美濃路七宿のうち「名古屋宿」

美濃路七宿

のうち名古屋宿

愛知県名古屋市中区那古野

尾張国

 

美濃路ー6
清洲宿へ

シルバーの散歩道
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美濃路ー7の2
宮の渡し・宮宿へ

 

番号 由緒地 地名
-01 五条橋
-02 屋根神様
-03 四間道
-04 伝馬橋
-05 札の辻跡
-06 大須観音
-07 西別院
-08 東別院
-09 古渡城跡

 

-01 五条橋

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-02 屋根神様

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-03 四間道

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-04 伝馬橋

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

名古屋宿

宿場の概要

尾張藩領、 宿高 なし、

宿長 23町(約2,509m)、 人口 1、002人、 家数 236軒、 

旅籠 なし、 本陣 なし、 脇本陣 なし、 問屋場(伝馬番所) 1ケ所、

清洲宿から 二里(約7,9km)(須ケ口一里塚・江川一里塚)

熱田(宮)宿まで 一里半(約5,9km)

              名古屋宿
 名古屋宿は、尾張藩の城下町で宿高(しゅくたか)はなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町の「伝馬役四カ町」
で宿役(伝馬会所)は、伝馬町筋本町西南の角にあり、高札場と向き合っていました。
 この付近を「札の辻」といい、宿場の中心でした。
 宿場の長さは、23町(約2,509m)で、天保十四年(1843)の名古屋宿は、家数1,157軒、人口4,188人でした。
 名古屋宿は、慶長十八年(1613)に設置されましたが、はじめは道中奉行の支配下ではなかったので、寛文三年(1663)に藩の願い上げにより道中奉行の支配下となりました。
 他の宿場とは異なり、宿内には本陣・脇本陣・旅籠屋がありませんでした。
 原則として名古屋宿での諸大名の休泊はなく、上りは宮宿から清須宿まで、下りは清須宿から宮宿まで直通させ、名古屋宿を通過させました。
 ただ貴顕(きけん)の休泊の場合には藩からの指示に従いました。
 たとえば、朝鮮通信使の場合には性高院を宿所として、藩が接待に当たりました。
 また、一般の旅人は宿場に近い玉屋町にあった22軒の旅籠屋を利用しました。
 このように名古屋宿は特殊な宿場でしたが、一般の人馬継立は、伝馬番所で他の宿と同様に行いました。
 伝馬番所は初め渡辺金左衛門が勤め、寛文3年に吉田伊兵衛が受け継ぎ、以後吉田氏が世襲しました。
 また、立人足や囲人足がなかったので、必要な場合には2軒あった人足問屋からの雇人足を利用しました。

美濃路ー14/15
「伝馬会所札の辻」から名古屋宿と「古渡城址」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は14区間目です)

 

 

-5 伝馬会所札の辻

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-6 大須観音

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

栄国寺

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

美濃路外れ

 

芝居濫觴(橘座)跡

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-09 古渡城址碑

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

東別院境内

美濃路ー15/15(終り)
「名古屋別院」から宮宿と「七里の渡し跡」までをご案内します

美濃路全区間を15区間に分けてご案内します。
(本図は15区間目の最終区間です)

 

 

-08 真言宗大谷派
名古屋別院
(東別院)

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-07 西本願寺名古屋別院

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

白山神社

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

-06 大須観音

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

金山駅近く

三叉の道標

愛知県

北緯

35

12

12.2

東経

136

50

35.4

 

 

 

 

 

 

「美濃路」はここで終点です。
東海道「宮宿」を起点とすればここが「美濃路」の始まりです。
長い間ありがとうございました。

街道コラム

【朝鮮通信使】

 江戸時代は外国との国交のない鎖国の時代と思われていますが、日本と正式な外交関係を続けていた唯一の国が李王朝の朝鮮国でした。
 その朝鮮王国からの国書と共に徳川将軍の代替わりなどの際に派遣されたのが朝鮮通信使です。
 朝鮮国からの使節は、室町時代の足利政権に対するものから豊臣・徳川政権へと続き、江戸時代には12回派遣されました。12回のうち、10回が江戸まで旅をしています。
 その10往復すべてで、美濃路を通行しました。
 中山道の垂井宿から美濃路にはいった一行は、大垣宿で宿泊し、はじめは墨俣宿、のちに起で休息し、名古屋宿で宿泊となりました。
 通信使の一行は300〜500人で、正使・副使・従事官の三使を中心に、学者や画家・書家・楽師など多彩でした。
 昼休みに立ち寄った起宿でも通信使一行の知識人と詩をやりとりするなど、行く先々で日本人との文化交流がさかんでした。
 美濃路では、揖斐川(佐渡川)・長良川(墨俣川)・境川(小熊川)・木曽川(起川)の4つの渡船場に船橋が臨時に架けられました。
 特に木曽川の船橋は恐らく日本最長で、850mを超えて270艘以上の船をつなげた橋でした。
 朝鮮通信使が壮大な船橋を渡るハイライトシーンが見られるからでしょうか、見物人が遠方から数多くやってきたということです。

 

 

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