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中山道は美江寺宿を出て南西に田園の中を揖斐川堤まで進みます。
揖斐川の呂久(ろく)の渡しで対岸へ渡り平野井川に沿って西へ進み三津屋から赤坂宿へ向かいます。

六十九次
のうち
五十六宿
五十七宿間

岐阜県本巣郡巣南町

美濃国

樽見鉄道美江寺駅下車

「呂久の渡し」巻は、呂久野渡し場(西側)、良縁寺、白鳥神社、即心院、蓮生寺、「船頭頭の馬淵家」、
和宮降下記念「小簾紅園」、「今は古池の呂久渡し跡」、渡し西口の地蔵堂、平野井川に架かる新橋、
「柳原一里塚跡」、「墨俣道追分道標」、「三回り半道標」、「素盛鳴社」などを、
GPS位置情報
と共に、ご案内します。

                

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
呂久(ろく)の渡し場跡〜中山道三津屋町3丁目交差点までの3,050mを案内します

 

呂久の渡し跡付近
(東側)

北緯

35

23

35.9

東経

136

38

50.0

呂久の渡し(西側)

 天正時代から栄えた街道は江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しも、それ以来、交通の要所となりました。

 慶長十五年(1610年関ヶ原合戦後10年目)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭八人、助務七人がおかれていました。

鷺田橋を渡ると巣南町呂久に入ります。

「鷺田橋」を渡って坂を降りた、すぐの道を下流側に曲がります。

良縁寺

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

18.7

東経

136

38

38.4

堤防下の呂久の入り口にある縁起のいい名前のお寺です。

お寺の前を過ぎると50m位のところに白鳥神社があります。

白鳥神社

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

17.2

東経

136

38

38.8

参道の奥のほうに本殿があります。

白鳥神社を過ぎると道は西に曲がりすぐ「即心院」がります。

即心院

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

13.6

東経

136

38

37.1

道を曲がると呂久の本通となります。

「即心院」の斜向かい「蓮生寺」があります

蓮生寺

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

13.8

東経

136

38

36.2

由緒ある寺らしく立派な本堂です

沢山の碑も見られます

 

船頭頭馬渕家

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

14.1

東経

136

38

33.9

船頭頭
 町並みの中に堂々たる門構えの家があります。
 これが船頭頭(せんどうがしら)をつとめた馬淵家です。

 門の脇には「明治天皇御小休所跡」の碑があります。

 

小簾紅園

和宮記念公園

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

12.5

東経

136

38

23.0

 皇女和宮ご降嫁
 文久元年(1861年)には、皇女和宮新子内親王が中山道を、ご降嫁の折り、この呂久川(揖斐川)を渡られ、
その舟中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺められ、これに感懐を託されて
「落ち行く身と知りながら もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」と詠まれました。

のちの、和宮のご遺徳をしのび、昭和四年(1929年)この呂久の渡しの地に
歌碑を中心とし小廉紅園が建設されました。

「皇女和宮」歌碑
「おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれぞする」

また、この公園は信長時代からの戸船場としても栄えた場所です

呂久の渡し跡

本巣郡巣南(すなみ)町呂久(ろく)

北緯

35

23

11.5

東経

136

38

22.0

江戸時代の川幅は平水で五十間(90m)、中水で七十間(90m)、大水で100間(180m)及んだと言われています。

信長時代の渡船場跡碑

元渡し跡あたりを公園に

度重なる河川改修により「呂久の渡し場跡」は現在の堤防より中に入ってしまいました。

呂久渡船場跡
天正時代、織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京都に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から
美濃と教との交通が頻繁となり、赤坂−呂久−美江寺−河渡−加納の新路線が栄えました。

これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ「中仙道」となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要衝となりました。

慶長十五年(1610年)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、中でも船年寄「馬淵家」には、
船頭八人、助務七人が置かれていました。

この頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだといわれています。

文久元年(1861年)には、皇女和宮親子内親王が中仙道をご降嫁の折、この呂久を渡られ、

その時、船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺められ、是に感懐を託されて

「落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

と詠まれました。

昔の渡しの跡と河川改修による河川の付け替え模様

この地「呂久の渡船場」は、大正十四年(1925年)木曽川上流改修の
揖斐川新川付替工事完成により東へ移り
現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとになりました。

公園は綺麗に整備されています

渡し場跡にあったと思われる地蔵堂

さて、さらに中山道は西へ延びます

街道沿いらしい旧家を過ぎる西へ向います。

ここが市町村境です。

行政区域

「巣南町」から「神戸町」へ

本巣郡巣南町呂久   

安八郡神戸(ごうど)町柳原

ここまで、本巣郡巣南町東境から4.1km     
長野県境から98.1kmです。

僅かの道ですが「神戸町」を通ります。

渡し西口地蔵堂

安八郡神戸(ごうど)町柳原

北緯

35

23

05.6

東経

136

38

15.8

中山道は数百mで「平野井川」へ出ます

地蔵堂を過ぎて新橋を渡ります

平野井川に架かる「新橋」

中山道は新橋を渡り右(西)へ曲がり堤防上へ上がります。
ただし、柳原一里塚跡へ行く場合は、橋を渡らず川沿いに西へ進みます。

柳原一里塚跡

安八郡神戸(ごうど)町柳原

北緯

35

23

10.9

東経

136

38

10.2

堤防上の中山道を行くと平野井川の向こうに一里塚跡が

なぜ一里塚が対岸にあるのか?考察
丁度一里塚地点が堤防の上だったため対岸の神明宮の境内に置いたのではないでしょうか。

              柳瀬一里塚跡
 日本の中央部を走るこの中仙道は、垂井から大垣・墨俣を経て名古屋へ向う「美濃路」、関が原から長浜に至る「北国街道」、関ヶ原から牧田、多良、時を経て桑名へ出る「伊勢街道」など沢山の脇街道によって表日本と裏日本とを結んでおり、政治上、軍事上からも重要性は計り知れないものがありました。
 また、お茶壷道中日光例幣使の他、特に江戸幕府大十四代「徳川家茂」に降嫁した「皇女和宮」の下向の際、使用された道でもあります。
 一方江戸日本橋を起点に三十六町(約4km)ごとに築かれたのが「一里塚」で柳瀬地内の一里塚は、現平野井川、柳瀬橋付近にあり旅行く人の里程標となっていました。

(現地説明板より)

そんなに古くない狛犬
大正十二年四月建立 寄進人 若松誠哉 若松岩?

ここが市町村境です。

行政区域

「神戸町」から「大垣市」へ

安八郡神戸(ごうど)町柳原

大垣市町大島       

ここまで、安八神戸町東境から0.4km     
長野県境から98.5kmです。

橋を渡る手前の道を右へ曲がります。

中山道は一里塚跡から平野井川の対岸に見えます。

一里塚跡から中山道へ戻るには上流に見える橋を渡ります。

堤防上道路へ上がると道標があります。 下流側は「墨俣道」    上流側は「中山道」

墨俣追分道標

大垣市大島町1丁目

北緯

35

23

05.6

東経

136

38

06.1

道を振り返ると、道標が見えます
ここから「美濃路」へ(垂井から大垣・墨俣を経て名古屋へ向う)、「北国街道」へ( 関が原から長浜に至る)、
「伊勢街道」
へ(関ヶ原から牧田、多良、時を経て桑名へ出る)など重要な地点でした。

 左 木曽路、 右 すのまた宿

なぜか紀州街道と呼ばれている
この堤防上の道路は、ここから下流へ続き美濃街道と結ばれるため、「紀州徳川公」が参勤交代のとき
利用したため「紀州街道」と呼ばれているそうです。

先ほどの二股道を堤防から見る。
川の向こうが安八郡神戸町大字柳瀬
こちらの堤防は大垣市大島町1丁目

北西へ堤防上の中山道を進みます

大垣城水攻め策
この大垣輪中と呼ばれる堤防は、関ヶ原合戦の時、徳川家康がこの堤を切って揖斐川の水を
引き入れ、大垣城を水攻めにする計画を立てていたといわれています。

この辺りから行政は大垣市大島町から神戸(ごうど)町柳瀬へ変わります。

最近、新しい道路が出来て堤防沿いの中仙道のルートが分かり難くなりました。

 

関ヶ原合戦の処刑場
 この辺りは関ヶ原合戦の際、大垣城を本陣にしていた石田三成方(西軍)の一隊が曽根城(次頁mino123に詳細あり)を焼き討ちにしようとして失敗して捕らえられ処刑されて、晒し首にされた場所といわれています。

堤防から下りる地点

北緯

35

23

04.8

東経

136

37

44.7

堤防が大きくカーブしたあたりに中山道の標識があり左へ堤防を下ります。

堤防を下りると、直ぐに右へ入る道があり中山道の標識があるので進みます。
少し進むと、また右への小路が中山道で標識もあります。

車は入れませんので真っ直ぐに進み県道へ出る手前で右へ曲がりトンネルへ入ります。

県道156号線の下をくぐり100mほど進むと
「三回り半」の道標があります。

三回り半道標

大垣市赤花町2丁目

北緯

35

23

14.1

東経

136

37

40.1

今は堤防改修や道路改修で「中山道」も経路が変わりましたが
昔はぐねぐねと三度も廻って西へと向っていたので「三回り半」と呼ばれたのでしょう

さらに西へ進みましょう。

素盛鳴社

大垣市赤花町2丁目

北緯

35

23

14.6

東経

136

37

33.2

「三回り半道標」から200mほどで「素盛鳴社」へ来ます

同じ名前の神社が愛知県にもあります

小さな本殿は古タイヤの山に押しつぶされそうになっています
地区の氏神様も大変です。

「中山道」は西へ真っ直ぐに延びます
(大垣市三津屋町2・4丁目の境)

排水路を越してまだ西へ

「中山道」「三津屋町」の交差点を横断して西へ進みます

三津屋町3丁目交差点

北緯

35

23

18.5

東経

136

37

07.0

   

この信号を右折して「曽根城跡」へご案内します。

街道コラム

【助郷】

 江戸時代、幕府が諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した夫役のことで、はじめは臨時の人馬徴発だったが、参勤交代など交通需要の増大につれ助郷制度として恒常化しました。

 人馬提供の単位となった村も、これに課した夫役も共に助郷と呼び、定助郷、代助郷、宿付助郷、、加助郷、当分助郷などがありました。
 定助郷:幕府によって指定された宿場常備の助郷である。その人馬で不足する場合は大助郷に触れ当てた
 代助郷:定助郷村のうち何らかの理由によって交代した助郷村を代助郷と言いました
 増助郷(又助郷):定助郷のうち村よっては、無地高が多いなどの理由によって負担に耐えられないことがある。そこでその村      の不足分を他の村に負担させる場合があるが、此の村を又助郷とか増助郷というが、場所によっては加助郷ともいう
 加助郷:通常数の通行者の場合は、宿人馬か助郷人馬で継立て出来るが、大通行の場合はこれだけの人場では不足するこ       とがある。この場合幕府道中奉行の指定によって、ある大通行者に限りあるいは恒常的に助郷負担をさせることが       ある。これを加助郷といい場所によっては又助郷という。
 当分助郷:この場合旗艦を指定して当分の間、助郷を命ずる場合があり、これを当分助郷といった。

 当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上の所もあり村は大変迷惑な制度でした。

 人馬提供が不可能の場合、金銭で代納するようになり、次第に金銭代納が一般化しました。

制度としては明治5(1872)年に廃止されました。

           

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。