美濃路七宿のうち「墨俣宿」

美濃路七宿

のうち墨俣宿

岐阜県大垣市墨俣町

美濃国

 

美濃路ー1の2
(大垣宿続編) へ

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー2の2
不破一色間の宿 へ

 「美濃路ー2」は大垣宿東口の東総門(名古屋口門)から宿を出て、江馬蘭斎蘭学塾跡、三塚一里塚跡、三塚城址、鎌倉街道名残の小野の長橋跡、東町の常夜灯、佐渡(さわたり)の渡し跡、揖斐川を渡り照手姫ゆかりの結神社と町屋観音堂、米(よね)の宮之跡、東結一里塚跡、墨俣宿入口美濃路碑、墨俣城から墨俣宿へ入り朝鮮使節通行記念灯篭から寺町界隈の七寺紹介と墨俣宿本陣跡、墨俣宿脇本陣跡、源義円の墓、源義円公園、鎌倉街道の通る不破神社、墨俣の渡し跡のまでをGPS位置情報と共に、ご案内します。

 

番号 由緒地 地名
−01  東結一里塚跡 岐阜県安八郡安八町東結
−02  琉球使節通行記念灯籠 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−03  墨俣神社(常夜灯台座) 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−04 満福時 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−05 墨俣宿脇本陣跡 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−06 本正寺 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−07 明台寺 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−08 墨俣宿本陣跡 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
−09 墨俣一夜城跡(歴史資料館) 岐阜県大垣市墨俣町犀川堤
−10 小熊の渡し跡 岐阜県羽島市小熊町西小熊
−11 小熊一里塚跡 岐阜県羽島市小熊町1丁目

 

 

 

大変寄り道をしましたが、美濃路の東口「東総門跡」まで戻り美濃路を墨俣宿へ進みたいと思います。

美2-11 佐渡の渡し跡
  (揖斐川)

大垣市東町と安八郡墨俣町結

北緯

35

22

03.2

東経

136

39

36.1

              佐渡(揖斐川)の渡し跡
 かってこのあたりの揖斐川を佐渡(さわたり)川といい、美濃路の渡船場も佐渡の渡しといいました。
 川幅は50間余(約91m)渡船2艘、鵜飼船2艘、船頭は10人、将軍や朝鮮通信使の通行時には、80艘ほどの船橋が臨時に架けられました。 (現在の長良川大橋は390mの長さです。)
                       (一宮市尾西歴史民俗資料館)

対岸へは下流(約1020m)に架かる揖斐大橋を渡ります。

美濃路ー05/15
「佐渡(さわたり)の渡し」から墨俣宿と「墨俣の渡し場」までをご案内します。

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。(本図は5区間目です)

佐渡の渡し(揖斐川)を西結へ渡ります

美2-12 佐渡の渡し場跡(西結)

安八郡墨俣町西結

北緯

35

22

06.4

東経

136

39

44.4

西結の堤防上には渡し場跡を示す社がありました。

堤防を下りると結神社があります。

美2-13 結神社

安八郡墨俣町西結

北緯

35

22

11.0

東経

136

39

49.4

鎌倉街道沿いに続く長い参道

 

             照手姫が結ばれた「結神社」
  安八の「鎌倉街道」沿いの西結にある「結神社」(嘉応年間(1169〜1171)の創設。
 常陸国の小栗判官殿と再会を願った相模国の照手姫が願をかけたところ、のちに結ばれたので「結神社」と言われるようになった伝説が残ることから、縁結びの神として信仰を集めています。
 境内には、側神像群、石狛犬、御手洗鉢、など町指定の文化財も数多くあります。
 このあたりの地名もこの神社から由来しています。

                 結神社縁起
 この地は多くの大宮人、名士、高僧の祈願をこめられた古歌が残っております。
  永享の頃(1430)照手姫は結大明神へ、七日間祈願し、小栗判官と再会し守り本尊一寸八分の黄金をこの社に納められました。(この守り本尊が町屋観音の本尊と伝えられています)
 天正三年(1575)織田信長が結大明神へ、七日間祈願し、朱印状を下したと伝えられております。
 文政九年(1826)越前の国(福井県)鯖江藩主 間部氏は、旅の途中 結大明神の下馬先をけがしたことを深く恥じ御手洗水鉢(みたらしばち)を寄進しました。
 明冶36年の揖斐川大改修により、旧境内は、河川敷となり、現在地に遷座申し上げました。
                           (現地説明版より)
                   安八町指定文化財 
一、彫刻・神像群(本殿内)
   大小十七体の神像群で、いずれも木彫である。この神像は御神体ではなく神社に奉納された 測神ではあるが年代の古いと思われるものもあり結神社の歴史を語る貴重なものである。
一、彫刻石造狛犬(一対)本殿内
 江戸時代前期三百十七年前寛文五年
 寄進 花村木左衛門

正確な位置は不明です。

美2-14 結城址

岐阜県安八郡安八町西結

北緯

35

21

58.4

東経

136

39

42.3

結城址と付近の城址高田二郎兵衛の館が結神社から南西700mの地にありました。

         結城の歴史
 高田二郎兵衛は斉藤道三の家臣で六人衆と呼ばれた大将格で天文年間(1532〜55)に結城主として三千貫を領し、東結入方の津島神社や社領を寄進したりしましたが、永禄四年(1561)五月、織田信長軍と森部で戦い大垣城主だった長井甲斐守衡安とともに討ち死にし斉藤軍は敗走ました。
            結神社と織田信長
 天正二年(1574)信長は長島の一向宗を焼き討ちしました。
 しかし、まだ東は武田勢、西には一向宗の反対勢力があり、翌天正三年(1575)、長篠の合戦、越前の一向宗を撃つ前に、この結神社に、七日間の戦勝祈願をしたと言われています。その後、信長は天下を取ることになった縁起もよい祈願でした。
              (安八町教育委員会)

結神社から80mほど東に町屋観音があります。

美2-15 町屋観音

岐阜県安八郡安八町西結町屋

北緯

35

21

03.1

東経

136

39

58.8

                 歴史の道
                   
鎌倉街道

 今からおよそ八百年くらい前のことです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京都と鎌倉を結ぶ道路が整備されました。
 京都から東山道を通って美濃の国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣町二ツ木を通り上宿で長良川を渡って羽島市を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道へ入り、鎌倉へ通じることから鎌倉街道(美濃路)とも呼ばれ、当時は最も大切な道路であり史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る道です。

              この地を待合(町屋)という由来
 この地は中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、在る時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名が付けられたといいます。
 結出身の蓑虫山人(むのむしさんじん=天保七年(1836)東結上村に生まれる)の絵日記のなかにも待合とか待合川とかの名が記されています。また、この地には大垣と名古屋を結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くには渡し場や結神社があり旅館や店などがならび宿場町をなしてたといこうとから、いつの世からか待合の町屋と地名が改名されたようです。              

          照手姫ゆかりの町屋観音堂
この観音堂は嘉応年間(1169頃)創建の結神社と共に参道東側に建立されていましたが明冶24年の濃尾地震で本堂が倒壊し、また、揖斐川の河川改修(1904)にて其の地は河川敷となり、そのため約29年間民家にご本尊は安置されていましたが大正8年にこの地に本堂が再建されました。
 しかし老朽化とこのたびの歴史の道路整備事業の関係で平成6年現地に再建されました。

 この十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀の木で彫刻された観音で、頭上の一寸八分(約6a)の黄金仏は照手姫の守本尊であります。
                         (現地説明板より)
                          「町屋」

  西結町屋は鎌倉時代からの交通の要所で揖斐川渡船場もあり住家も並び街道の宿場として賑わい村となりました。 何時のまにかこの地を、渡船を「待合う」ことから「町屋」と言われるようになった伝えられています。

更に東へ150mほど進むと右側に日吉神社があります

美2-16 日吉神社

岐阜県安八郡安八町東結

北緯

35

22

02.8

東経

136

40

00.7

詳しい由来は不明です

更に東へ80mほどの左側に「米の宮之跡」

美2-17 (よね)の宮之跡

岐阜県安八郡安八町東結

北緯

35

22

01.9

東経

136

40

02.4

               「米の宮之跡」(よねのみや)
 「当村往還の傍に昔よりあり、ヨネの宮といい後に転じて米之宮と言う、云々」と説明があります。 

「米の宮之跡」から780mほど東へ進むと堤防から下りる道があり、その道を下ります。

堤防下に東結ぶの一里塚跡碑と地蔵堂があります。

美2-18 東結の一里塚跡

岐阜県安八郡墨俣町先入方

北緯

35

21

52.9

東経

136

40

27.9

           安八町史跡 美濃路一里塚跡
 慶長九年(1604)初代将軍徳川家康は、江戸日本橋を起点として主要街道の一里毎に塚を築きました。 後に脇街道にも及ぼし、塚の大きさは五間四方(9b四方)が基準で、塚の上には榎(えのき)や松などを植えて旅人に便宜を与えました。
 昔、町屋から先入方に至る約1,300mの間は、立派な松並木でありました。
 松は「いがみしゃしゃくれ」といって曲がりくねっていました。
 三又のところに「左大垣道」之道しるべが建っていて、道の両側に一里塚がありました。
                         (安八町教育委員会)
 
地蔵堂の台座に「右 墨股 左 大垣」と刻まれ、脇には「美濃路 一里塚跡」の石碑があり、堤上の南北に一里塚がありました。
                     (一宮市尾西歴史民俗資料館)

東結之一里塚跡から堤防上へ戻り更に東へ1kmほど進むと堤防下へ下りる道があります。

堤防下へ下ります。墨俣宿へ入る西口です。

美2-19

 美濃路碑

岐阜県安八郡墨俣町八幡町

北緯

35

21

47.1

東経

136

41

08.4

宿へ入る堤防下に「史跡 美濃路」碑があります。

碑の前を道を南へ入ります。

「谷汲山道追分」
 しばらくすると伊吹山が遠くに見えてきます。
 谷汲山道の碑が街道脇に立ち、道が北へ分かれます。
 碑の隅には「谷汲山へ六里半」の文字が見えます。
 六里半は約26km、6時間半の距離です。
 途中、休憩も入れると約8時間、ほぼ1日のコースです。
10年前に訪れた時の画像です。現在調査中です

宿へ入らず堤防上を東へ進むと墨俣歴史資料館(一夜城址の建つ天主閣型の建物)

美2-20 一夜城跡

岐阜県安八郡墨俣町墨俣字城之越

北緯

35

21

50.6

東経

136

41

25.7

平成3年以前の一夜城址
 一夜城は雨露がしのげる程度の小屋と見せかけの櫓や塀等で城とはいえない小さな砦でした。
 役目を終わった後は荒れるに任せた状態でした。

一夜城内神社
 城内には「白鬚神社」がお祭りしてありました。

左上の画像は歴史資料館が建つ前の一夜城址の様子です。
墨俣宿を出ると「一夜城址」脇へ
歴史にない天守の城
 一夜城址に突然輝く天守。
 本当の一夜城は粗末な急こしらえの砦でした。
 町の観光事業とは言え夢を壊す暴挙に思えます。
古道約3kmは堤防の上
 「浅間神社」から、まず「一夜城址」付近へ出て西へ「犀川」の堤防上を進みます。
 洪水から街道を守るためでしょう。
しばらくすると「一夜城」が遠くに見えます。

先ほどの堤防下の「美濃路碑」から宿内へ入ります。

美2-21 一夜城前
地蔵堂道標

羽島市正木町須賀

北緯

35

19

56.8

東経

136

43

48.8

由来調査中

 

墨俣(すのまた)宿

宿場の概要

大垣藩領、 宿高 不明、

宿長 7町7間(約776m)、 人口 1、218人、 家数 263軒、 

旅籠 11軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 1ケ所、          

大垣宿から 二里五十間(約7,9km)(三塚一里塚・東結一里塚)

起宿まで 二里十七町二十五間(約9,8km)(東小熊一里塚・f不破一色一里塚)

              墨俣宿(すのまたしゅく)
 濃州徇行記は江戸時代の「すのまた」の町柄をよく伝えています。
「町の長さ七町七間(830m)あり、町の名を河端・中町・本町・西町・横町という。街並みは大体よき処なり、中町・本町の間、旅籠屋多し。本陣は中町にあり。農業の外には宿屋・茶屋・小商いを以て渡世とするよし。茶屋は皆、長良川の堤防にありて景色よし。北裏に小百姓屋あり、これを殿町という。又その北、犀川堤上にも民家あり」と記しています。
 この記述を頭に入れて墨俣の町を歩くと風景はほとんど同じです。
家数二百六十三軒
 享和二年(1802)の記録には戸数263軒人口1,218人とあります。
 助郷(すけごう)制度に支えたれて江戸時代の墨俣は宿場町として繁栄しこの地域の経済・文化の中心地となりました。
 助郷制度=大名行列など多くの人手が要るときは、周りの村から人馬などの手伝いを出させる制度
                  墨俣宿ー2
 墨俣宿といえば、戦国時代に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が築いた一夜城で有名ですが、鎌倉時代には鎌倉と京都を結ぶ街道として整備された鎌倉街道が上宿と二ツ木を通るなど、古くから交通の要所でした。
 阿仏尼の「十六夜日記」に、建治三年(1277)墨俣の長良川で船橋を渡った記述が残っています。江戸時代の美濃路になってからも、墨俣の渡しに、将軍や朝鮮通信使の通行の際、揖斐川、境川、木曽川とともに臨時に船橋が架けられました。
 天保十四年(1843)の墨俣宿には、家数338軒、人口1,317人、旅籠10軒(大6軒、小4軒)、本陣・脇本陣各1軒、問屋場1か所がありました。
 室町時代末期には、街道が上宿から中町、本町、西町に移り、慶長年間(1596〜1615)中町に本陣が置かれました。初代を沢井九市郎正賢といい、二代目以降代々沢井彦四郎を名乗り、明治まで13代続きました。
 『濃州徇行記』には、「あり。町の名を河端・中町・本町・西町・横町という。
 町並みは大体よき処なり。 中町・本町の間旅籠多し。北裏に小百姓屋あり。これを殿町という。又その北犀川堤上にも民戸あり、ここを城ノ戸という。」とあります。
 また、弦歌が賑やかであったとも伝えられており、街道から一歩入ると多くの寺院や史跡が残る宿場町です。

西から宿へ入ると先ず八幡神社の前を通ります。

美2-22 八幡神社

岐阜県安八郡墨俣町八幡町

北緯

35

21

46.6

東経

136

41

08.1

              正八幡宮由来
 この八幡宮の南に鎌倉街道があり、美濃路は鳥居の前を通り、東国・西国通行の要衝の地でありました。
 従って中世代より源氏の武将や織豊の戦国時代の武人たちがしばしば参詣に訪れました。
                 (以下読み取り不能 現地説明板より) 

美濃路は八幡神社から160mほど南へ進んで四差路を東へ曲がります。

そして東へ110mほどの地元信金の隣に津島神社と秋葉神社があります。

この津島神社と秋葉神社に琉球使節通行記念灯籠が移築されています。

美2-23 琉球使節
通行記念灯籠

安八郡墨俣町本町

北緯

35

21

41.4

東経

136

41

13.2

            琉球使節通行記念燈篭
 墨俣の人々が、寛政3年(1791)琉球使節の帰国の際、一行の儀衛正(路次楽の責任者)であった毛廷柱に天王社(現津島神社)の常夜灯への揮毫を依頼しました。
                      (一宮市尾西歴史民俗資料館)

毛廷柱の揮毫の文字

「常夜燈」「牛頭天王」

 

      津島神社沿革
 愛知県津島市、津島神社の分身と伝え、創立年紀は不詳。
 除疫神として厚い信仰があり、寛政三年正月 琉球国使節一行通行の際奉納する石灯籠に刻銘文を願い、儀衛正の毛延柱が執筆する。
        (現地説明板より)

津島神社(琉球使節通行記念灯籠)から東へ80mほどの北側の四辻を南(右)へ曲がると寺町へ入ります。

寺 町

       寺町と史跡・文化財
 寺町はその名が示すとおり、この近在には珍しく寺院が集まり昔の面影をとどめている。
 美濃路の宿駅に関係が深い、満福寺・光受寺・等覚寺・本正寺・広専寺は真宗大谷派を本山としている。
 明台寺は浄土宗西山禅林寺派永観堂禅林寺が本山である。
 各寺院には寺宝・文化財が多い。
 特に明台寺は史跡に富む。土岐悪五郎の墓・頼山陽の墓碑文・斉藤利藤の墓・墨俣本陣の墓群・橋杭笑地蔵尊浄土曼陀羅など歴史の歩みを深く感じさせるものがある。
               (現地説明板から)

美2-24 光受寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

39.4

東経

136

41

16.3

美2-25 等覚寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

39.2

東経

136

41

15.9

美2-26 満福寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

38.8

東経

136

41

15.6

               中本山として
 平安初期創建の満福寺は、天文日記(石山本願寺日記、1536)によると、この頃には末寺を持ち、織田信長が攻め入る長島合戦には第13代釈祐鎮が「愛山保護法」と参じ、自害している。
 天正九年(1581)には、人心安寧を願う豊臣秀吉より三百三十石の采邑を賜って後、寺基をこの地に移した。
 徳川初期には末寺七十ケ寺、後には九十六ケ寺を持つ中本山として隆盛を極めたが、明冶初期ことごとく独立した。
 古来美濃三か寺の一宇ともいわれ、世人「墨俣御坊」とも呼んでいる。
 ご本尊「阿弥陀如来」は春日の作と伝えられ、熊谷堂、境内にも法宝物、句碑など多数存する。
                       金足山 熊谷院 満福寺

美2-27 本正寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

39.4

東経

136

41

16.9

山門は脇本陣の門
明冶末年に脇本陣の門が移築され、現在の山門として残っています。

美2-28 広専寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

38.8

東経

136

41

16.6

美2-29 明台寺

安八郡墨俣町寺町

北緯

35

21

35.7

東経

136

41

21.2

         橋杭笑地蔵(はしくいわらいじぞう)(明台寺)
 昔、墨俣川に橋があり、朽ちた橋杭が夜光を放つため、村人が掘り出すと、お地蔵様の姿に見えたので、大切に祀りました。
 その後、弘仁(こうにん)年間に参議小野篁公が彫刻して地蔵尊を完成しました。
 天慶二年に朱雀天皇がこの地蔵堂で雨宿りをされ、村人から地蔵様の由来を聞いて、「朽ち残る 真砂の下の橋ばしら また道かえて 人渡すなり」と献歌されると、にっこり笑われたので、以来、「橋杭笑い地蔵様」として大切にお祀りされています。

「墨俣宿」は海からは「桑名」方面からの街道、山からは「谷汲参詣」街道が集まるところで、
街道で一番の遊郭などがあった、にぎやかな宿でした。

美2-30 墨俣宿脇本陣跡

安八郡墨俣町中町

北緯

35

21

40.5

東経

136

41

19.7

                  脇本陣跡
 脇本陣は昔のままで現存します。
 脇本陣は普通の住宅として使用されているため屋根の上にクーラーの屋外機があったりしますが、玄関も別にあり昔の面影をできるだけ残すよう配慮されています。

三月初旬には宿場全体でつり雛祭りが行なわれ脇本陣も開放されます。

脇本陣から80mほどの内堤防の手前南角が墨俣宿本陣跡です。

美2-31 墨俣宿本陣跡

安八郡墨俣町中町

北緯

35

21

40.4

東経

136

41

22.9

                  本陣跡
 墨俣町中町の堤防角にあった本陣建物も今はない。
 慶長年間に初代「沢井九市郎正賢」、二代目以降は代々沢井彦四郎を名乗り明治に至るまで、十三代続きました。
 その間に天皇の勅使、各藩の大名、また朝鮮や琉球の使節も宿泊するなど栄えました。

堤防上から墨俣宿を見る

美2-32 墨俣宿碑

安八郡墨俣町中町

北緯

35

21

40.8

東経

136

41

23.4

                    墨俣宿「美濃路」
 美濃路は東海道の熱田から分かれ、名古屋、清洲、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七宿を経て中山道の垂井宿に至る脇街道です。
起から二里十七町(約10km、江戸からは九十七里十二町(380km=10時間/1日歩き12日間の距離)の位置にあります。
 大名の定宿として本陣、脇本陣があり、宿立人馬の立場を業務とする問屋場、墨俣渡しの渡し場あり、で賑やかでした。
                 墨俣宿碑と史跡「美濃路」碑
 墨俣は芸者の町としても有名でした。
 古い時代から渡船場として重要地点であり、無料休憩所、宿泊所があったと言われています
 平安時代には長者遊女の本拠となり、鎌倉時代には鎌倉街道の宿場となり、繁盛を極めました。
 江戸時代中期には飯盛女八人を許可されたのが、宿場としてより遊郭として旅人の評判となり、その伝統は明治を過ぎ昭和初期まで続きました。

本陣跡の堤防道路を南へ進むと「源平墨俣川の合戦」跡と源義円(みなもとぎえん)の墓などがあります。

本陣跡〜南へ1kmほどの地点に源義円をお祭りする「義円地蔵堂」などがある義円公園があります。

美2-33 義円公園

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

20

58.8

東経

136

41

12.6

              源平墨俣川の合戦
 養和元年(1181)長良川をはさんで源平の大激戦が展開された。
 世にいう源平墨俣川の合戦である。
 同年二月四日平清盛病死す。
 東国源氏は勢を得て、京へ攻め上る。
 これを迎え討つため、平重衡を総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久などの武将七千余騎杭瀬川を渡り、右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。
 一方源氏の将行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側に着陣す。
 源頼朝は応援のため弟の源義圓をつけ、西上させたが合流せず、2町を隔てて軍を整えた。
 義円は行家に先陣されては兄頼朝に合す顔がないと考え、唯一人馬に乗り、敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに「義圓は今日の大将なり」と名乗って先陣のさきがけをしようと、白む夜明けを待っていたところ、見回り夜警兵に見とがめられ、「兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦い、武運つたなく、力尽き平盛綱に討たれた。
 源氏は戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟 討死し、行家の子太郎光家兄弟は平忠度に捕らえられた。
 敗れた源氏は退き、矢矧(やはぎ)川の東岸まで退き東国源氏の大兵来ると宣伝し勢を盛りかえして遂に平家を亡ぼすことになる。
 源義圓は頼朝の異腹の弟で義朝(源頼朝の父)の妾常盤御前の子義経と同腹の兄にあたる。
 幼名を乙若といい、天王寺に預けられていた。
 兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、黒染の衣を着て鎌倉へ駆けつけたと思われる。
 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた。 二十五歳である。
 (源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より) 
 里人は義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年三月十日に供養を続けている。
 これより百五十米西に墓がある。
 昭和五十六年三月十日に八百年祭が行なわれた。
                          (安八郡墨俣町)

この戦いで敗北した源氏軍は東へ敗走します。
追撃する平家軍が現岐阜市柳津町佐波で陣を張って休んでいた所へ、
追いつき合戦となります。詳しくは「源平の古戦場」大垣城周辺の城址(02)を参照して下さい

源義圓(みなもとのぎえん)とは?

源氏の系図(源義家から四代までの抜粋)

「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。

┬ 義朝────┬義平(母は三浦義明娘とも京都橋本の遊女とも。平治の乱後に捕らわれ斬首)                                                                          
│                    │                                                                               
├義賢──┐   ├朝長(母は波多野義通の妹。平治の乱後に自害)        ┌千鶴丸(3歳で祖父に殺される。母は伊東祐親の四女・八重)       
│              │    │                                                                                                   │                                                                                       
├義憲(義廣)   ├頼朝(母は熱田神宮大宮司藤原季範の三女・由良御前)─   ┼大姫(20歳で病死。以下、実朝まで母は政子)                               
│              │    │                                                                                                   │                                                                             
├頼賢   │    ├義門(頼朝と同母?・平治の乱後に戦死?)                            ├頼家(ニ代将軍)────┬ 一幡(母は比企能員の娘若狭局。
│             │    │                                                                                                   │                                           │
├頼仲   │    ├希義(頼朝と同母?・土佐で戦死)─希望(土佐吉良氏の祖)  ├乙姫(14歳で病死)         ├ 公暁(実朝を殺し死亡)        
│             │    │                                                                                                  │                                            │
├為宗   │   ├範頼(母は近江池田の遊女)─範円─為頼─義春─義世    ├実朝(三代将軍)       ├ 栄實(承久元年自害)
│             │    │                                                                                                  │                                            │
├為成   │    ├阿野全成(母は常盤)─時元                                                  └貞暁(母は藤原朝宗の娘) ├ 禅暁(京都で殺害される)  
│             │    │                                                                                                                    (鎌倉法印)            │
├為朝    │    ├義圓(母は常盤。墨俣川の合戦で討死)                                                                             └ 竹御所(藤原頼経室)
│            │    │             
├為仲     │    └義経(母は常盤。平泉高舘で自害)
│       │
 └行家   ├──仲家(義賢が殺された時は在京し頼政の養子となる。後に宇治川で平家と戦い討死)
                  │
                └──義仲(母は義賢の側室・小枝御前)─義高(母は山吹御前・巴御前説もあり)  │       
               治承、寿永の乱
 
治承、寿永の乱(じしょう、じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
 後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。
 最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
 そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。
 しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。
 この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。
  しかし平家はこの年から活発化した北陸の反平家勢力の蜂起は見過ごすことができず、8月に平通盛、経正を将とする軍を派遣する。
 しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に、兵糧不足になやまされた平家は北陸地方の反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。
 この年、京都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに治承の元号を用いた。 この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先し、源氏軍も頼朝が未だに平治の乱の赦免を受けておらず、上洛のための政治的、軍事的条件を整える時間が必要であった。
 九条兼実の日記『玉葉』にはこの年の8月1日条にて、先頃後白河法皇の元に頼朝の密使が送られたことを記している。

この戦いで源氏側は大敗を喫し、尾張源氏の泉太郎重光兄弟ら多くの武将が討ち死にしたり、捕らえられたり、溺死したりする者六百九十余人に及びました。
村人がお祀りした地蔵堂から150mほど離れた田の中に墓があります。
常磐御前
 義圓は知多半島で入浴中に討たれた父、義朝の妾、常磐御前の子で、幼名「乙若」と言い頼朝とは異腹兄弟で弟に「牛若」(源義経)がいる。
 母、常磐御前は二人の子を追い赤坂まで来たとき、賊に襲われ殺されて子供に会うこともできず赤坂で葬られました。
(詳しくは「中山道関ヶ原・常盤御前墓」で紹介します)

源義円(圓)供養塔

史跡 源平墨俣川古戦場碑

義円地蔵堂

義円公園の西150mほどに源義円の墓があります。

美2-34 源義円(ぎえん)の墓

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

20

59.8

東経

136

41

08.6

柿の実に飾られた墓の標識

田んばの中に今も残る墓石

義円公園の北100mほどに鎌倉街道が残っています。目印は西来寺です。

美2-35 西来寺

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.2

東経

136

41

12.5

西来寺の西に不破神社があり、その境内に鎌倉街道碑があります。

壬申の乱伝説がある
美2-36
不破神社

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.5

東経

136

41

10.5

     史跡・伝説案内 大海人皇子と不破明神
 西暦671年天智天皇崩す。
 先に吉野に難を逃れていた東宮である弟の大海人皇子(天武天皇)と太政大臣である御子の大友皇子(弘文天皇)の間に皇位継承の争いが起きた。 壬申の乱である。
 中央集権国家成立期における最大の悲劇である。
 大海人皇子は大津宮を去り、吉野に逃れたが、更に身の危険を感じ伊賀、鈴鹿より東宮の領地である美濃に逃げる。
 従うものは鸕野讃良皇女(うののさらのひめこ)をはじめ二十人ばかり。
 ここで敵に襲われたらもう助からない。味方のいる美濃までは何とか逃れたいと強行軍が続く。
 この後、安八磨郡の湯沐令多臣品冶に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼし、飛鳥浄御原に即位された。
  宇治捨遺物語に『大海人皇子墨俣に渡にて難を逃れたまう』と記してある。
 その一節を示すと『この国の州俣のわたしに舟もなく立っておられた。女が大きな湯舟で布を入れて洗っているとのを見て、「何とかして渡って行きたいが」といわれると、女は「一昨日大友の御使といふものが来て、渡舟場の舟をみな隠して行ったので、ここを渡っても多くの渡船場を通過することはできない。こうして話をしているおるうちに今敵軍が攻めて来るでしょう。どうして逃れられますか」という、「さてどうしたらよいか」と申されると、その女がいうのは「あなたを拝見するとただ人ではなく貴い人のようです。ではこうして下さい」と言って、湯舟をうつぶせにして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置いて、水汲みかけて洗っていた。
  しばらくして兵 五百人ばかり来て、女に問うて言う。「ここより人が渡って行ったか」といえば、女は「貴い人が軍兵千人ばかり率いてこられた。今頃は信濃の国に入っておられるでしょう。素晴らしい龍のような馬に乗って飛ぶように見えた。この小勢で追付いても皆殺されてしまうでしょう。これから帰って軍を多く備えて追うとよいでしょう」というと、本当にそうだ思って大友の皇子の兵は引き返した。
 その後 大海人皇子は女に仰せられるには「この辺で軍勢を集めたいが出来ないだろうか」と問われると、女はしりまどいて、その国のむねとあるものどもを集め語り合うと二、三千人の兵が出来た。
 それを引具して大友皇子を近江国大津に追い討ち滅ぼされた。
 このすのまたの女は不破明神の化身であると伝えられている。』  (不破神社説明板より)
   大海人皇子と鸕野讃良皇女と薬師寺
 奈良薬師寺は病気の皇后(鸕野讃良皇女、のちの持統天皇)のために、天武天皇(大海人皇子)が建てようとしたお寺である。それは奈良に都ができる三十年前のことだった。
 薬師寺を建てはじめたころ、幸いに皇后の病気は平癒、ところが今度は天武天皇が病気になり、遂に亡くなってしまう。
 持統天皇は、亡くなった天武天皇を強く思慕しつつ、遺志を継いで薬師寺を完成させた。
 薬師寺は、初めは藤原京(奈良県橿原市)に建てられたが、遷都により、平城京に移ってきた。
 東寺は三重塔。しかし屋根の下にそれぞれ裳階(もこし)が付くので、一見すると六重塔にみえる。大きな屋根の下に小さな裳階。
 度重なる兵火にかかり当時から残るのは東塔(手前)のみです。

「古道」の始まり
 「鎌倉街道」の前から東海道の”熱田の宮”より「東山道」美濃の国府を結ぶ官道がありました。
 そのころの「州俣(墨俣)の宿駅」は現在の墨俣町上宿と下宿の地に当たります。
 また、日本武尊が伊吹平定に通ったとも伝えられています。
 仁明天皇の御代、承和二年にこの渡しに二艘の渡舟を四艘に増やし、布施屋(無料休憩所)二ヶ所・墨俣川(長良川)両岸(上宿と小熊=墨俣町上宿と羽島市小熊)に建てたと太政官符に記録されています。
 その後鎌倉に幕府が置かれると京都と鎌倉を結ぶ重要街道として整備されました。
 源頼朝、藤原頼経、十六夜日記の阿佛尼、東関紀行の源光行などが通っています。
 室町末期以降の船着き場は中町・本町(200mくらい上流で本陣・脇本陣などがある町)に移り、名前も「美濃路」となりました。

不破神社の西隣に十一面観音堂があります

美2-37 鎌倉街道と    
   
十一面観音堂

安八郡墨俣町下宿

北緯

35

21

12.7

東経

136

41

09.8

鎌倉街道

昔は観音堂前に鎌倉街道標識が

鎌倉街道
 長良川畔の「墨俣町」から揖斐川畔の「町屋」までに鎌倉街道が残っています。
鎌倉街道は鎌倉時代、源頼朝が「鎌倉幕府」を開いた時に、鎌倉から京都まで整備した「官道」で、さまざまな文化の行き交った道として歴史的にも貴重な街道です。

街道は墨俣「上宿」から
 中山道探訪4-2脇街道「美濃路」の羽島市小熊」の渡しで長良川を渡ると、この墨俣町の「上宿」へ着きます。

「壬申の乱」とは
 関ヶ原合戦より以前に、古代日本を二分下天下分け目の戦いが「壬申の乱」です。
前兆
 時の天皇「天智天皇」は皇位継承者を皇太弟(こうたいし=天皇の弟)の大海人皇子(おおあまのおうじ)に決めていました。
 
しかし、しばらくして実子の大友皇子(おおとものおうじ)に皇位を譲りたくなり、671年1月5日に新しいポスト「太政大臣」(だじょうだいじん)を作り大友皇子を任命しました。
 それ以降、 大海人皇子を政権から遠ざけようと、いろいろ手を打ちました。
 しかし、間もなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕元に大海人皇子を呼びあとを託しましたが、大海人皇子は”陰謀”を感じ、これを固辞し出家し、妻(後の持統天皇=じとうてんのう)、子とともに吉野に隠棲し皇位への野心のないことを公に示しました。
下地
 天智天皇は皇極天皇、中大皇子、中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害し大化改新(645年)を断行し叔父の軽皇子を天皇・孝徳天皇とし、自らは皇太子として政治の実験を握り天皇制の確立とした政治改革を推進し、途中反対派の古人大皇子と有馬皇子とを殺害し、後に自らが天皇になリました。
乱勃発
 671年12月天智天皇が没し、政情不安の中、身の危険を感じた大海人皇子は吉野を脱出し、自分の領土の美濃へ昼夜兼行で伊賀・伊勢を回り美濃国不破(関ヶ原)まで急いだ。
 ここに行宮(ぎょうぐう=本陣)を置き、集めた兵を2軍に分け、機先を制せられた大友皇子軍を攻め、瀬田川まで追いつめ、大津京を陥落させました。
自害峰と桃配山
 大友皇子は長等山において自害され、その御首級は、不破の行宮(本陣)に運ばれ首実検の後、葬られ、自害峰として現在も伝えられています。(中山道・不破の関・常盤御前墓の巻に詳細あり)
 また、徳川家康が関ヶ原合戦の時、最初に陣を張った「桃配山」の呼称はが「壬申の乱」の時に
この地で桃を配って兵を激励したという言い伝えから来ているそうです。
 家康もこの、故事にあやかって、見通しの悪いこの「桃配山」に陣を置いたのかも知れません。(中山道関ヶ原宿に詳細あり)
律令体制整備
「壬申の乱」に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子は「天武天皇」となり天皇の神格化・律令体制の整備を推し進めました。

十一面観音堂の向かいにこの地方で有名な
水屋(高い石垣のの上にある避難小屋)
があります。

このあたりのお金持ちの民家
 この辺りから下流にかけては、度重なる洪水に悩まされ屋敷を高い石垣の上に作り難を逃れることにしました。
 お金持ちほど高く積み上げ増したが、現代の車社会では何かと苦労が多いようです。
水屋
 お金のない家は離れなど一部を高くして、そこに炊事場、座敷、貴重品を置き軒下には舟を吊し万一に備えました。

墨俣宿まで戻り長良川の堤防まで上ります。
墨俣の渡し跡は定かではありませんが墨俣宿と上宿の中間辺りと思われます。

美2-38 墨俣の渡し跡

安八郡墨俣町上宿

北緯

35

21

21.2

東経

136

41

22.7

渡し跡は洪水や河川改修のため、それらしきものは何もありません。
長良川を渡って羽島市へ入ります

美2-39 長良川渡船

 

北緯

35

21

19.6

東経

136

41

26.4

渡しの跡あたりの長良川です。

街道コラム

【琉球使節】

 江戸時代、今の沖縄にあった琉球国は、国王の代替わりに恩謝使が、将軍の代替わりに賀慶使が、琉球から江戸に派遣されました。
 これを琉球では「江戸上り」、一般に「琉球使節」と呼びました。琉球使節は、寛永十一年(1634)から嘉永三年(1850)までの間に、恩謝使・賀慶使あわせて18回派遣されています。
 およそ100人前後の行列でしたが、薩摩藩士の参勤交代の数百人が加わり、江戸幕府に臣下の礼をとる国が国外にあることを示すものでした。
 琉球使節は、那覇から海路を薩摩(今の鹿児島県)へ向かい、一旦鹿児島の琉球館に滞在します。
 陸路を川内まで行き、久見崎から海路で九州西海岸を北上、瀬戸内海の各地に寄港し、大阪から淀川をさかのぼります。
 伏見から東海道を江戸へ向かう片道2,000kmの旅で、日光東照宮にも3回参拝しています。
 寛文十一年(1671)、恩謝使が江戸からの帰途、東海道を宮(熱田)宿から伊勢湾の「七里の渡し」で桑名へ渡るとき、強風に遭難し各地に漂着する事故がありました。
 この事故が直接の原因かは明確ではありませんが、その後2回(往復)「七里の渡し」を通航した後、正徳四年(1714)以降は東海道草津宿から中山道人に入り、垂井宿から美濃路を通行するようになりました。
 このことは、美濃路通行が東西交通の安全なルートであることを物語っているようです。
 ちなみに、朝鮮通信使の江戸往復には終始美濃路が利用され、「七里の渡し」は通航しませんでした。

 

美濃路ー1の2
(大垣宿続編) へ

美濃路七宿
(目次)へ

美濃路ー2の2
不破一色間の宿へ

美濃路七宿のうち「墨俣宿」

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。