美濃路-4清洲宿から名古屋宿・宮宿まで中山道六十九次のうち五十八宿目で中山道美濃十六宿の十四番目の宿「垂井宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十八宿

岐阜県不破郡垂井町

美濃国

JR東海線垂井駅下車

「垂井宿」巻は、中仙道と美濃路の「追分道標」、「美濃路松並木」と美濃の中心地「垂井宿」の相川橋の四差路、
垂井宿入り口の「相川の人足渡し」、「垂井宿問屋場跡」、現役の旅籠「亀丸屋」、今は医者の「垂井宿本陣跡」、南宮大社鳥居、
垂井の泉、垂井城跡の「専精寺」、垂井城址碑、玉泉禅寺、垂井宿脇本陣跡、「時雨庵」のある本龍寺と垂井宿高札場跡、
油屋から旅籠になった「油屋卯吉の家」、太平記ゆかりの「長屋氏屋敷跡」、「紙屋塚」、広重の浮世絵の「西の見付」、
「八尺地蔵尊」、松島稲荷、岩手路沿いにある美濃国府跡と御旅神社、美濃国府跡碑のある安立寺、忍勝寺山古墳、
若宮古墳、大滝地区にある古墳群、岩手下町の「常夜灯道標」、「岩手のヤマモモ」、「岩手の道標」、春日路道標、
竹中半兵衛子孫が開いた学校「菁莪義校(せいがぎこう)」、「竹中氏陣屋跡」、菩提路道標、
竹中半兵衛の墓のある禅幢(ぜんとう)寺、などをGPS位置情報と共に紹介します。

       

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道  青線:岩手路)
垂井宿追分道標JR東海道線日守踏切までの1,580m
岩手路を垂井追分の追分橋竹中半兵衛の墓のある禅幢寺までの約3,590m案内します

垂井宿

宿場の概要

幕府領・大垣藩領、 宿高 七百石、 人口 1、250人、 家数 320軒、 

旅籠 二十七軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 三ケ所、

江戸から        111里8丁(約437km)
江戸から美濃路経由 101里半(約399km)
          

赤坂宿から 一里十三丁(青野一里塚)

関ヶ原宿まで 一里半(垂井一里塚)

「垂井宿」は一時「日向藩領」でした
「垂井宿」は一時、日向国延岡藩領(宮崎県延岡市)となり、寛永三年(1750年)再び幕府領となりました。享和四年(1804年)から幕末までは大垣藩預かり所となりました。

寛政十三年(1801年)当時の宿場は。
寛政十三年(1801年)当時は、多羅尾四郎治郎が代官として治めた幕府領
宿の町並みは六丁(約655m)ありました。
町は「東町」「中町」「西町」にわかれています。

モノクロ画像の「垂井宿」航空写真
画面右下から「赤坂宿方面」→「相川橋」→「旧中仙道」→「丸亀屋」(なるい枡形)」→
本陣跡」→「南宮神社鳥居」→「高札場跡」→「旅籠かめや跡」→「時雨庵」→「野上宿?方面」

                           垂井宿
 垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点となる重要な宿場です。
 宿場の長さは、相川橋南の「東の見付」から前川東の「西の見付」までの長さは7丁余(約764m)です。
 宿内のこの道が2か所折れて桝形を造り、西町内で緩く曲がっており、東西の見付から本陣、脇本陣を見通すことが出来ないようににしています。
 垂井宿には人や荷物を継ぎ立てる問屋場が3ヵ所あって、50人50疋の人足と馬の手配をしました。
 宿泊のための施設には、身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、一般の人が泊まる旅籠屋がありました。
 天和4年(1684)は16軒だった旅籠数も寛政12年(1800)には3倍の45軒に増加しました。
 当時中山道を旅する人は浪花講・関東講などの定宿を頼って泊まりました。
 亀丸屋・長浜屋・丹波屋・若屋・亀屋などの旅籠屋の屋号が残り、亀丸屋は今も経営を続けています。
 南宮大社の石鳥居付近では毎月5と9の日、六斎位置が開かれ、近郷の大勢の人で賑わい、宿場の発展を支えました。
 宿場北を流れる相川は、川幅六十間(約109m)の暴れ川で、橋がよく流されるため、特別な通行があるとき以外は大井川のように珍しい人足渡しでした。

「岐蘇路安見絵図」による当時の垂井宿の解説

岐阜市歴史博物館 蔵

垂井

養老の滝は、南の方二り斗にあり。いせの桑名え行道也。
(「養老の滝」=養老郡養老町養老=は南の方二里半=実測で11km=にあり。伊勢の桑名へ行く道でもある

南宮の鳥井 額に正一位勲一等金山彦大神とあり。(右の画像)

南宮山は、みのヽ中山といふ所也。社は山の麓にあり。大社也。社領三百石。
 
(南宮神社は美濃の中山い言うところにあり、=現在の地名は垂井町宮代)

野上の里、名所なり、むかしはよき宿なり。(現在の関ヶ原町野上)

霞たつ野上の方に行かしば 鶯なきつ春になるらん。

はん女が在所也。寺に御影あり。謡曲「班女」の故郷でもあり、信念寺に班女が送った観音像がある。詳しくは、次々頁の「垂井の一里塚」にあり)

南に鶏籠山あり。

垂井は美濃中心地
垂井は古代には国府が置かれたうえ、一の宮(南宮神社)もあり、美濃地方の中心地でした。
宿場として発達したのは、江戸時代になってからですが、美濃路中山道の両街道の追分と言うので大いに繁栄しました。

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 垂井」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                             説  明
 
垂井は、古くから美濃文化の中心地として栄え、その南西にある南宮(なんぐう)山は『万葉集』にも紹介されている。 また『詞花集』に詠まれた垂井の清水は、南宮山麓にある南宮大社の鳥居近くの(実際は南宮大社は山麓にあるが鳥居は中山道沿いにありその近くにである=管理者註釈加筆)大欅(けやき)の根元にあり、今もこんこんと湧き出ている。
 垂井という地名は、この湧き水の名称によるものといわれる。 図は、雨がそぼ降る中を大名行列が宿場に差し掛かったところである。 人々は道を空けて座り、行列の過ぎるのを待つことになる。
 左右の店は休息所だが、どちらの店も錦絵がかかっている。 左の店には、山に林の印が見え、これは版元である伊勢利の商標である。 本シリーズには、このような宣伝がさりげなく画中に描き込まれた例が多い。
 本図は、大名行列を真正面から見た構図で、遠近を意識した描写になっている。 左右の休息所もほぼ対称に配置されており興味深い。

場所は垂井の「西の見付」付近です
図は雨が降る中、大名行列が差し掛かったところです。
人々は道をあけ行列の過ぎるのを待つことになります。
行列の傘をさした先導は本陣から迎えにきた主人と思われます
(mori@シルバー追記)

先ほどの「垂井追分道標」まで戻り、いよいよ「垂井宿」へ入ります。

追分橋
 「追分」
から「継父川」(ままててかわ)「」を渡ると
「相川橋」
が目に入ります。

 

相川橋袂信号交差点

北緯

35

22

11.7

東経

136

31

59.9

      垂井宿入口交差点
 左折して相川に架かる「相川橋」を渡ると「垂井宿」に入ります。
 「相川橋」を渡らずに直進すると約3.6kmほどで豊臣時代の戦略家「竹中半兵衛」の陣屋跡へ出ます。

垂井宿相川橋

不破郡垂井町垂井 石橋

北緯

35

22

08.2

東経

136

31

57.2

垂井宿入り口にある川「相川」

判読できる箇所を入れてみました。

住宅地図に該当箇所を図示しました。

            相川は橋がなく人足渡しの川
 宿の北を流れる幅六十間(約110m)の川でしばしば氾濫し、瀬と淵が絶えず変わるため橋を架けるのが困難な川でした。
 このため姫君降嫁や朝鮮通信使などの特別通行時には木橋を架けましたが通常は人足渡しでした。
 渡し賃は「乳きり(胸まで)水四十五文、腰きり水二十四文、ひざ上切水八文」でそれ以外は川止めとなりました。(当時の落語に出てくる「蕎麦」が一杯十六文です)

                  東の見付
 「垂井宿」は江戸から58番目の宿、ここ「東の見付」から「西の見付」まで、宿の長さは約766mでした。
                          「見付」の役割
 見付は宿場の入り口に置かれ、宿場役人はここで大名や「お茶壷道中」、「日光例幣使」などの通行を迎えたり送ったりしました。また、事件などが起きたときには閉鎖することになっていました。

相川には毎年春には沢山の鯉のぼりがはためきます。

五街道で初めて大八車の使用が許可
垂井宿は鎌倉時代には「鎌倉街道」の宿場として、そして江戸時代には「中山道」の「美濃路」との分岐点として栄えました。
また、南宮神社の「門前町」で毎月五、九の日に大鳥居で「六斎市」が立ち、賑わいました。
宿場は東町、中町、西町があり、道幅は四間(約7m)ありました。
そして五街道で初めて大八車の使用が許可された宿場でもあります。

垂井宿問屋場

不破郡垂井町垂井 東(あずま)1丁目

北緯

35

22

06.6

東経

136

31

49.4

問屋場は三ヶ所あり、三日交代で役務を務めました。

         垂井宿の問屋場
 間口五.五間 奥行き七.五間の金岩家は、代々「彌一右衛門」といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていました。
 問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取り仕切り、相川の人足渡の手配もしていました。
 当時の荷物は、必ず問屋場で下ろし、常備の二十五人二十五疋の人馬で送っていました。
通行が幕末になると荷物も多くなり、助郷の人馬を借りて運送したようです。
「問屋場」「助郷」については「鮎鮨街道と笠松湊」「美濃呂久の渡し」頁末にあります)

紙屋塚は中山道を南へ入る狭い道の奥にあります。

紙屋塚

不破郡垂井町

北緯

35

22

06.2

東経

136

31

54.9

              町指定史跡 紙屋塚 (昭和32年6月15日指定)
 古来紙は、貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。
 国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割を果たした。 ここの紙屋も府中に国府があおかれた
 当時から存在し室町頃まで存続したと考えられる。 また当所は国営の紙すき場と美濃の国一帯から、あつめられた紙の検査所の役割もはたしていたものと考えられる。一説には美濃紙の発祥地ともいわれている。  (垂井教育委員会 現地の説明板より)

中山道から南へ狭い小道を入ります。 30mほど進むとY字路へ出るので右へ進みます
Y字路から20mほどのところにあります

 「紙屋」近くにつくられた「紙屋塚」は今も残り、紙屋の守護神「紙屋明神」が祭られてると言われています。
 また、この紙屋を管理、運営した「紙長」(抄紙場長)「阿曇兼遠」が天暦五年(951年)に造色紙長
として補任が認められており、長保四年(1002年)紙漉きの技術者「宇保良信」が務めていました。

紙屋塚から中山道へ戻り西へ150mほどで街道は「枡形」に曲がります。
そこに江戸時代からの旅籠が残っています

現役の
旅籠
亀丸屋

不破郡垂井町垂井 三友(さんゆう)

北緯

35

22

06.5

東経

136

31

47.1

                        旅籠亀丸屋
 
「丸亀屋西村家」
は、垂井宿の旅籠屋として、二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残し営業している貴重な旅館である。
 安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行き六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。
 当時は南側に入口があり、二階南側の「鉄砲窓」、「格子部屋の欄間」、廊下の鴬張り、などが残る珍しい造りである。
 乱取格子は引き戸になっており、火災の際は此処から逃げられるようになっていました。
                            (垂井町)

         講とは
 現在のとは地区の仲間が集まって定期に会合を開き一定の金額を出し合って集まった金を最高の金利で落とした人が受け取り、参加者数だけ会を開き出資金と金利を得るシステムで現在は禁じられている民間投資会です)
 (当時の講については中山道前編「ぼたん岩とチンチン石」の頁末の「伊勢講・頼母子講」にあります)

旅籠「丸亀屋」から西へ80m位のところに本陣跡のお医者さんがあります。

垂井宿本陣跡

不破郡垂井町垂井 三友(さんゆう)

北緯

35

22

06.1

東経

136

31

49.8

今はお医者さん
本陣を営んでいた家系は現在多くは「酒造業」「医師」が多いよいです。
垂井の本陣職を務めていた栗田家も酒造業でした。今は安田歯科医院です。

     垂井宿 最初の「本陣」
「本陣」は寛政十二年の記録によると建坪178坪(587u)
玄関、門構えがありましたが、安政九年(1780年)に焼失しました。

        明治時代には小学校校舎になった本陣
 火災後、仮本陣だったが文化十年(1813年)本陣職となった「文吾」は間口十間(19m)、奥行三十八間半(約70m)の本陣敷地を買って天保十四年(1845年)の記録では建坪195坪(645u)
門構えも玄関もある立派なものだったそうです。
 明治時代には「学習義校」(現在の垂井小学校の前身)校舎に使われるほど大きなものでした。

今も垂井宿中央部には黒板壁の旧家が並びます

宿場の中心は「中町」で「六斎市」も。
中心地は「中町」で、宿内には酒屋・茶屋・貸家・塩屋・塩肴屋などの商家や木挽・大工野鍛冶・傘張等の職人も居ました。
また、「六斎市」も開かれていました。(六斎市については頁末に「六斎市」の説明があります)

「本陣跡」から100mほどで点滅信号の交差点へ出ます。

此処は宿の中央の「本町」四つ角南側に南宮大社大鳥居があります。

南宮大社鳥居

不破郡垂井町垂井 中央

北緯

35

22

06.0

東経

136

31

40.8

この鳥居は国建造物に指定された花崗岩の鳥居で高さ7.1m、幅4.5mあります。
両側に石灯篭が一対立ち、道標が脇にあります。

柱の半分は地下に埋まり大きな地震に耐えうる構造になっています。

道標があり「南宮社 江 八町」(800m)とあります。

        石屋が四百両で寄進した大鳥居
 寛永十九年(1642年)に徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、神明型鳥居は約四百両の金で「石屋権兵衛」が立てたそうです。

 「正一位中山金山碑彦大神」の額は、延暦寺 天台座主「青蓮院尊純親王」の筆蹟です。

南宮大社の鳥居を過ぎ

垂井宿脇本陣跡

不破郡垂井町垂井 本町

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

脇本陣は最初はありませんでしたが、寛永十三年には建坪135坪(446u)、門構え、玄関が設けられていました。
南宮大社大鳥居西にありました。
文化十三年(1816年)頃より南宮大社大鳥居西の「西町」にあり金岩家で、
明治時代に脇本陣門と玄関を「本龍寺」に移築され現在も使われています。

東光山本龍寺
垂井宿高札場跡

不破郡垂井町垂井 本町

北緯

35

22

06.1

東経

136

31

35.1

初め天台宗で「遍照院」と言いましたが、文明元年(1469年)蓮如上人の
美濃第二回巡化(じゅんげ)の際に「浄土真宗」に転じました。

       山門は脇本陣の門を書院は玄関をを移築
 この寺の山門や元の書院の玄関は、脇本陣のものを移築したと言われています。太鼓楼も姿よく残されています。
                        山門前には高札場
 本竜寺山門前に、横幅約5b、高さ約4b、奥行き1.5bの高札場がありました。

明治11年(1878年)10月22日
明治天皇北陸東海両道の巡幸の際に
この寺で御小休されました。

                 高札場跡
 山門左前に高さ4m、横幅約5m、奥行1m余の高札場を建て人場賃、キリシタン禁制等の六枚の告知板をかけていました。

「本龍寺」の境内鐘楼そばに「時雨庵」はひっそりと立っています

時雨庵

不破郡垂井町垂井 本町

    「松尾芭蕉」の冬ごもり碑
 元禄四年(1692年)に芭蕉は住職「規外」を訪ね、冬ごもりして
「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」
と詠んだ句碑があります。
 句碑は文化六年(1809年)の建立で、芭蕉木像もあります。

俳句界の「獅子門」の「化月坊」が芭蕉ゆかりのこの寺に安政二年(1855年)に「時雨庵」を建立しました。

「本龍寺」の向かいには戦前まで旅館を営んでいた「油屋卯吉家跡」があります。

油商から旅館へ
油屋卯吉

不破郡垂井町垂井 本町

北緯

35

22

06.6

東経

136

31

36.3

     宿場時代の代表的商家
 この商家は文化末年(1817年)に立てられた間口5.5間、奥行6間の油屋卯吉の家です。
 当時多くの人を雇い、油商売を営んでいました。
 明治以降、小林家が部屋を改造して「亀屋」と称して旅人宿を営んでいました。
 土蔵造りに格子を入れ、軒下には「濡れむしろ」を掛ける釘をつけ、宿場時代の代表的商家の面影を残す建物です。

「本龍寺」の西の信号交差点を南へ入り西へ右折したところに「長屋氏屋敷跡」があります。

太平記ゆかりの

長屋氏屋敷跡

不破郡垂井町垂井 前川

北緯

35

22

04.5

東経

136

31

30.7

仮御所となった屋敷跡
文和二年(1353)南北朝争いの最中、北朝の「後光巌天皇」は
南朝軍に京都を奪われ、
足利義詮らと共に垂井へ避難された。
そのとき一時的に垂井の長者「長屋氏」の屋敷を
仮御所とし滞在された。

            太平記ゆかりの地
 「足利尊氏」滞在の長屋氏屋敷跡 文和二年(1353)六月北朝の「御光巌天皇」は南朝軍に京都を奪われ、
 「足利義詮」らと共に垂井へ避難され、一時、垂井の長者長屋氏の屋敷を仮御所にされた。
 その頃、原・洚屋らの南朝軍がここを襲うと聞き、急いで美濃国守「土岐頼康」の居城である
「揖斐小島の頓宮」へ移られた。
 「御光巌天皇」は、八月二十五日「足利尊氏」の西上を聞き、頼康の造営した「垂井頓宮」へ戻られた。
 九月三日「尊氏」の大軍が垂井に到着し、「尊氏」は天皇に拝謁、天皇を安堵させた。
 尊氏の垂井での宿舎は、垂井の長者「長屋氏」の屋敷で、「御光巌天皇」の仮御所になったところである。
 その後「尊氏」はここで病気になり、天皇の京都への還幸は遅れた。
 十七日「尊氏」の病気も治り、天皇を中程にし、「足利義詮」が先陣、「足利尊氏」が後陣をつくり、「垂井頓宮」をあとに京都へ出発した。

長屋氏屋敷跡つばき
「長屋氏屋敷」には大きな椿があり垂井町の天然記念物に指定されています。

再び垂井の町の真中を西へ走る「中山道」へ戻ります。

垂井宿西の見付
広重浮世絵の場所

不破郡垂井町垂井 前川

北緯

35

22

08.4

東経

136

31

29.0

       「見付」の役割
 見付は宿場の入り口に置かれ、宿場役人はここで大名や「お茶壷道中」、「日光例幣使」などの通行を迎えたり送ったりしました。
 また、事件などが起きたときには閉鎖することになっていました。

               「お茶壷道中」
 お茶壷道中は、三代将軍家光から十五代将軍慶喜の時代まで続き、元禄年間は千人近い大行列になったとされています。
 「お茶壷道中」の行列は大変格式が高く、いかなる大名もこの行列と同宿することはできなかったといいす。行列の中心の立派な「お籠」にのっているのはなんとお茶壷でした。
 (「お茶壷道中」についての詳細は「加納宿ー2」運久寺住職追放事件と頁末に「お茶壷道中」があります)

「安藤広重」「垂井宿の絵」の場所

岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 
収集家 田中春雄氏旧蔵

            版画「中山道 垂井宿」の地
 「広重」がこの付近から見て、雨の降る中山道松並木の中を大名が行列をつくり、西より垂井宿の「西見付」へ入ってくる様子を描いたものと思われます。
 本陣からの傘を差して出迎え先導する主人、茶屋の前には土下座をして行列を迎える旅人などの様子を左右対称に描いた版画の傑作と言われている場面の地です。

 

  八尺地蔵尊道碑
 「西の見付」西の道を南へ200mほどに在ります。

八尺堂地蔵尊

不破郡垂井町垂井 前川

北緯

35

22

01.8

東経

136

31

29.3

              地蔵堂縁起−1
 垂井宿本陣の母が夢枕に見て、地下八尺から掘り出したと言う大日如来の石像で、八尺四方の、お堂を建て大切に祀られてきた。
 この石仏は、おそらく南北朝から室町時代にかけて栄えた垂井城主長屋氏の氏寺の仏で、長屋氏の滅亡によって失ったものと思われます。

              長屋氏屋敷跡
 この付近は鎌倉時代末期から戦国時代にかけて栄えた「長屋氏」の屋敷跡であり、長屋氏にかかわりのある、本尊「大日如来三尊が祀られたいます。

その後の改修記録
享保十五年(1730)東町の瓦屋伊三右兵衛が母の年忌にあたり屋根を修理しました。
その後垂井宿の本陣「檪原(くぬぎはら)七兵衛の妻が悪性の眼病に罹り各地の名医にかっかても
効なく失明し困り果てた。
そこで、この本尊に二日夜、一心に祈願したところ或る夜夢枕に立ち「眼の薬秘伝」を
教えられそれによって重い眼病も治ったと言われています。

地蔵堂縁起−2
この三尊仏は、元禄六年頃(1693)までは土草に埋もれていたのを、
近くのお寺の和尚、覚如の夢枕に立ち「我は八尺堂の地蔵なり、年久しくして牛馬の足毛に掛かって
苦しい、如何様の草屋にてもよい一宇を建立下され」と頼まれました。
私は一向宗だからと断ったが、三夜にわたり夢枕に立たれため、西町の大工「九左兵衛」に頼み、
八尺四方のお堂を建て石仏を安置しまし、金運寺の雲龍上人により供養をされた。

正一位八尺稲荷大明神もお祀してあります

中山道へ戻り西へ200m

松島稲荷

不破郡垂井町垂井 松島

北緯

35

22

07.9

東経

136

31

24.0

長い参道を奥へ入ると立派なお稲荷さんがあります。

「西の見付」から700mくらいでJR東海道本線の踏切に出ます。
一方通行ですの車は此処から踏切を渡れません。

JR東海道線日守の踏切

北緯

35

22

05.4

東経

136

31

06.9

 車は右の道を西へ進み陸橋を渡ってJR東海道本線の向こうを平行に走る「国道21号線」へ出ます。
 「国道21号線」が「中山道」です。

此処でもう一度宿場の中心「南宮大社鳥居」まで戻って北へ曲がり、岩手路をたどり
美濃濃国府跡、忍勝寺古墳、竹中半兵衛陣屋跡などをご案内したいと思います

 岩手路へは南宮大社鳥居のある四差路を北へ曲がり「御幸橋」を渡ります。
 その後は下の住宅地図で訪ねてください。

美濃国府跡、御旅神社、安立寺、忍勝寺古墳の位置図

御旅神社

不破郡垂井町府中4丁目

北緯

35

22

28.7

東経

136

31

36.3

御旅神社境内

御旅神社の南側に美濃国府跡があり境内から行けます。

美濃国府跡

不破郡垂井町府中六丁目

北緯

35

22

37.5

東経

136

31

29.5

 平成3年から9次にわたる発掘調査の結果、安立寺から100メートルほど
南の
南宮御旅神社の境内から正殿跡が確認され、さらに、
その南側から東西の脇殿跡と見られる遺構が見つかった。

                   国府とは
 国府とは、奈良・平安時代に地方統治のため国ごとに置かれた官衙(かんが=役所)のことで、中央から派遣される国司の出先機関でした。
 美濃国府は8世紀前に造営され、その後200年ほど機能していました。
 平成3年から行われた発掘調査によって、美濃国府の主要な施設の配置関係が判明しました。
 政庁は東西約67m、南北約73mの長方形で、堀で区画されていました。
 政庁内には、国府で最も格式の高い建物である正殿、南北に長い建物の脇殿などが建てられていました。
また、政庁の東側には、国府の実務を行っていた役所群が建っていました。
 古代律令国家の地方官衙の実態を良く示しており、当時の美濃国の政治情勢を知るうえで重要な遺跡です。
                             (垂井教育委員会)

御旅神社の北約300mの安立寺の境内に「美濃国府廟跡」の碑があります

安立寺

不破郡垂井町府中三丁目

北緯

35

22

36.6

東経

136

31

39.4

美濃国府廰趾と記された安立寺の碑

山門

安立寺本堂

安立寺の西の細道をぐねぐね曲がりながら西へ240mほど進むと忍勝寺があります。

忍勝寺

不破郡垂井町府中四丁目

北緯

35

22

37.6

東経

136

31

36.1

忍勝寺から西の橋を渡ると直ぐに右(北)に曲がり堤防上を90m程進むと
民家の間に忍勝寺山古墳の案内板がガレージの向こうに見えま。(忍勝寺からは180mほどです)

忍勝寺山古墳

不破郡垂井町府中四丁目

北緯

35

22

34.0

東経

136

30

44.7

(12)忍勝寺古墳

                忍勝寺山古墳
 この古墳は、円墳で八世紀の前半につくられたものと思われ、大きさは直径約40m、高さ6mあった。
 円分の周囲に巾約3mのつくり堀をめぐらし、当時の豪族の墓と思われる。
 江戸時代の古絵図には「ね里塚」として描かれています。
 副葬品としては鉄鏃(てつぞく)や銅鏃などのやじり類が発見されています。
                          (垂井教育委員会)

忍勝寺山古墳の近くに若宮古墳があります。

若宮古墳

不破郡垂井町府中

北緯

35

22

34.0

東経

136

30

44.7

忍勝寺古墳のすぐ近くにあります

大滝古墳は府中より北の方向の大滝地区に点在する古墳群です

大滝古墳群

不破郡垂井町大滝

北緯

35

22

34.0

東経

136

30

44.7

垂井町大滝 野瀬古

岩手路の御行橋まで戻り1kmほど進むと「下町地区」へ入ります。
その追分に「常夜灯」があります。

岩手常夜灯道標

不破郡垂井町岩手 下町

北緯

35

22

31.0

東経

136

31

02.1

大きな「常夜灯」の下には、この北の地区を案内する道標が立っています。
右 うるし原、大石 道
左 岩手、かす川 道

先ほどの「常夜灯」まで戻り北西の道を「岩手地区」へとります。

岩手地区の入り口の秋葉神社に「垂井町指定天然記念物」の大きなヤマモモがあります。

岩手のヤマモモ

不破郡垂井町岩手 下町

北緯

35

22

34.0

東経

136

30

44.7

 山桃が当地「岩手」に自生するのは学術的に珍しく研究上の資料として大切です。
 このため垂井町の天然記念物に指定されいます。

神社の脇に小さな道標があります

「岩手」の道標

不破郡垂井町岩手 下町

北緯

35

22

33.8

東経

136

30

44.6

左 伊吹 関ヶ原 道

右 春日 道
左 垂井 道

この「岩手道標」を北「右 春日 道」200mほど進むと「T字路」があり道標があります。

春日道道標

北緯

35

22

55.1

東経

136

30

13.6

右 垂井 道
左 春日 道

右 大石大滝 道

その脇に「菁莪義校」の建物があります

菁莪義校(記念館)
(せいが)            

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

北緯

35

22

55.2
東経

136

30

13.3

菁莪記念館(せいがきねんかん)

       子孫、旗本竹中氏
 半兵衛の子孫は、関ヶ原合戦では東軍に属し、旧好の友「黒田長政」と共に「石田勢」を攻め戦功を挙げました。
 合戦後は菩提山城を下り陣屋を構え六千石の旗本として徳川家に仕えました。
 学問を好み林羅山と交遊深く、文武両道に秀でていた武将で著書に「豊鑑」があります。
 天保年間に「菁莪堂」(せいがどう)を設け家臣らの教育に努め、幾多の人材を輩出しました。
 明治になり「菁莪義校」から「岩手小学校」となりました。
 現在は、旗本竹中家関係および当時の学校資料などが「菁莪記念館」に保存されています。

校内には多くの「句碑」があります。

国井化月坊句碑(美濃派十五世)
「月のあと 残した藪の 梅白し」 
 春香園化月坊は岩手竹中家の家臣、本名は義睦 通称喜忠太号を梅仙・春香園・山戸亭といった
 天保十三年(1843年)菁莪堂(せいがどう)の創設に際しては文武の師役ちなり、和漢・武道を教えた
 安政四年(1857年)には美濃十五世の道統を継承し、明治三年(1870年)77才で没した。

       大野是什坊句碑
山居の侘しきに、この色気を興せむとすれと
「初雪や それさへたらぬ 貯ひ酒」 
朝暮老人 本名は親芳、通称瀬兵衛、号を傘狂・朝暮園・老森庵・風論子・花中人といった。
 旗本竹中家に仕え、宝暦二年(1752年)江戸詰となり、俳諧の道に入る。
 安政九年(1780年)美濃派六世の道統を継ぐ寛政五年(1793年)六十七歳で没した。

菁莪記念館の庭にある句碑の説明文

なぜ「竹中半兵衛陣屋跡」でなく「竹中氏陣屋跡」か?

竹中氏陣屋跡

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

北緯

35

22

57.4

東経

136

30

12.0

                          竹中半兵衛重治公
 豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治は楠公再来とも言われ「智謀、神の如し」と称された。 半兵衛が今もなお人々の心を捉えるのは、卓越した知識、洞察力。 戦功あっても浮雲欲心なく、高名を望まず、壮図半ばにして若く空しく倒れ、軍師の美学に生きた生涯と言われています。
 現存する木造白壁塗りの櫓門、門扉、門を入って正面にある「目隠し石垣」・壕・周囲の石垣などが当時の面影をとどめています。
            半兵衛公の知略、表舞台へ
 半兵衛は幼い頃から学を好み、中国の兵法書を学び、物静かな人柄は、戦乱渦巻く時代に生きる武将としては、頼りなく思われました。
 仕えていた主君「斎藤龍興」や家臣たちから「うつけ者」とさえ嘲笑された。
 永禄七年(1564年)そんな批評を吹き飛ばし美濃に半兵衛ありと全国にその名を知らしめた離れ業は、斎藤道三が築いた、難攻不落の城「稲葉山城奪取事件」であります。
 その頃天下を狙っていた織田信長が、この報を聞き美濃国の半分を与える条件で、その城の譲渡を申し入れたが、
半兵衛は「主君を諌めるため、かかる大事を決行しただけで、何れ城は主君龍興に返す所存」と言って拒否しました。
 この一件で、今まで「竹中半兵衛」を軽視していた周囲の眼は一変しました。

            秀吉と半兵衛公
 藤吉郎(後の秀吉)は、信長の命を受け栗原山に閉居中の半兵衛を訪ね、家臣に迎えるべく三顧の礼を尽くし説得しました。
 半兵衛は藤吉郎の人柄に引かれ信長に仕え藤吉郎の「与力」となり、その後 形影相伴って各地を転戦し奇策智謀作戦は常に功を奏し智謀の将として半兵衛の名は全国津図浦々に知れ渡り秀吉の天下統一への歩みを固めました。

 天正七年(1579年)三木城(兵庫県)攻略中に倒れ、秀吉の勧めによって京都で静養していたが、再び病をおして平井の戦場にもどり、六月十三日三十六歳で没しました。
 秀吉は臨終に臨みその手をとり「孔明を失いしにことならず」と嘆き悲しんだと言われています。 今は菩提山城の麓にある「禅憧寺」(ぜんどうじ)で静かに眠っています。
 「竹中半兵衛重冶」没後、嫡男「重門」(ちゃくなん、しげかど)は関ヶ原の役には徳川家康に味方し五千石を安堵され恩賞を賜り「旗本」にとり立てられました。

 大門を入ると「目隠し石垣」が見えます。 かってはその向こうに陣屋があったのでしょう、今は岩手幼稚園になっています。

「陣屋跡」から北へ100mほど進むと道標があります

もう一つの道標

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

「菩提道」は、ここから西の菩提地区にある竹中氏の居城「菩提山城」があった所です。
半兵衛の子「重門」は関ヶ原合戦後「家康」から勲功をみとめられ五千石の所領を賜り
「菩提山城」からこの地へ下り陣屋を構えました。

       右 菩提道   左 春日、垂井道
 「竹中半兵衛」
の墓のある「禅寺」(ぜんどうじ)は、
北の東海道本線下り線のガードをくぐった向こうにあります

JR東海道線ガード

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

北緯

35

23

06.1

東経

136

30

07.2

「竹中半兵衛」の墓
禅幢寺(ぜんとうじ)

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

北緯

35

23

10.2

東経

136

30

05.6

     播州(兵庫県)三木にあった竹中半兵衛の墓を移す
 この寺は、明応三年(1494)薩摩国(鹿児島県)金幢寺の盛庵正碩(せいあんしょうせき)和尚が開創しました。
 天正七年(
1579)播州(兵庫県)三木の陣で病死しましたが、当寺の墓は、三木にあった墓を長男重門公が移葬したものです。
 現在の本堂は、半兵衛の孫、重常公が寛文三年(1663)に建立したもので、町指定絵画「竹中半兵衛像」があります。
   

          竹中半兵衛重治の墓
 竹中半兵衛は戦国時代の武将で、豊臣秀吉の望みに応じ出陣し、戦略の将としてその名をとどろかせました。
 天正七年(1579年)4月三木城(兵庫県)攻略の陣中に病気になり、秀吉は京都で静養させたが、武士が座死することは恥じだといい、病をおして戦場に出かけ六月十三日に三十六歳で亡くなりました。 秀吉はその死を深くいたみ、三木にあった墓を長男重門公に移葬させ、この岩手禅幢寺に墓を建立しました。

もう一度垂井宿場の中心「南宮大社鳥居」まで戻って今度は「南宮大社」へ参拝したいと思います。

南宮神社へは鳥居をくぐって南へ「八町」(800m)にあります。

       

街道コラム

【大名の参勤交代】

 大名の通行の目的の多くが、参勤交代といって自国の領地と江戸の間を1年おきに往来する江戸幕府の制度によるものでした。
 原則的には大小名は毎年4月中の交代で、御三家のうち水戸藩は定府(江戸滞在)、尾張藩・紀伊藩は3月、対馬藩3年に1回、松前藩は5年に1回、幕府役職者は定府などの例外もありました。
 旗本30余家も隔年か随時参勤が義務付けられました。
 大編成による長い道中は、全国各地の大名に物心両面で大きな負担を強いることから、文久二年(1862)に大名の在府期間を短縮し、人質としての妻子も帰国を許されました。
 参勤交代は、中央集権の幕藩制国家を支え、経済の発展や江戸文化の伝播と庶民文化の発達をもたらしました。
 宿場では、一般に藩主が本陣、家老などの重臣が脇本陣、以下旅籠や民家や寺院を利用しました。
 事前に先発隊が来て、本陣などの宿場の役人と宿割りや接待方法などの細部を打ち合わせ、当日宿場の出入口や本陣に掲げる関札を置いていきました。
 本陣では宿泊の規定はなく、修理をしたり大名の好物を献上するなどのサービスに対する被下金(くだされきん)や品物を受け取りました。
 難所の少ない美濃路を参勤交代に利用する藩も多く、中でも紀州藩は2000〜3000人規模にもなり、宿場は道具類の調達に追われましたが、活気を帯びていました。

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。