中山道は三津屋から西へ進み赤坂口へ進みます
六十九次 |
岐阜県本巣郡巣南町 美濃国 樽見鉄道美江寺駅下車 |
「曽根城跡」巻は、「谷汲道標」、梁川星巌(やながわせいがん)記念館道標と地蔵堂、
菖蒲園になった「曽根城家老屋敷跡」、「曽根城跡公園、「ハリヨの棲む池」、曽根城本丸跡の「華渓禅寺」、城址の庚申塚、
「梁川星巌(やながわせいがん)記念館」、矢橋式日時計、「春日局ゆかりの春日神社」、「安八太夫と夜叉ケ池伝説」、
「夜叉姫病気祈願の善学寺」、「嵯峨天皇建立の勧学院」、元国宝の狛犬と三重塔がある「日吉神社」、聖観世音菩薩道標、
「七回り半道標」、「日比野五凰記念碑」、百済国王ゆかりの「菅野神社」、輪中堤の土に使われた池尻城址、
「青木一里塚跡」、多賀神社、戦国時代に要となった「西圓寺」、美濃路(大垣・墨俣・笠松・一宮・清洲・を
経て熱田への街道)の追分などをGPS位置情報と共に、ご案内します。
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
三ツ屋町交差点から |
まず、三津屋町3丁目交叉点から「中山道」を反れて谷汲路を北へたどり「曽根城址」方面へ
三津屋町3丁目交差点 |
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何の目印もありませんので気を付けて!( 交差点手前の家のフェンスに地名標識があります) |
この信号を右折して「曽根城跡」方面へご案内します。
谷汲道道標 大垣市北方町3丁目 |
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三津屋町3丁目の交差点を北へ曲がり600mほど進むと
左側の道路端に小さな道標があります。
右 谷汲山 四里二十丁 |
左 加納やく・・・・ |
道標から50mほど進んだ信号交差点を東へ進みます。
梁川星巌道標 大垣市曽根町2・3丁目 |
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先の「道標」から50mほどの信号交差点に「地蔵堂」あります |
地蔵堂を東へ進みます |
1kmほど東へ進むとお寺へ突き当たります。
北へ曲がり600mほど進見ます。
曽根城家老 大垣市曽根町1丁目 |
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曽根城家老「斎藤内蔵助利三」の屋敷跡は「しょうぶ園」になっています。 |
曽根城址公園 大垣市曽根町1丁目 |
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「現地説明板より」 この地は天正のはじめ、春日局の父、斎藤利三が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。 春日局は稲葉一鉄の姪、お安(あん)と斎藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁した。 曽根城の創築年代は不明だが、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が、永禄10年(1567)織田信長に仕え、五万石を領した領したという。 その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通(のりみち)を経て、天正16年(1588)から西尾光教が在城した。 光教は関ヶ原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になった。 一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保19年(1734)に本丸跡に移転した。 なお、華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斎藤内蔵佐」利三の屋敷が記されているから春日局は、ここで生まれたのではないかといわれている。 沿革 |
大垣市教育委員会 |
発掘証左の結果 石垣の年代は、出土品などから稲葉一鉄時代(1525〜1579年)と推定でき、 |
発掘調査で出てきた「本丸」の土塁と石垣
本丸はそのまま「華渓禅寺」となっています
(あとで紹介)
曽根城跡は公園になっています
「はりよ」の棲める池 大垣市曽根町1丁目 |
ハリヨ(トゲウオ科)の生態 |
曹源山華渓禅寺のそばにある「ハリヨの池」です。 |
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池には地下水が湧いて吹き出ています。 |
「はりよ」 |
曽根城本丸跡 華 渓 禅 寺 大垣市曽根町1丁目 |
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曽根城は、揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城である。創建は室町時代末期に稲葉通富によってなされ、以降稲葉氏の勢力拡大の拠点であった。なかでも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどのすぐれた武将で、織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてた。天正16年(1588)西尾光教が、稲葉氏にかわって曽根城主となるが、関ヶ原合戦後、揖斐城に移り廃城となった。享保19年(1734)良通(一鉄)が、生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が現在の地(本丸跡)に移建された。(華渓寺にある説明板より)
稲葉氏が郡上八幡に移封された後の西尾光教は、初め氏家卜全の家臣で多芸(たぎ)郡(養老郡)野口郷に住んでいましたが、斎藤氏没落後、信長・秀吉に仕えて曽根城を与えられました。秀吉が卒してのちは、徳川家康に親近し、近衛家とも姻を結びました。関ヶ原の合戦には東軍に属し、大垣城を攻略する武勲をあげ、戦後、功によって1万石を加増され、揖斐城に移されました。 |
曽根城址 天正十六年(1588年)西尾光教(みつのり)が、稲葉氏に代わって曽根城主となるが関ヶ原合戦後、 享保十九年(1734年)良通(一鉄)が生母の菩提を弔うまめに建てた |
日本城郭大系より |
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曽根城址 曽根城の創築年は不明だが西美濃三人衆の一人として、活躍した稲葉一鉄は永禄十年(1567年)織田信長に仕え その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正十六年(1588年)から西尾光教(みつのり)が在城しました。 |
一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保十九年(1732年)に本丸跡に移転しました。 |
庚申像 大垣市曽根町1丁目 |
「庚申像」(こうしんぞう) この庚申像は、寛政十二年(1800年)「梁川星巌」が両親を亡くした十二歳のおり、 中国の教えでは、人の体内にいる三戸(さんし)の虫が庚申の日の夜、天帝にその人の罪過を告げるので、寿命が縮むと言います。そのため。庚申の夜には、言行を慎み、健康長寿を祈念しましたが、室町時代以降、仏教的要素が加わり、庚申待ちをする講が流行し、各地に庚申塔(像)あ建立されるようになりました。この庚申像は、寛政12年(1800)梁川星巌(やながわせいがん)が両親を亡くした12歳のおり、曽根村の辻に祀った石像です。 |
梁川星厳記念館 大垣市曽根町1丁目 |
梁川星厳(やながわせいがん) 江戸時代後期の日本を代表する漢詩人。1789(寛政元)年、安八郡曽根村(大垣市曽根町)の郷士の長男として誕生。 十二歳のとき相次いで両親を亡くし、家督を継ぐも十八歳で京都で勉学をするも帰郷。後に家督を弟に譲り江戸へ出る。 |
江戸で遊興に深け借金 若さから初心を忘れ遊興にふけ多額の借金を背負い、地元の和尚からの送金で解決し 、頭を丸めて名を詩禅と改め1809(文化六)年に帰郷。 |
詩塾「梨下村草舎」を開塾 儒学者で有名な頼山陽と並び称される漢詩人となる |
華渓寺の裏の広場には、幕末の勤皇家梁川星巌の銅像が建っています。
星巌は大垣市の生まれで、維新の勤皇の士もあり詩人でもありました。
公園内に矢橋式日時計が設置されています。
矢橋式日時計 |
「赤坂宿」の「赤坂湊」同じものがあります
「矢橋式日時計」
日時計の見かた
この日時計は、上のひさしの形をした板の陰が、午前は左側、午後は右側のメモリにうつり、
それで、その時の時刻が分かります。
この半円形のメモリ板は、その中心の周りに回転させて、時間の狂いを直せば、常に正しい
時刻を示すことが出来ます。
春日局ゆかりの地 春日神社 大垣市曽根町大字瀬古字高道 |
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春日神社本殿 また本殿前に現存する拝殿も同時期の建造物と思われ内部の 平成二年に傷みが著しくなったので修理と彩色を施し、 |
春日神社本殿 |
狛犬はかなり新しく大正四年の文字が見えます。 |
此処で、もう少し北の「安八」まで足を伸ばしてみましょう。
先ほどの「谷汲道」の地蔵堂まで戻り北へ進むと安八郡神戸町(あんぱちぐんごうどちょう)へ出ます。
安八太夫と夜叉ケ池伝説 |
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安八の地名由来 安八太夫と夜叉姫伝説 「夜叉ケ池」(写真左)は”揖斐郡坂内村川上地区から北西に、広瀬川に沿って奥へ20km登った山の頂上にあります。 林道終点から徒歩で一時間かかります。 |
安八郡にはこの他歴史的にも貴重な文化財のある「神戸町」(ごうど)があります。
神戸町の善学院(岐阜県安八郡神戸町福井)
夜叉姫病気祈願 安八太夫は、厚く帰依していた伝教大師に加持祈祷を依頼し、次女・夜叉姫の病の快癒を願いました。 そうしたところ姫の病気は見事に治り、喜んだ安次は、大師のために一寺を建立して国家鎮護の道場としました。 これが、善学院です。 本堂は、藤原期の神殿造りの遺構を伝え、仏像、絵画、古文書など町の重要文化財が収蔵されています。 (岐阜県安八郡神戸町福井) |
神戸町の勧学院 (岐阜県安八郡神戸町下宮) |
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勧学院は、嵯峨天皇の勅願寺として伝教大師が建てたと言われています。 本堂に安置されている元三大師像(がんさんだいしぞう)は、かって盗人が眼の宝石を盗もうしたところ、仏罰があたり、血を吐いて死んだと伝えられていることから血眼元三大師もと呼ばれています。 この他、大師が中国から持ち帰えられた仏器や沈金経箱、古文書多数を存し、古い文化を偲ぶにふさわしい名刹です。 |
全国でも珍しい神社に三重塔
神戸町の日吉神社 (安八郡神戸町) |
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弘仁(こうにん)八年(817年)、伝教大師(でんぎょうだいし)により創設された神社で、近江坂本の日吉大権現を主神として |
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朱塗りの本殿 本殿は寛永七年(1630年)に尾州候(尾張徳川家)の寄進によるもので県の重要文化財に指定されています。 朱塗りの本殿を中心に七社がお祭りしてあります。 |
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自慢の御輿(画像準備中) 日吉神社のみこしは、祭礼事に担がれるもので七社あります。 一番先頭は牛尾宮(うしおのみや) 二番目は樹下宮(じゅげのみや) 三番目は日吉大宮(ひよしおおみや) 四番目は二宮(にのみや) 五番目は宇佐宮(うさのみや) 六番目は客人宮(きゃくじんのみや) 七番目は三宮(さんのみや) で県の重要文化財に指定されています。 |
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台座の「国宝」文字 1950年に「国宝保存法」が制定されそれまでの このため昔、国宝だったものにはそのまま文字など |
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北方城主「安藤伊賀守守就」を滅ぼした稲葉一鉄(この頁の前半にあり) |
狛犬 日吉神社本殿前の「国宝」文字がある石台座にのっています。 以前は「国宝」のため木枠に囲まれていたように思いますが、関係法令が整備され、「国宝」がとれて、「国重要文化財となったので、木造の覆いは取り払われたのでしょうか? 国重要文化財指定理由は天正五年(1577年)に西の俣城主「不破河内守光治」が寄進した古いものためのです。 狛犬を寄進した「不破河内守光治」も、この後稲葉伊豫守一鉄(春日の局の叔父)に攻め滅ぼされ城は一鉄の手に渡ります。 狛犬を寄進した霊験はあらたかで無かったようです。 |
「国宝」について 未だ各所には「国宝」の文字が残ったままの「重要文化財」があります。 |
国宝 |
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国宝虎渓山永保寺の観音堂「水月堂」 多治見市にある「夢窓国師」(むそうこくし)作の「廻遊式庭園」です。 国師は鎌倉から南北朝にかけて活躍した禅の名僧です。 諸国を旅して深山に隠棲し、修業に励み、正和(しょうわ)二年(1313年)虎渓山に入りました。 仙境の趣が漂う虎渓山にさっそく観音堂を建立し、自然の地形を巧みに生かして、庭園を整えました。 |
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「神戸町」から元の中山道へ戻りましょう。
もう一度「中山道」へ戻るため「三津屋町」交差点まで戻ります。
そして「中山道」を西へ進みます
三津屋長徳寺 大垣市三津屋町3丁目 |
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「県道212号線」を横断します
道標 大垣市三津屋町2・3丁目の交差点 |
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先の「三回り半道標」から1600mほどで「七回り半道標」へ出ます。
七回り半道標 道標側は大垣市西之川1丁目 |
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七回り半の意味は先の三周り半と同じで中山道が何度もぐねぐねと曲がることから来ていると思われます |
「七回り半」を過ぎると中山道が新道に取り込まれずに生き残っている箇所があります。
「七回り半道標」から300mほど西へ進むと大垣し中野町方面から出来た新道へ出ます。
その道を横断し、家一軒(アパート・コーポスプリング)の裏手をすぐに北へ曲がります。 |
新道の向こうに「中山道」の案内板があり矢印もあります。案内板の三叉路を右(北)へ曲がります |
中山道は裏側へ 中仙道の南(東)は大垣市西之川1丁目 |
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中山道は新道を横断して |
中山道は右へ |
パチンコ屋手前合流点 |
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新道と70mほど並行して進むとパチンコ店が |
道路が突き当たりに出ると西へ左折します。 |
左折するとすぐに中山道の案内板が目に入ります。
この付近はこうした「中山道」の案内標識がしばしば見られ助かります。 |
中山道は200mほど真っ直ぐに進みます。
七回り半の終わり 中仙道の南(東)は大垣市興福寺町1丁 |
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200Mほどで北へ |
70mほどで西へ |
此処で「七回り半」は終わります。
この、「七回り半の道」も「県道220号線」です
日比野五鳳 安八郡神戸(ごうど)町大字中沢字宮跡 |
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西へ向うとすぐに「日比野五鳳記念碑」の標識が目に入ります。
「日比野五鳳」はこの地出身の「現代かな書道家」で日展に何度も入選しています。 |
200mほど西へ進むと踏切へ出ます
此処まで中仙道の南は大垣市
北は安八郡神戸(ごうど)町
この踏み切りの北は近鉄養老線「東赤坂駅」です。 |
踏み切りを渡り信号交差点へ出ます。
この信号を左(南)へ曲がり100mほど進むと堤防下に百済国王ゆかりの「菅野神社」があります。
百済国王ゆかりの 大垣市興福地町四丁目664 |
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この神社は奈良時代に百済国王の末裔が祖神を御祭神として奈良興福寺領だったこの地に祀ったのが始まりで 地域13カ村(池尻・興福寺・河間・笠縫・笠木・中野・領下・中川・曽根・北方・加納・中沢・青木)の総鎮守として、 五穀豊穣、福徳長寿の尊崇を集める古社です。 |
菅野神社から堤防上の道路を南へ330mほど進むと土地改良記念碑があります。
その手前の理容店前の道を東辺りが昔から「城屋敷」と呼ばれた「池尻城址」と云われています。
池尻城址 大垣市興福地町四丁目664 |
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菅野神社から来た道の西側にある理容店 | |
理容店の前に道を東へ下った付近が以前は「城屋敷」と呼ばれ石垣などが残っていたそうです | |
昭和40年代に行われた「池尻土地改良事業」により遺構らしきものも全て無くなったそうです。 | |
目標になるものは「池尻バス停」か「池尻町北」の信号くらいです。 | |
面影を偲ぶ物は何もなし 明治に入って城跡の土は、付近の輪中建築に充てられ平地になり、その後土地改良事業で跡形も無くなった。 |
信号交差点間で戻りを過ぎると杭瀬川の分流に架かる「菅野橋」を渡り
300mほど進むと「県道220号線」とお別れです。
中山道分岐標識 大垣市青木町青木 |
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「県道220号線」は正面に見える赤坂金生山(きんしょうざん)に向ってますが |
街道らしい細い道を進むと「白山神社」へ出ます。
白山神社 赤坂枝郷3丁目 |
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最近新しいお社になりました。 |
「白山神社」を過ぎると「青木一里塚跡」へでます。
青木一里塚跡 大垣市赤坂新町3丁目 |
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ここも民家の軒下に碑が立っているだけです。
一里塚碑より地方議員の看板のほうが目立ちます。 |
赤坂宿口へ出るまでに未だ少しあります。
多賀神社 大垣市赤坂新町3丁目 |
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多賀神社から190mほどで杭瀬川に架かる赤坂大橋へ出ます。
ここで北方向にある「西圓寺」をご案内します
信号手前の堤防沿いの道を右(北)へ曲がり190mほど進み「赤坂新橋」まで来たら右(東)へ曲がります。
東へ100mほど進み三叉路へ出たら左(北)へ曲がり、北へ480m程の右側に「西園寺」があります。
西圓寺 大垣市草道島町村中 |
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創建は811年
西圓寺はその昔西美濃を訪れた当時47歳の最澄(後の伝教大師)が創建した天台宗の寺院で
あった。(弘仁2年 嵯峨天皇 811)
蒙古襲来の余韻がまだ冷めやらぬ永仁3年(1295)本願寺3世覚如上人が関東より京都に戻られる途中、
西圓寺住職 如信は親鸞聖人の説かれた念仏の教えに深くうなづき、天台宗から浄土真宗へ 改宗したのである。(嘉歴2年 後醍醐天皇 1327)
その後、島御坊として寺勢を伸ばした西圓寺は美濃の国で急速に台頭した斉藤道三と結び、天文年間、和議の後禁制を発給させ、さらに堀を整備させた。さらに関ヶ原合戦の際には東軍 池田輝政、西軍 石田三成らの禁制を受けた。
また関ヶ原合戦後、徳川の時代を迎えて、本願寺は東西に分派することとなる。その際西圓寺は大きな役目を担った。
江戸の安定期を迎えるころ、当時まで西美濃触頭(ふれがしら)としてその地位を不動のものとしてきたが、故あってその職を平尾御坊に譲ることとなる。
寛政12年(1800)火災により堂宇を消失するが再建して現在に至る。(現地案内を要約)
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斉藤道三と組し四方を堀で固める 関ヶ原合戦では両軍から制札をとり、合戦後は家康から制札をとるなど、寺の勢力を恐れられた。 |
もとの中山道へ戻り「赤坂大橋」を渡り「赤坂宿」へ
美濃路(大垣道)追分 大垣市赤坂新町 |
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「国道417号線」と合流
国道は「杭瀬川」に架かる「赤坂新橋」を渡ると右折して北上します。
中山道は直進して「県道216号線」になります
追分から「杭瀬川」に架かる「赤坂新橋」を渡り |
赤坂宿方面から見た「追分」 |
いよいよ、「赤坂宿」へ入ります
街道コラム
【助郷役人】 助郷村を代表する役人のことである。 総代:総代は「惣代」とも書いたが、助郷村々によって数名を選出して、総代とし、助郷村を代表して宿役人と話し合い、 助郷勤務の原則を定めるなどのことが中心任務だった。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。