石の道標がありました。

左 大かき、を御

右 南宮道

さらに東へ進みます

比女神社

垂井町表佐(おさ)習中(しゅうちゅう)

北緯

35

21

24.7

東経

136

32

43.8

   

この辺りから街道の面影は消えます。
あまり深入りせず、元の二股に分かれた「道標」まで戻り伊勢道へ行ってみたいと思います

伊勢道を南へ進むと「大領神社」があります。

南宮神社の摂社
大領神社

垂井町宮代 堅瀬古(かたせこ)

北緯

35

21

22.5

東経

136

31

58.7

「大領神社」のいわれ
今を去ること千三百年前、天武天皇の「壬申の乱」に古来「南宮神社」仕える宮勝木實命を
己が館に迎え入れ賜わり直ちに
一族を率いて不破の要衝を塞ぎ勝利の緒を開かれた。
乱平定の後、その功により不破郡を拝領し長官たる大領に任ぜら更に
大宝二年の「持統天皇」御巡幸を迎え外従五位下の破格の恩賞に浴した。

           関ヶ原合戦で兵火にかかり炎上
 中世数百年に及ぶ動乱の時流にも郷土の氏神として よくこれを護持し来った処慶長五年関ヶ原合戦の兵火にかかって南宮社は炎上し時の祀職不破行治が寛永年間徳川幕府の直営普請に依ってこれを再建する時当社の本殿も共に造営 更に南宮社の假殿を移建して拝殿にあて神徳の昂揚社領の尊厳に盡きるところであった。

              美濃二宮(にのみや)
 
郷土の祖先などはその偉績を仰ぎ、緑深いこの地に大領神社を創建その厚き崇敬により御神盛、益々 顕持され美濃守の年頭巡祷には南宮大社の次いで美濃二宮と御国幣に預かり官社に列さられ延喜式神名帳に載記され世に知れ渡った

 中世数百年に及ぶ時代にも郷土の氏神として此れを維持して北ところ慶長五年 関ヶ原合戦の兵火により「南宮神社」は炎上
 「南宮神社」再建までの仮殿としても使われた。

更に南へ進むと常夜灯が在ります。
此処から先は広々とした田んぼが広がり街道は「養老」「桑名」まで続きます。

伊勢街道南宮神社入り口

常夜灯

垂井町宮代 横瀬古

北緯

35

21

12.5

東経

136

32

04.6

伊勢路を戻り御前谷川を渡って100m程の始めての四差路を東へ曲がり170mほどの右側に
藤樹禅寺の東に宮代廃寺があります。

宮代廃寺跡

垂井町宮代 谷中

北緯

35

21

17.7

東経

136

32

07.8

南宮大社伊勢路から東へ入る道を100mほど進むと右(南)側にあります
白鳳時代から平安前期におよぶ寺の廃寺跡といわれ、大きな礎石がそれを物語っています

奥の藪の中には巨石がゴロゴロしています

藤樹禅寺は奥にあります

ここでもう一度「垂井宿」「南宮大社大鳥居」まで戻り中山道を「関ヶ原宿」まで辿りましょう。

「垂井宿」街中を通り西へ向うと「西の見付」へでます。

「西の見付」から700mくらいでJR東海道本線の踏切と国道21号線へ斜めに出ます。

車は一方通行ですの此処から踏切を渡れません。

JR東海道線踏切

北緯

35

22

05.4

東経

136

31

06.9

車は右の道を西へ進み陸橋を渡ってJR東海道本線の向こうを平行に走る「国道21号線」へ出ます。
「国道21号線」が「中山道」です。

次は「垂井一里塚」です

街道コラム

【街道と並木と一里塚】

美濃十六宿の道幅
 美濃十六宿の距離は三十里二十一町余(約121km)である。
道幅は東美濃地域は二〜三間(3,6〜5,4m)で狭いところでは九尺(約2,7m)、西美濃の平坦地は四間(約7.2m)内外、場所によっては五間(約9m)のところもある。

並木
 街道の並木や一里塚の構築は、慶長九年(1604)からといい、その後の幕府の保護政策によって、街道筋の並木は整ってきた。
しかし、東美濃の御嶽宿より東地区の街道は、寛政来以後に植樹・手入れ行ないしだいに整備されたという。

一里塚
 一里塚は江戸日本橋を起点として、一里(約4キロ)ごろに五間(約9m)四方の土盛りをし、その塚の上に記を植えたものである。
「塚の木は榎・・・」というが、宝暦年間には美濃十六宿中では、松14、榎14、梅1で榎は西濃に多く松は東濃に多い。

【六斎(ろくさい)の市】

 江戸時代初期の宿場には、まだ店屋らしきところもほとんどなく、そこで考えられたのが、門前町あたりで開かれていた市である。
六斎の市といい、月6回宿場の中央の広場で、近郷近在から集まっ多商人らによって衣料品から食料品、日地用品などが売買された。 その利益は宿場の重要な財源になっていた。
 赤坂宿の六斎の市関係資料によると、「文化八年(1811)十二月六日宿方困窮ニ付 往古之通毎月三・八ノ日市取立度旨願之通・・・・」と「大垣藩地方雑記」にあるように、六斎の市を復活させて、赤坂宿場の困窮を救いたいと嘆願書をだし、許可されている。

 その許可する条件に「掟書」を守ることとされた。
一、市中で口論、博打、諸勝負は禁止。遊女・野郎(遊女を管理する男衆)は置かない
二、通行者(大きな大名の通行)あるときは止め、往来の妨げをしない
三、集まった商人の名前と居所を確かめ、確かでないもの者には場所を貸さない
 六斎の市が一時、途絶えた理由は不明ですが、多分これらの掟が守れず、問題がおきて中止になったと思われます。

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。