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垂井宿を出て日守・野上を経て関ヶ原宿へ向かいます

六十九次
のうち
五十七宿

岐阜県大垣市

美濃国

近鉄養老線東赤坂駅下車

「垂井一里塚」巻は垂井宿から関ヶ原宿の間にある「南宮神社近道道標」、日守の茶所、国重文の「垂井一里塚」
伊吹山の「伊富岐(いぶき)神社」鳥居と本殿、垂井松並木と六部地蔵、家康が縁起をかつで最初に陣を張った「桃配山」、
野上の長者屋敷跡の「秋葉神社」、班女の観音堂がある真念寺などをGPS位置情報と共にご案内します。

       

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
JR東海道線日守踏切関ヶ原若宮八幡宮までの3550mを案内します

「垂井宿」から出ると中山道は斜めにJR東海道本線に接し踏み切りを渡りますが
車は「一方通行」ですので渡れません。

JR東海道線踏切

北緯

35

22

05.4

東経

136

31

06.9

車は右の道を西へ進み陸橋を渡ってJR東海道本線の向こうを平行に走る「国道21号線」へ出ます。
「国道21号線」が「中山道」です。

「中山道」はJR東海道本線を渡ると国道21号線へ出て
信号を渡り再び旧道へ入ります。

更に80mほど進むと「日守川」の向こうに「日守の茶所」と「垂井一里塚」の森が見えてきます。

「日守の茶所」と「垂井一里塚」

日守の茶所

不破郡垂井町日守

北緯

35

22

04.2

東経

136

30

43.7

常盤御前の墓所から移築
江戸末期に、岩手の美濃獅子門「化月坊」が、
中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に「秋風庵」を建てました。

それを明治になって、一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場所として、
昭和の初めまで盛んに利用されました。

 また芭蕉ゆかりの場でもあり句詠の場としても利用され、大垣新四国八十八ケ所弘法の札所など貴重な建物です。

その隣が「垂井一里塚」(南塚のみ)

国重文

垂井一里塚

不破郡垂井町日守

北緯

35

22

03.3

東経

136

30

51.5

慶長九年(1604年)徳川家康の命により主要街道に築造された一里塚の一つです。
江戸日本橋より一里ごとに街道の両側へ五間四方の塚を築き頂上に榎(桜、松)を植えました。

「垂井一里塚」は、南一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されています。
中山道には国指定の一里塚が二つあり、その一つで貴重な一里塚です。

北側の一里塚跡は民地になっています。

浅野幸長陣跡
またこの一里塚は関ヶ原合戦の時「甲斐府中」十六万石の領主だった
東軍の将「朝野幸長」の陣を張った場所でもありました。

合戦後は和歌山三十七万六千石に加増されました

「中山道」は「国道21号線」を横断して80mほど進むと南側に小さな道標が見えます

南宮大社近道碑

不破郡垂井町日守

北緯

35

22

03.6

東経

136

30

57.3

「南宮 江 近道 八町」とあります

中山道を西へ200mほど進むと「国道21号線」と斜めに交差します。

国道21号線斜め横断

北緯

35

22

04.1

東経

136

30

41.1

ここで市町村境です。

行政区域

「垂井町」から「関ヶ原町」へ

不破郡垂井町日守 

不破郡関ヶ原町野上

ここまで、垂井町東境から3.9km         
長野県境から111.7kmです。

「国道21号線」を横断して200mほどで道標があります。
此処で「垂井町」から「関ヶ原町」へ入ります。

関ヶ原バイパス工事前の垂井と関ヶ原の行政境付近

道標の先が工事中でした。 また一つ街道らしさが失われていくのではないでしょうか。

関ヶ原バイパス工事後の垂井と関ヶ原の行政境付近

国道21号線を大きくカーブして横断します

 
一部中山道は残っています

旧中山道あたりをバイパス地下道が通っています

バイパス地下道の上を新中山道が通っています

中山道消滅区間 No.9

No.20 中山道車両通行不能区間

場所

垂井町伊吹

場所

垂井町伊吹

から

   
   
   

 

 

垂井町伊吹

まで

 

迂回ルート(青)中山道=緑

 

 

旧住宅地図のまま説明させていただきます。

「関ヶ原町」へ入ってから500mほどで「T字路」に差掛かると北側に鳥居が見えます。

伊富岐(いぶき)神社鳥居

垂井町伊吹

北緯

35

22

02.8

東経

136

30

13.3

                伊富岐(いぶき)神社
「伊吹山」の名前もこの神社から付けられたのでしょう 中山道から北へ800mほどの処に本殿があります

50mほど行くとJR東海道本線踏切があります。

JR東海道本線踏み切りを渡ると「県道53号線」の下をくぐります。

700mほど来るとやっと神社が見えてきます。

路は狭くなりますが車でも境内まで入れます。

柱の裏には「民有地 第弐種境内 参千八百五拾坪」の明記があります。

草生した参道に鳥居が立ち、その奥に境内が見えます

伊富岐神社
古代 伊富岐山麓に勢力を張っていた「伊福氏」の祖神をまつってあり、
この神社付近には石器時代の遺跡や山頂古墳も多く、古代の豪族が住んでいたと思われます。

この神社は古来より「美濃の二の宮」として崇敬されております。

伊富岐神社本殿

垂井町伊吹

北緯

35

22

02.8

東経

136

30

13.3

地方豪族伊福氏の祖神が祭られていた伊富岐神社は、仁寿2年(852)地方神社から祭祀対象の官社になりました。

社宝
「棟札」は寛永十三年(1636年)に造営され時のもので、二枚が保存されています。
この他「経塚」からの出土品は大正十五年(1926年)の本殿を改築した時出土したもので、
経筒ほか13点があり鎌倉初期のものといわれたいます。

また、「古絵図」もあり、縦105cm、横77cm紙本着色のものでいつの頃のものかも分からないが、
境内及び付近の様子が描かれている貴重な史料です。

大杉

垂井町伊吹

言伝えによると、関ヶ原合戦の時、社殿は兵火にかかり炎上したが御神体は幹の分かれ目のところに安置してあったので
安泰であったといいます。

古来より御神木として仰がれいます。

再び街道へ戻って「関ヶ原宿」へ向いましょう。

「伊富岐神社」鳥居から800mくらいで家並も無くなり松並木の街道が続き
次に家並がはじまりしばらくすると、右側(北側)に井戸屋が見えてきます。

それが「野上の七つ井戸」です。

野上「七つ井戸」

不破郡関ヶ原町野上  海抜  85m

北緯

35

21

58.

東経

136

30

03.

野上の「七つ井戸」
ここ野上は、中山道「垂井宿」と「関ケ原宿」の間の宿でした。
江戸時代の頃から、僅少の地下水を地下水を取水して多目的(防火用・生活用・
農業用)に利用されてきました。
街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれました。
街道筋の井戸は「野口の七つ井戸」として親しまれ、
旅人には、喉を潤し、疲れを癒やす格好の飲料水だったでしょう。
近年は、水道事業が整備され放置されてきましたが、
先人が残した遺産の再発見の見地から休息所を兼ねて修復・再現しました。
この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができます。
但し、飲まないで下さい。また、汲むときは安全に充分ご注意下さい。

「野上の
この井戸から南への細い道を登ると国道21号線沿いに
「野上行宮(あんぐう)跡」(壬申の乱の時大海人皇子が出陣の仮御所)や、
「桃配山」(大海人皇子は兵士に元気を付けるため山桃を配った場所)と
「斑女観音堂」などがあります。

 

おしゃもじ塚

不破郡関ヶ原町野上  海抜  82m

北緯

35

21

58.

東経

136

30

03.

「野上の七つ井戸」西の小路を北へ入り道なりに50mほど進むと
JR東海道本線の踏切へ出ます。

踏切の手前に説明板があります。
踏切を渡らず線路に沿って東へ進むと木陰に五輪塔があります。

「平忠常の終焉の地」(おしゃもじ塚)
平安中期、東国の上野介に任命された平忠常は安房の国司を殺害、
房総半島を手中にし国家に反抗しました。
朝廷は忠常討伐を派遣し三年に及ぶ戦闘の末、
ついに忠常は降伏し、都に護送されることになりました。
途中、病にかかり何も口にすることができないまま、野上の地に着きました。
あわれに思った住民が食べ物を「しゃもじ」にのせ、差し出すと
忠常は一気に食べそのまま息を引き取りました。
野上の住民はここに塚を築いて弔いました。
依頼ここを「おしゃもじ塚」と呼び、毎年地元で供養しています。
(関ケ原町)

「おしゃもじ塚」
JR東海道本線脇の小高い土手の木陰に塚はあります

 

垂井の松並木

不破郡関ヶ原町野上

北緯

35

22

01.3

東経

136

30

08.2

町指定天然記念物旧中山道松並木
江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松、杉、楓などの並木があって、
その木陰は旅人のはしばしの憩いの場所としていました。
野上地区には樹齢300年松並木が路の両側に十数本残っています
岐阜県内で唯一残る松並木で、町では天然記念物に指定し、防虫対策や補植で保存に努めています。
(関ヶ原町)

松並木の中に「六部地蔵」がおまつりしてあります

六部地蔵堂

不破郡関ヶ原町野上

北緯

35

21

47.5

東経

136

29

37.4

「六部」とは
「六部」とは、「六十六部」の略で、全国の社寺などを厨子(ずし)を背負って読経しつつ巡礼して、
旅をしながら修行をしている人ということです。

歯痛を治すお地蔵さん
「宝暦十年」(1761年)頃 奥州出身の「六部」が行脚中に重病になり、
里人が看病しましたが、「歯が痛む方があったっら治します」と言い残して死にました。 里人が祠を建てお祀りしました。
以来、「六部地蔵 歯痛なおりて お礼参り」と詠まれているように、
痛みのひどい病気を治すことで名が知られて信仰を集めています。 (関ヶ原町)

「六部地蔵」から500mほど進むと平行していた「国道21号線」と一緒になります。

国道21号線合流点

北緯

35

21

43.4

東経

136

29

19.6

西へ進むと、すぐに「関ヶ原宿」ですが、「国道21号線」を東に戻り「桃配山」へご案内します

桃配山

徳川家康最初の陣跡

不破郡関ヶ原町野上

北緯

35

21

43.4

東経

136

30

28.5

国道21号線を300mほど東へ戻ると南に「桃配山」が見えてきます。

国史跡「家康最初の陣跡
慶長五年九月十五日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山に周辺に陣取り、
家康はこの山頂に於いて、大馬印(おおうまじるし)を高々と上げ指揮にあたりました。

「関ヶ原宿」北の最後の陣地に移るまで此処で作戦を練ったものと思われます。
此処にある二つの岩は、家康が机代わりに使った伝えられています。

「桃配山」のいわれ
天下分け目の合戦は今から千参百年前の「壬申の乱」でもありました。
吉野軍を率いた「大海人皇子」は、不破の野上(当地)に行営を置き、わざみ野において、近江軍と向き合っていました。
急ごしらえの御所に、皇子が入ったのは六月二十七日でした。
野上郷をはじめ、不破の村人達は、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上しました。
皇子は大変喜んで此れを味わったが、あまりの美味さに不破の大領をよんで
「この桃を軍団兵士みんなに配ってやりたい。此れを食べて運気百倍で戦場に向わせたい」
と近郷の山桃を全部買い上げると言いました。

家康の作戦場から関ヶ原方面はあまりよく見ることが出来ません。
今はすぐ下の国道で静かさを消されます。 山頂への路が付いてましたので登ってみました。

「家康の」の縁起かつぎ
大領、宮勝木實は行宮所在地の大領(郡長)として御所を建て戦運を祷りました。
桃を食べた数万の兵士は、その後連戦連勝して経まで勝ち進み、最後に「瀬田の唐橋」で勝利を得ました。
この桃の奇跡により、この桃を配ったところを「桃配山」とか「桃賦野」(ももみつぎの)とよんで、今に至っています。
家康はこの快勝の話にあやかりたいと、この「桃配山」に陣をしき、一日で天下を自分のものにしました。

「桃配山」は東海道新幹線で真っ二つ
山頂と思われた付近は東海道新幹線に真っ二つに分断され向こうの山へ行くことは出来ませんでした。

「桃配山」から更に東へ進み「野上長者屋敷跡」を探しました。

秋葉神社
野上長者屋敷跡

不破郡関ヶ原町野上

北緯

35

21

55.5

東経

136

30

00.5

「野上長者屋敷跡」と思われるあたりには「秋葉神社」が祀られていましたが、屋敷跡は見当たりませんでした。

「桃配山から「国道21号線」を1kmほど東へ行ったところに「班女観音堂」のある「真念寺」があります。

班女の観音堂

がある真念寺

不破郡関ヶ原町野上

北緯

35

21

58.1

東経

136

30

06.8

「花子」の観音像
美濃国野上(当地)の宿の女「花子」と東国へ下る旅の途中立ち寄った吉田の少将と契るが、
発つとき「生まれた子が男であったら梅若丸と名づけよ」と云って形見に扇を置いていった。

生まれた男の子「梅若丸」は大きくなり父を訪ねて東国へ下るが、母「花子」もあとを追う
母が東国で尋先を訪れると少将は京都へ帰り、つい先ごろ「梅若丸」は死んで木母寺に葬られたと告げられます。

「花子」は狂気して野上に帰り観音山に観音像を祀り狂い死にしました。
その像はこの鶏籠山「真念寺」に安置されていますが、「花子」を弔う墓も塚もここ「野上」にはありません。

国道21号線の南にある「真念寺」

境内奥の本堂手前に「班女の観音堂」があります。

謡曲「班女」と花子
謡曲「花子」では少将に合いたさに形見に取り交わした扇を持って訪ね歩いた末、
その扇が縁で再会すると言う話で、主題にした「班女」名は、漢の武帝の寵姫だったが、
その愛を失ったのを、「秋の扇」にたとえたことに由来します。

ちなみに謡曲「隅田川」は梅若丸を主題にしたものです。

再び西の「不破郡関ヶ原町一ツ軒(ひとつや)」の中山道と交わる所まで戻りましょう。

中山道は真っ直ぐの狭い路ですが車は通れません、いったん国道へ出て
50mほど先の信号交差点で右の中山道へ入ります。

旧道を400mほど進むと再び「国道21号線」へ出ます

国道21号線再合流点

北緯

35

21

40.6

東経

136

29

00.4

「国道21号線」を西へ700mほど進むと「関ヶ原宿」の入り口の「若宮八幡宮」へ出ます。

では「関ヶ原宿」へ

街道コラム

【宿場の形態と火災】

枡形
 宿場内の街道は、鍵型に折れて「枡形」をつくったり、宿場の端に木柵か土居(土手)を築いているのが普通である。
枡形は中山道中では信濃国(長野県)や美濃国(岐阜県)に多く、木柵は武蔵国(埼玉県)や上野(こうずけ)国(群馬県)野宿場に多い。そして土居は近江国(滋賀県)に多い。

火災
 宿場の建物は障子も襖も紙、戸も柱も屋根も木か草で火災になりやすい。そして宿場には家が軒を並べて建っているために、類焼して宿場全体を焼失するような大火災になることが多かった。
 美濃十六宿ではほとんどの宿場が、大半を焼失する大火災に遭い、鵜沼宿・垂井宿・加納宿などは十数回の大火災があった。

美濃十六宿の大火災暦は
 2回・・・落合宿・中津川宿・大井宿・御嶽宿・大田宿・関ヶ原宿
 4回・・・細久手宿
 5回・・・大湫宿・伏見宿
 10回以上・・・鵜沼宿・加納宿垂井宿

街道コラム

【宿場の任務】

人馬の継立て
 宿場の最重要任務は公用荷客の継立てである。そのために、宿場には常に一定数の人足や馬を用意して、特定の役所が許可した人たちの荷物や人を次の宿場まで輸送した。そのために宿場内には村役人の他に宿役人を置き、問屋場(会所)を設け、宿人場と助郷人場が用意されていた。

休泊施設
 宿泊休憩の施設には、本陣・脇本陣・旅籠屋・木賃宿・茶屋などがあったが、例外として高崎宿や岩村田宿(ともに城下町)には本陣も脇本陣も無く、美濃十六宿の河渡宿と美江寺宿には、本陣があっても脇本陣はなかった。

逓送業務
 郵便物の逓送とは公用の飛脚業務のことで、問屋場で宿役人が取り扱い、宿人足に次の宿場まで送らせた。

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。