美濃路-4清洲宿から名古屋宿・宮宿まで中山道六十九次のうち五十八宿目で中山道美濃十六宿の十四番目の宿「垂井宿」をご案内します
六十九次 |
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岐阜県不破郡垂井町 美濃国 JR東海線垂井駅下車 |
「垂井宿」巻は、中仙道と美濃路の「追分道標」、「美濃路松並木」と美濃の中心地「垂井宿」の相川橋の四差路、
垂井宿入り口の「相川の人足渡し」、「垂井宿問屋場跡」、現役の旅籠「亀丸屋」、今は医者の「垂井宿本陣跡」、南宮大社鳥居、
垂井の泉、垂井城跡の「専精寺」、垂井城址碑、玉泉禅寺、垂井宿脇本陣跡、「時雨庵」のある本龍寺と垂井宿高札場跡、
油屋から旅籠になった「油屋卯吉の家」、太平記ゆかりの「長屋氏屋敷跡」、「紙屋塚」、広重の浮世絵の「西の見付」、
「八尺地蔵尊」、松島稲荷、岩手路沿いにある美濃国府跡と御旅神社、美濃国府跡碑のある安立寺、忍勝寺山古墳、
若宮古墳、大滝地区にある古墳群、岩手下町の「常夜灯道標」、「岩手のヤマモモ」、「岩手の道標」、春日路道標、
竹中半兵衛子孫が開いた学校「菁莪義校(せいがぎこう)」、「竹中氏陣屋跡」、菩提路道標、
竹中半兵衛の墓のある禅幢(ぜんとう)寺、などをGPS位置情報と共に紹介します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
青線:岩手路) |
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垂井宿 |
宿場の概要 幕府領・大垣藩領、 宿高 七百石、 人口 1、250人、 家数 320軒、 旅籠 二十七軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 問屋場 三ケ所、 江戸から 111里8丁(約437km) 赤坂宿から 一里十三丁(青野一里塚) 関ヶ原宿まで 一里半(垂井一里塚) |
「垂井宿」は一時「日向藩領」でした 寛政十三年(1801年)当時の宿場は。 |
モノクロ画像の「垂井宿」航空写真 |
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垂井宿 垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点となる重要な宿場です。 宿場の長さは、相川橋南の「東の見付」から前川東の「西の見付」までの長さは7丁余(約764m)です。 宿内のこの道が2か所折れて桝形を造り、西町内で緩く曲がっており、東西の見付から本陣、脇本陣を見通すことが出来ないようににしています。 垂井宿には人や荷物を継ぎ立てる問屋場が3ヵ所あって、50人50疋の人足と馬の手配をしました。 宿泊のための施設には、身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、一般の人が泊まる旅籠屋がありました。 天和4年(1684)は16軒だった旅籠数も寛政12年(1800)には3倍の45軒に増加しました。 当時中山道を旅する人は浪花講・関東講などの定宿を頼って泊まりました。 亀丸屋・長浜屋・丹波屋・若屋・亀屋などの旅籠屋の屋号が残り、亀丸屋は今も経営を続けています。 南宮大社の石鳥居付近では毎月5と9の日、六斎位置が開かれ、近郷の大勢の人で賑わい、宿場の発展を支えました。 宿場北を流れる相川は、川幅六十間(約109m)の暴れ川で、橋がよく流されるため、特別な通行があるとき以外は大井川のように珍しい人足渡しでした。 |
「岐蘇路安見絵図」による当時の垂井宿の解説
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垂井
養老の滝は、南の方二り斗にあり。いせの桑名え行道也。 南宮の鳥井 額に正一位勲一等金山彦大神とあり。 南宮山は、みのヽ中山といふ所也。社は山の麓にあり。大社也。社領三百石。 野上の里、名所なり、むかしはよき宿なり。(現在の関ヶ原町野上) 霞たつ野上の方に行かしば 鶯なきつ春になるらん。 はん女が在所也。寺に御影あり。(謡曲「班女」の故郷でもあり、信念寺に班女が送った観音像がある。詳しくは、次々頁の「垂井の一里塚」にあり) 南に鶏籠山あり。 |
垂井は美濃中心地 |
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歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 垂井」(大判錦絵) |
場所は垂井の「西の見付」付近です |
先ほどの「垂井追分道標」まで戻り、いよいよ「垂井宿」へ入ります。
追分橋 |
相川橋袂信号交差点 |
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垂井宿入口交差点 左折して相川に架かる「相川橋」を渡ると「垂井宿」に入ります。 「相川橋」を渡らずに直進すると約3.6kmほどで豊臣時代の戦略家「竹中半兵衛」の陣屋跡へ出ます。 |
垂井宿相川橋 不破郡垂井町垂井 石橋 |
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垂井宿入り口にある川「相川」
判読できる箇所を入れてみました。 |
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住宅地図に該当箇所を図示しました。 |
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相川は橋がなく人足渡しの川 |
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東の見付 |
相川には毎年春には沢山の鯉のぼりがはためきます。 |
五街道で初めて大八車の使用が許可
垂井宿は鎌倉時代には「鎌倉街道」の宿場として、そして江戸時代には「中山道」の「美濃路」との分岐点として栄えました。
また、南宮神社の「門前町」で毎月五、九の日に大鳥居で「六斎市」が立ち、賑わいました。
宿場は東町、中町、西町があり、道幅は四間(約7m)ありました。
そして五街道で初めて大八車の使用が許可された宿場でもあります。
垂井宿問屋場 不破郡垂井町垂井 東(あずま)1丁目 |
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問屋場は三ヶ所あり、三日交代で役務を務めました。
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垂井宿の問屋場 間口五.五間 奥行き七.五間の金岩家は、代々「彌一右衛門」といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていました。 問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取り仕切り、相川の人足渡の手配もしていました。 当時の荷物は、必ず問屋場で下ろし、常備の二十五人二十五疋の人馬で送っていました。 通行が幕末になると荷物も多くなり、助郷の人馬を借りて運送したようです。 (「問屋場」と「助郷」については「鮎鮨街道と笠松湊」と「美濃呂久の渡し」の頁末にあります) |
紙屋塚は中山道を南へ入る狭い道の奥にあります。
紙屋塚 不破郡垂井町 |
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町指定史跡 紙屋塚 (昭和32年6月15日指定) |
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中山道から南へ狭い小道を入ります。 | 30mほど進むとY字路へ出るので右へ進みます |
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Y字路から20mほどのところにあります | |
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「紙屋」近くにつくられた「紙屋塚」は今も残り、紙屋の守護神「紙屋明神」が祭られてると言われています。 |
紙屋塚から中山道へ戻り西へ150mほどで街道は「枡形」に曲がります。
そこに江戸時代からの旅籠が残っています
現役の 不破郡垂井町垂井 三友(さんゆう) |
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旅籠亀丸屋 |
講とは |
旅籠「丸亀屋」から西へ80m位のところに本陣跡のお医者さんがあります。
垂井宿本陣跡 不破郡垂井町垂井 三友(さんゆう) |
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今はお医者さん
本陣を営んでいた家系は現在多くは「酒造業」や「医師」が多いよいです。
垂井の本陣職を務めていた栗田家も酒造業でした。今は安田歯科医院です。
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垂井宿 最初の「本陣」 |
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明治時代には小学校校舎になった本陣 |
今も垂井宿中央部には黒板壁の旧家が並びます
宿場の中心は「中町」で「六斎市」も。
中心地は「中町」で、宿内には酒屋・茶屋・貸家・塩屋・塩肴屋などの商家や木挽・大工野鍛冶・傘張等の職人も居ました。
また、「六斎市」も開かれていました。(六斎市については頁末に「六斎市」の説明があります)
「本陣跡」から100mほどで点滅信号の交差点へ出ます。
此処は宿の中央の「本町」四つ角南側に南宮大社大鳥居があります。
南宮大社鳥居 不破郡垂井町垂井 中央 |
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この鳥居は国建造物に指定された花崗岩の鳥居で高さ7.1m、幅4.5mあります。
両側に石灯篭が一対立ち、道標が脇にあります。
柱の半分は地下に埋まり大きな地震に耐えうる構造になっています。
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道標があり「南宮社 江 八町」(800m)とあります。 |
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石屋が四百両で寄進した大鳥居 「正一位中山金山碑彦大神」の額は、延暦寺 天台座主「青蓮院尊純親王」の筆蹟です。 |
南宮大社の鳥居を過ぎ
垂井宿脇本陣跡 不破郡垂井町垂井 本町 |
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脇本陣は最初はありませんでしたが、寛永十三年には建坪135坪(446u)、門構え、玄関が設けられていました。
南宮大社大鳥居西にありました。
文化十三年(1816年)頃より南宮大社大鳥居西の「西町」にあり金岩家で、
明治時代に脇本陣門と玄関を「本龍寺」に移築され現在も使われています。
東光山本龍寺と 不破郡垂井町垂井 本町 |
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初め天台宗で「遍照院」と言いましたが、文明元年(1469年)蓮如上人の
美濃第二回巡化(じゅんげ)の際に「浄土真宗」に転じました。
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山門は脇本陣の門を書院は玄関をを移築 |
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明治11年(1878年)10月22日 |
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高札場跡 |
「本龍寺」の境内鐘楼そばに「時雨庵」はひっそりと立っています
時雨庵 不破郡垂井町垂井 本町 |
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「松尾芭蕉」の冬ごもり碑 元禄四年(1692年)に芭蕉は住職「規外」を訪ね、冬ごもりして 「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」 と詠んだ句碑があります。 句碑は文化六年(1809年)の建立で、芭蕉木像もあります。 |
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俳句界の「獅子門」の「化月坊」が芭蕉ゆかりのこの寺に安政二年(1855年)に「時雨庵」を建立しました。 |
「本龍寺」の向かいには戦前まで旅館を営んでいた「油屋卯吉家跡」があります。
油商から旅館へ 不破郡垂井町垂井 本町 |
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宿場時代の代表的商家 |
「本龍寺」の西の信号交差点を南へ入り西へ右折したところに「長屋氏屋敷跡」があります。
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太平記ゆかりの 長屋氏屋敷跡 不破郡垂井町垂井 前川 |
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仮御所となった屋敷跡 |
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太平記ゆかりの地 |
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長屋氏屋敷跡つばき |
再び垂井の町の真中を西へ走る「中山道」へ戻ります。
垂井宿西の見付 不破郡垂井町垂井 前川 |
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「見付」の役割 見付は宿場の入り口に置かれ、宿場役人はここで大名や「お茶壷道中」、「日光例幣使」などの通行を迎えたり送ったりしました。 また、事件などが起きたときには閉鎖することになっていました。 |
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「お茶壷道中」 |
「安藤広重」の「垂井宿の絵」の場所
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版画「中山道 垂井宿」の地 |
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八尺地蔵尊道碑 「西の見付」西の道を南へ200mほどに在ります。 |
八尺堂地蔵尊 不破郡垂井町垂井 前川 |
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地蔵堂縁起−1 |
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長屋氏屋敷跡 |
その後の改修記録
享保十五年(1730)東町の瓦屋伊三右兵衛が母の年忌にあたり屋根を修理しました。
その後垂井宿の本陣「檪原(くぬぎはら)七兵衛の妻が悪性の眼病に罹り各地の名医にかっかても
効なく失明し困り果てた。
そこで、この本尊に二日夜、一心に祈願したところ或る夜夢枕に立ち「眼の薬秘伝」を
教えられそれによって重い眼病も治ったと言われています。
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地蔵堂縁起−2 この三尊仏は、元禄六年頃(1693)までは土草に埋もれていたのを、 近くのお寺の和尚、覚如の夢枕に立ち「我は八尺堂の地蔵なり、年久しくして牛馬の足毛に掛かって 苦しい、如何様の草屋にてもよい一宇を建立下され」と頼まれました。 私は一向宗だからと断ったが、三夜にわたり夢枕に立たれため、西町の大工「九左兵衛」に頼み、 八尺四方のお堂を建て石仏を安置しまし、金運寺の雲龍上人により供養をされた。 |
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正一位八尺稲荷大明神もお祀してあります |
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中山道へ戻り西へ200m
松島稲荷 不破郡垂井町垂井 松島 |
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長い参道を奥へ入ると立派なお稲荷さんがあります。 |
「西の見付」から700mくらいでJR東海道本線の踏切に出ます。
一方通行ですの車は此処から踏切を渡れません。
JR東海道線日守の踏切 |
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車は右の道を西へ進み陸橋を渡ってJR東海道本線の向こうを平行に走る「国道21号線」へ出ます。 「国道21号線」が「中山道」です。 |
此処でもう一度宿場の中心「南宮大社鳥居」まで戻って北へ曲がり、岩手路をたどり
美濃濃国府跡、忍勝寺古墳、竹中半兵衛陣屋跡などをご案内したいと思います
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岩手路へは南宮大社鳥居のある四差路を北へ曲がり「御幸橋」を渡ります。 その後は下の住宅地図で訪ねてください。 |
美濃国府跡、御旅神社、安立寺、忍勝寺古墳の位置図 |
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御旅神社 不破郡垂井町府中4丁目 |
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御旅神社境内 |
御旅神社の南側に美濃国府跡があり境内から行けます。
美濃国府跡 不破郡垂井町府中六丁目 |
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平成3年から9次にわたる発掘調査の結果、安立寺から100メートルほど |
国府とは |
御旅神社の北約300mの安立寺の境内に「美濃国府廟跡」の碑があります
安立寺 不破郡垂井町府中三丁目 |
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美濃国府廰趾と記された安立寺の碑 |
山門 |
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安立寺本堂 |
安立寺の西の細道をぐねぐね曲がりながら西へ240mほど進むと忍勝寺があります。
忍勝寺 不破郡垂井町府中四丁目 |
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忍勝寺から西の橋を渡ると直ぐに右(北)に曲がり堤防上を90m程進むと
民家の間に忍勝寺山古墳の案内板がガレージの向こうに見えま。(忍勝寺からは180mほどです)
忍勝寺山古墳 不破郡垂井町府中四丁目 |
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忍勝寺山古墳 |
忍勝寺山古墳の近くに若宮古墳があります。
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若宮古墳 不破郡垂井町府中 |
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忍勝寺古墳のすぐ近くにあります |
大滝古墳は府中より北の方向の大滝地区に点在する古墳群です
大滝古墳群 不破郡垂井町大滝 |
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垂井町大滝 野瀬古 |
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岩手路の御行橋まで戻り1kmほど進むと「下町地区」へ入ります。
その追分に「常夜灯」があります。
岩手常夜灯道標 不破郡垂井町岩手 下町 |
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大きな「常夜灯」の下には、この北の地区を案内する道標が立っています。 |
先ほどの「常夜灯」まで戻り北西の道を「岩手地区」へとります。
岩手地区の入り口の秋葉神社に「垂井町指定天然記念物」の大きなヤマモモがあります。
岩手のヤマモモ 不破郡垂井町岩手 下町 |
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山桃が当地「岩手」に自生するのは学術的に珍しく研究上の資料として大切です。 このため垂井町の天然記念物に指定されいます。 |
神社の脇に小さな道標があります
「岩手」の道標 不破郡垂井町岩手 下町 |
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左 伊吹 関ヶ原 道 |
右 春日 道 |
この「岩手道標」を北「右 春日 道」へ200mほど進むと「T字路」があり道標があります。
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春日道道標 |
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右 垂井 道 |
右 大石大滝 道 |
その脇に「菁莪義校」の建物があります
菁莪義校(記念館) 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
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菁莪記念館(せいがきねんかん) |
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子孫、旗本竹中氏 半兵衛の子孫は、関ヶ原合戦では東軍に属し、旧好の友「黒田長政」と共に「石田勢」を攻め戦功を挙げました。 合戦後は菩提山城を下り陣屋を構え六千石の旗本として徳川家に仕えました。 学問を好み林羅山と交遊深く、文武両道に秀でていた武将で著書に「豊鑑」があります。 天保年間に「菁莪堂」(せいがどう)を設け家臣らの教育に努め、幾多の人材を輩出しました。 明治になり「菁莪義校」から「岩手小学校」となりました。 現在は、旗本竹中家関係および当時の学校資料などが「菁莪記念館」に保存されています。 |
校内には多くの「句碑」があります。
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国井化月坊句碑(美濃派十五世) |
大野是什坊句碑 |
菁莪記念館の庭にある句碑の説明文 |
なぜ「竹中半兵衛陣屋跡」でなく「竹中氏陣屋跡」か?
竹中氏陣屋跡 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
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竹中半兵衛重治公 豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治は楠公再来とも言われ「智謀、神の如し」と称された。 半兵衛が今もなお人々の心を捉えるのは、卓越した知識、洞察力。 戦功あっても浮雲欲心なく、高名を望まず、壮図半ばにして若く空しく倒れ、軍師の美学に生きた生涯と言われています。 |
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現存する木造白壁塗りの櫓門、門扉、門を入って正面にある「目隠し石垣」・壕・周囲の石垣などが当時の面影をとどめています。 |
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半兵衛公の知略、表舞台へ 半兵衛は幼い頃から学を好み、中国の兵法書を学び、物静かな人柄は、戦乱渦巻く時代に生きる武将としては、頼りなく思われました。 仕えていた主君「斎藤龍興」や家臣たちから「うつけ者」とさえ嘲笑された。 永禄七年(1564年)そんな批評を吹き飛ばし美濃に半兵衛ありと全国にその名を知らしめた離れ業は、斎藤道三が築いた、難攻不落の城「稲葉山城奪取事件」であります。 その頃天下を狙っていた織田信長が、この報を聞き美濃国の半分を与える条件で、その城の譲渡を申し入れたが、 半兵衛は「主君を諌めるため、かかる大事を決行しただけで、何れ城は主君龍興に返す所存」と言って拒否しました。 この一件で、今まで「竹中半兵衛」を軽視していた周囲の眼は一変しました。 |
秀吉と半兵衛公 天正七年(1579年)、三木城(兵庫県)攻略中に倒れ、秀吉の勧めによって京都で静養していたが、再び病をおして平井の戦場にもどり、六月十三日三十六歳で没しました。 |
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大門を入ると「目隠し石垣」が見えます。 かってはその向こうに陣屋があったのでしょう、今は岩手幼稚園になっています。 |
「陣屋跡」から北へ100mほど進むと道標があります
もう一つの道標 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
「菩提道」は、ここから西の菩提地区にある竹中氏の居城「菩提山城」があった所です。
半兵衛の子「重門」は関ヶ原合戦後「家康」から勲功をみとめられ五千石の所領を賜り
「菩提山城」からこの地へ下り陣屋を構えました。
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右 菩提道 左 春日、垂井道 「竹中半兵衛」の墓のある「禅幢寺」(ぜんどうじ)は、 北の東海道本線下り線のガードをくぐった向こうにあります |
JR東海道線ガード 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
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「竹中半兵衛」の墓 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
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播州(兵庫県)三木にあった竹中半兵衛の墓を移す この寺は、明応三年(1494)薩摩国(鹿児島県)金幢寺の盛庵正碩(せいあんしょうせき)和尚が開創しました。 天正七年(1579)播州(兵庫県)三木の陣で病死しましたが、当寺の墓は、三木にあった墓を長男重門公が移葬したものです。 |
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現在の本堂は、半兵衛の孫、重常公が寛文三年(1663)に建立したもので、町指定絵画「竹中半兵衛像」があります。 |
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竹中半兵衛重治の墓 |
もう一度垂井宿場の中心「南宮大社鳥居」まで戻って今度は「南宮大社」へ参拝したいと思います。
南宮神社へは鳥居をくぐって南へ「八町」(800m)にあります。
街道コラム
大名の通行の目的の多くが、参勤交代といって自国の領地と江戸の間を1年おきに往来する江戸幕府の制度によるものでした。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。