中山道六十九次のうち五十七宿目で中山道美濃十六宿の十三番目の宿「赤坂宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十七宿

岐阜県大垣市

美濃国

近鉄養老線東赤坂駅下車

「赤坂宿」巻は、美濃路追分、赤坂宿東の御使者場跡、赤坂湊跡、四ツ辻にある「赤坂宿碑」と「谷汲街道道標」、
谷汲巡礼街道から谷汲山華厳寺へ、華厳寺の精進落しの鯉、赤坂宿本陣跡、子育て呑龍大士の天晴院と馬頭観音石仏、
大垣城石垣の石を出した「石引神社」、「旅館榎屋」になった赤坂宿脇本陣、幕末の志士「所郁太郎生誕地」、
岐阜城下の信長千畳屋敷を移築した「お茶屋敷跡」、善光寺本尊が休んだ「安楽寺」、家康の岡山陣を張って
関ヶ原合戦に勝って「御勝山」、所郁太郎の墓の「妙法寺」、皇女和宮のための「嫁入り普請」、
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。.

          

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
赤坂宿美濃路追分〜赤坂宿お嫁入り普請までの690mを案内します

赤坂宿

宿場の概要

大垣藩領、 宿高 一千八十石、 人口 1,250人、 家数 300軒、 

旅籠 十七軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、           

美江寺宿から 二里八丁(美江寺一里塚、青木一里塚)

垂井宿へ  一里十三丁(青野一里塚)

「岐蘇路安見絵図」による当時の赤坂宿の解説は

赤坂岐阜市歴史博物館 蔵

昔、熊坂の長範か討たれしは、此宿也。(昔、熊坂長範が討たれたのは、この宿なり)

谷ぐみ道、五り有。谷汲山華厳寺までは、五里=20km=余りあり)

青墓は昔は赤坂と同しく宿なり。名所也。
(赤坂が宿場になる前は、青墓が宿場なり、青はかも名所が多いところなり)

円願寺 よし平・よしとも・とも長の石塔有。
(円願寺=今は廃寺となりよしたけ庵跡として名のみ残る=は源義平、義朝、朝長の石塔がある=此処に葬られたわけでなく源義経が牛若の時代に金売り吉次と奥州へ落ち延びる時、此処で平治の乱で亡くした親達を弔い、源氏再興を誓った所です

追分 中山道・大垣藩。(追分=先ほど紹介した国道417号線=大垣道=と分かれるところ)

大垣市赤坂町赤坂東町の「赤坂湊」あと付近と思われます。

広重が描いた川には石がごろごろしていますが、当時「桑名」との物流の拠点だったはずです。

 

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 赤坂」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                             説  明
 
図は、宿場の東側を流れる杭瀬川を描いていると思われる。 本図は杭瀬川に架かる土橋と向こうに望む赤坂の宿場を描く。 丁度雨が上がったところであろうか。 画面右手前から、宿場に向かって橋を渡っていく女性の手には閉じかけた傘が見える。 橋のたもとにある榜示杭(ぼうじくい=立て札杭)には「自是(これより)大垣藩領赤坂宿」とあったのだという。 広重描く杭瀬川は川幅が狭く浅瀬になっているが、実際は赤坂湊として桑名との間に舟運が発達しており、数百隻の舟が出入りしていたものだという。 『木曽路名所図会』にも、洋々と流れる大河が描かれ「船渡しなり」とある。 広重のこの図の出典はどこに求められるのであろうか。 

中山道分間延絵図の読み取れる文字とと住宅地図の比較

杭瀬川と「壬申の乱」
「壬申の乱」672年)に矢傷を負った「大海人皇子」(後の天武天皇)が矢の根川の水で傷口を洗ったところ、
たちどころに傷が治ってしまった。
そこでこの川を「苦医瀬(くいせ)川」と呼んだと伝えられています。

赤坂宿は昔「杭瀬川駅」
「わたし守り ゆききにまもる杭瀬川 月の兎も 夜や待つらむ」など、平安時代から鎌倉時代にかけても
「杭瀬川の駅」は、いろんな物語や和歌がの残されています。

舟便の発達と「赤坂湊」
江戸時代以降も「杭瀬川」の舟便は活発となり、特に明寺・大正時代には「石灰産業」の発展に伴って
「赤坂湊」ニ出入りする船は数百艘を数えたと言われています。

大垣藩領だった「赤坂宿」
寛政年間には宿場の長さが東西五町五間半(約600m)、南北七町(約750m)
助郷高1万2442石19ケ村
と記録されています

助郷制度
江戸時代幕府は,街道を往来する大名行列,朝鮮使節等のために助郷制度を設け,
近郷の村々に使役の義務を課し,人馬の供給をはかりました。

モノクロ画像の赤坂宿航空写真
画面下から中仙道沿いに「杭瀬川」→「赤坂港跡」→「谷汲道標」→「嫁入普請の家並み」(左方に「お茶屋屋敷跡」)→
甲塚」→「昼飯(ひるい)の里」→「妙来寺」→「青墓の里」→「円願寺・照手姫井戸」と文字が見えます。

少し前までは不破郡赤坂町でしたが現在は合併して大垣市赤坂町になっています。

美濃路追分

碑 :大垣市赤坂新町3丁 
碑北:
大垣市赤坂新町1丁目
碑南:
大垣市赤坂新町4丁目

北緯

35

23

17.1

東経

136

35

27.3

画面、左が「池尻一里塚跡」から来た「中山道」です
右が「国道417号線」(美濃路=大垣道)です。

中山道は「国道417号線」と共に杭瀬川を渡り
国道は右折して北上します
中山道は直進して県道216号線となり赤坂宿へ入ります

いよいよ「嫁入り普請」などで有名な「赤坂宿」です

道標

赤坂宿から東へ向うとすぐに道が二股に分かれるため
旅人が迷わないようにあった道標だったようです。

赤坂宿へ入るとまず目に入るのが「赤坂湊」跡です

浅間神社の境内にある赤坂湊跡

しかし、その前に橋の手前、左には「赤坂宿御使者場跡」があります。
(御使者場とは大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所)

赤坂宿東口御使者場跡

大垣市赤坂東町

北緯

35

23

14.4

東経

136

35

18.3

これは他の宿の番所、木戸などに当たるもので、徳川家康は特にこの赤坂に思い入れが
あったのか、岐阜町にあった信長が建て外国の宣教師の記録までにとどめた
「千畳敷御殿」を移築して将軍の宿としました。
このための使者が待ち受けた場所と思われます。

赤坂宿西の出口は「兜塚」に同じく「赤坂宿御使者場」が設けられていました

「杭瀬川駅」と大飢饉
全国的な飢饉が襲った鎌倉時代に庶民から大勢の餓死者が出たことを伝え聞いた鎌倉の執権「北条泰時」は、
役人を派遣して「杭瀬川駅」で食糧を給して庶民を救ったと言う話も伝えられています。

赤坂湊跡

大垣市赤坂町

北緯

35

23

14.3

東経

136

35

16.9

元杭瀬川
現在は元の位置から200mほど東を流れる杭瀬川も、享禄三年(1530年)の大水で水路が大きく変わり、
川幅も狭くなったが上流の「池田山」からの豊富な湧き水で港としての機能は十分に果たしていました。
そして大正時代まではこの川を数百艘の船が上下していました。

舟便の発達と「赤坂湊」
江戸時代以降も「杭瀬川」の舟便は活発となり、
特に明寺・大正時代には「石灰産業」の発展に伴って
「赤坂湊」に出入りする船は数百艘を数えたと言われています。

「杭瀬川宿」の記録
杭瀬川の船便は古くから利用されていたようで、平安末期には川の付近に「杭瀬川宿」が出来て
地域の流通市場の中心になっていたようです。

尾張国 養老元年之図
養老元年は西暦717年で今から約1290年も前の地図である。
当時の地図は地形が正確でないが土地の名前は現在とほぼ同じである。
この地図によると「赤坂」を中心に「鏡島(かがしま)」「曽根」「中曽根」などの地名が見え
いずれも海辺近くであったことが分かる。
このため「赤坂湊」は当時から交通の要所であったことがうかがえる。

治承三年(1179年)に太政大臣「藤原師長」が尾張の「井戸田」に流された時も、この宿場にとまってる記録があります。

「赤坂湊」の横に「浅間神社」があります。

浅間神社

大垣市赤坂町

北緯

35

23

14.2

東経

136

35

16.9

浅間神社

宿場の街道を西へ進むと踏み切りに出ます。

西濃鉄道本町踏切

大垣市赤坂町

北緯

35

23

13.8

東経

136

35

09.8

中山道を横断する引込み線は、この地の産業
「石灰」を運び出す重要な線路です。

西濃鉄道の踏切を渡ると本陣跡があります。

赤坂宿本陣跡

赤坂東町

北緯

35

23

14.3

東経

136

35

17.9

「本陣跡」
当所は、江戸時代・大名・貴族の旅館として設置された
中山道赤坂宿の本陣でありました。
間口二十四間四尺、邸の敷地は、二反七畝(820坪)で建物は
おおよそ二百三十九坪あり、玄関門構えの豪勢なものでした。

寛永以降、馬淵太郎佐衛門に次いで平田又佐衛門が代々本陣役を継ぎ、
天明・寛政の頃しばらく谷小兵衛がかわったが以後、
矢橋広助が二代に及んで明治維新となり本陣の一部は解体され
町役場になり、残りは旅館になったそうです。

明治になって本陣の一部は解体され町役場になり、残りは旅館になったそうです。

和宮顕彰碑

本陣公園には赤坂出身の幕末の蘭医学志士「所郁太郎」像が建っています

「所郁太郎」

天保九年(1838年)に当地 赤坂宿の酒造業「矢橋亦一郎」の四男として生まれ、
医師「所伊織」の養子となった。
その後勤王の志を胸に志士として国事に奔走する。

井上聞多(いのうえもんた=後の井上馨)が刺客に襲われて重傷を負うと、外科手術を施して
一命を救ったこともあります。
残念ながら元治二年(1865年)山口市吉敷(きしき)の陣営で二十八歳の若さで病没しました。

 

赤坂宿碑

谷汲街道道標

大垣市赤坂町

北緯

35

23

14.5

東経

136

35

05.0

宿場の町並みは東西で七町十七間(約800m) 東町、子安町、羽根町、と続き、
辻から南北へ新町、中町、横町と広がり「本陣」は東町にあり、
「脇本陣」は子安町にありました。

赤坂宿の四ツ辻
近世江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸から京都へ百三十一里の道程に六十九次の宿場があり、
美濃赤坂宿は五十七番目に当たります。

大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んでした。
町の中心にあるこの四つ辻は北に向う谷汲巡礼街道と、南は伊勢に通ずる養老街道の起点でした。

東西に走る街道筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠十七軒と商家が軒を並べて繁盛していました。
また、赤坂は明治に入っても、杭瀬川の舟を待つ旅人のために賑わいました。

中山道の宿駅として指定されるまでは、西隣の青墓町「東山道」の宿駅として利用されていました。

この辻から「谷汲街道」が延びていました。
宿場の真中にある「四ツ辻」と呼ばれる谷汲街道のある道標

「高札場」は東町にあり、高さ一丈三尺八寸(約4.2m)あったと言われています。

宿場の中心で「四ツ辻」と呼ばれる交差点にあり
天和三年(1683年)の文字が読み取れます

辻の向かいに「矢橋家」が昔ながらの重厚な姿で建っています。
ここで、谷汲巡礼街道で谷汲山華厳寺へ道草をします。

                谷汲巡礼街道
 谷汲道はこの四ツ辻から北へ池田町市橋〜池田町池野で近鉄養老線を横断し〜池田町杉野の三町大橋あたりで揖斐川を渡り〜揖斐川町三輪〜谷汲村深坂を経て谷汲山華厳寺へ延びています。
                昔の人はエライ!
  「西国三十三カ所霊場巡り」の満願札所である谷汲山華厳寺(揖斐川町谷汲徳積)に向かう約28kmの街道。
  ここ中山道赤坂宿(大垣市)から現在の池田町を北上し、 揖斐川本流を渡船で渡り、揖斐川町に入った後、華厳寺に至る道程です。
 通説では、巡礼風習が定着したと される室町時代から街道が栄え始めたとされています。
  シルバー@も歩いてみたいと思いましたが、途中の峠付近の道が整備されていないので、思案中です

訪れた時は54年ぶりのご本尊の御開帳の時でした。

谷汲山華厳寺

(54年ぶりの御開帳)

揖斐川町谷汲徳積

北緯

35

32

02.5

東経

136

36

39.0

       平成21年3月54年ぶりにご本尊の御開帳
 揖斐川町谷汲徳積の華厳寺で1日、本尊の十一面観音像を直接見ることができる「ご開帳」が始まり、好天と日曜日が重なり約2万人の参拝者(谷汲観光協会調べ)でにぎわった。
 54年ぶりとなるご開帳は14日まで。
 谷汲山華厳寺は「西国三十三所」霊場巡りの終着点で、満願の寺として知られる。
                参拝客で満員
 本堂にある十一面観音は、奥州会津に送られる途中、この地で動かなくなったという伝承があり、高さ約7尺(215センチ)の大きなもの。
 姿勢を低くして下から覗き込むようにしても、お顔はハッキリと拝めませんでした。
 御本尊につながっている紐に触ろうと群がって大変でした。
                精進落としの鯉
 この鯉は「精進落としの鯉」と呼ばれていて、かつての巡礼者達は西国三十三ヶ所巡礼を精進料理で禁欲生活を強いられ、満願をむかえ華厳寺に到達するも、参道の両側に美味しい匂いを漂わせるご馳走に堪らず、満願のお参りをする前に、この鯉に触れることにより精進生活から開放され、先にご馳走にあり付く事が出来たそうです。

谷汲山華厳寺から谷汲巡礼街道を戻り赤坂宿四ツ辻まで来ます。

「問屋場」は東町に二ケ所、羽根町に一ケ所の三ケ所ありました。

赤坂四ツ辻を北へ入り230mほどの左に赤坂公園があり、その奥に八重垣神社があります。

八重垣神社

大垣市赤坂町3334

北緯

35

23

22.0

東経

136

35

04.4

               大蛇に追われた虚空蔵さま
 むかし昔の大昔、赤坂山の虚空蔵さんが未だ修行中に若いころ托鉢しながら諸国行脚の道すがら、たまたま伊勢国で、ある家の娘に懸想され、木石ならぬ若い身の心ひかれそうになりましたが、出家の身で異性に心を奪われては修行の妨げ、と自らを戒めて逃げ出しましたが女の一念岩をも通すの諺のとおり、娘の執念は大蛇に化身して追いかけてきました。
 さて、虚空蔵さんは旅の疲れと共に避けられぬ生理現象、道端で立小便をはじめたら、その草むらで眠っていた大蛇に尿水が振りかかり、目を覚ました大蛇が怒り飛びかかりました。
 ビックリ仰天、虚空蔵さんは笠を脱ぎ捨てて逃げ出しましたけれど大蛇はどこまでも追いかけてきました。
息せき切った虚空蔵さんは、のどが渇いて「ガラガラ、ゼイゼイ」苦しくてたまらず、道端のガマの湧き水を呑んで走り続け、とうとう赤坂山の岩屋の中に逃げ込みました。そこが明星輪寺本堂の奥でした。
 笠を脱いだ処が河間町となり、女の化身した大蛇は、蔵王(蛇王)権化の宮として同寺の鎮守に今も祀られています。
      (大垣むかし話100話より)

赤坂公園から40mほど北に子育て呑龍大師と馬頭観音石仏があります。

子育て呑龍大士
馬頭観音石仏

大垣市赤坂町3334

北緯

35

23

24.3

東経

136

35

04.4

浄土宗天清院
子育て呑龍さん「呑龍大士」は群馬の高僧で、貧困で苦しむ農家の子供達を引き取って育てるなどをされていた。
明治15年に当時の住職が「呑龍大士」の像を勧請したのがきっかけで育児や健康、安産祈願のお寺とされている。
堂内には寄進された沢山の提灯が提げられています。
馬頭観音
かっては赤坂宿の西はずれにあり、宿役人が支配していた。
その裏手に馬捨場があり、宿継ぎ伝馬の制に働いた人馬の霊を弔ったと言われています

同じ境内に立派な仁王門観音堂がある。

呑龍大師堂から北へ50mほどの西に石引神社があります。

石引神社

大垣市赤坂町

北緯

35

23

27.4

東経

136

35

01.7

桑名の「石取り祭り」との因縁
巡礼街道沿いの金生山麓に建つ蔵王明神社は、大垣城主松平越中守定網が城の石垣をこの付近から採取し
杭瀬川から大垣城内へ石を運んだ記念に、石引神社」と呼ばれるようになった。
その後松平公が桑名へ転封となり、桑名領主となった越前守は桑名祭りを「石取り祭り」と
呼ばせるようになったと言われています(大垣市赤坂商工会)

石引神社から四ツ辻まで戻り、そのまま南へ進むと「お茶屋屋敷」、「安楽寺」、「御勝山陣跡」があります

 

赤坂宿
お茶屋敷跡

大垣市赤坂町

北緯

35

23

08.4

東経

136

34

57.7

御茶屋敷(おちゃやしき)は将軍上洛の際の休泊設備で、
徳川家康が、慶長九年(1604年)に開運の地である「勝山」の北に設けました

史跡「お茶屋敷跡」
ここは慶長九年(1604年)徳川家康が
織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた
将軍専用の休泊所跡です。

「お茶屋敷跡」は中山道の道中四里毎に造営され
周囲には土塁、空濠をめぐらし、その内廊を本丸と
言い厳然とした城郭の構えでした。

現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる
交通史上の重要な遺跡です。

建物は全部で六十二
本丸のほかに六十二あったという建物は、現在は残っていないが、
城郭建築様式により周囲に土塁・空壕などの遺構が竹薮で囲まれ残されたいます。

周りを空壕で囲み土塁を設け、城郭と同じ構えとなっていました

将軍の休泊所
将軍などの休泊設備で大規模なものを「御殿」といい、小規模なものを「お茶屋」と言いました。
中山道に残る「御茶屋」としては唯一の遺構です。
明治維新時に払い下げられて以来「宿本陣」であった「矢橋家」が管理しています。
3000株の牡丹を有するボタン園として解放されています。

お茶屋敷「御殿跡」
慶長九辰(1604年)年から翌年十巳年(1605年)にかけて
徳川家康が美濃国中の諸大名に構築した赤坂お茶屋敷の
建物のうち本丸の中の西寄りに奥まった位置に
将軍の宿泊した御殿がありました。

ここはかって織田信長が岐阜城に新築した千畳敷御殿を
移築した豪華なものであったが惜しいことに寛永のころ
すでに廃絶したと伝えられる、この辺りです。

お茶屋敷「大手門」跡
わが国の近世交通史上、貴重な造跡として中山道「赤坂宿」に
置かれたお茶屋敷は原初形態の本陣を偲ばせる空壕土塁などを構築した城郭様式の一部を再現しています。

ここは同屋敷の正面入口「大手門」の跡です。

屋敷の外は「矢橋家」屋敷でNHKtvにも出た
近代洋館建築が外から垣間見えます。

中学校建設のため土地を提供
お茶屋敷は寛永年間(1624〜44)に取り壊され
土地は明冶維新後に払い下げられたが、
赤坂中学校建設のためと地の半分を提供された。
残りの土地は現在ボタン園として大勢の花見客で賑わいます

跡は「矢橋家」の大理石工場が延々と続きます。

そのほかには「矢橋家」一族の屋敷が巡っています

勝山の中腹にある「聖徳太子」建立のお寺「安楽寺」

安楽寺

大垣市赤坂町

北緯

35

22

49.4

東経

136

35

05.0

「聖徳太子」建立の由緒ある寺

三つ葉葵
この寺の墓地である「岡山」(後の「勝山」)に陣を張り、一里ほど先の「大垣城」の「石田三成」を城から誘い出しに成功した
勝運を開いた寺でまあリます。  寺には「三つ葉葵」の紋がいたるところに見られます。

「家康」寄進の梵鐘
 この梵鐘は、関ヶ原合戦の時西軍石田三成方の勇将
「大谷吉継」陣中の兵士の士気を鼓舞したり、合図用に
播州(兵庫県)から持参した陣鐘で、戦後 徳川家康が戦利品
として「安楽寺」に寄進した歴史的にも由緒のあるものです。

応永六年(1619年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と記されている古鐘で、品格がが退化しているといわれる
室町初期のもの中では、優れた美術工芸品です。

「おかやま」(岡山)から「おかちやま」(御勝山)

宿場の「四ツ辻」から南に約500mにある丘で、「徳川家康」が関ヶ原合戦で最初に本陣を置いた所で有名になりました。
名前も「岡山」から「勝山」と変え地元では「お勝山」と呼んでいます。

御勝山
おかちやま

大垣市赤坂町

北緯

35

22

52.9

東経

136

34

58.7

高さ53mの小さな丘ですが、上からの展望と大垣城を威圧するための本陣として最適な場所です。

山の半分は「安楽寺」の墓地であるため、お墓がびっしりと並んでいます。
中腹には「安楽寺」があり案内板も「岡山本陣跡」となっています。

関ヶ原合戦の緒戦で戦死した「久世友輔」の墓も「おかち山の墓地」にあります。

赤穂城無血開城の貢献者「戸田権左衛門」
この他、「安楽寺」の境内から裏の「御勝山」にかけて、古い石像供養塔も残り
赤穂事件で大垣藩正使として赤穂城を無血開城に導いた家老「戸田権左衛門」はじめ、
幕末の志士たちの墓など、数多くの歴史にまつわる物語や人物の遺構が残っています。

「安楽寺」境内から上ると墓地の真ん中を登っていきます。

この山は「壬申の乱」の時も重要な場所になりました

「壬申の乱」の碑や塚も残されています。

史跡 関ヶ原岡山陣跡

この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年)
関ヶ原合戦のとき東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられところで、
天下分け目の大合戦に勝利を得た徳川ゆかりの地を記念して
岡山の名を勝山と改めと伝えられています。

またこの山は、聖徳太子の創建と伝えられる「安楽寺領」であり、
壬申の乱をはじめ大垣藩関係に所縁の史料に富んでいます。

「岡山の陣」
岐阜城を攻撃して意気あがる東軍は慶長五年八月二十四日、西進して赤坂一帯を占拠しました。
よく二十五日、軍監の本田忠勝と井伊直政が相談し、徳川家康の本営に定めたのが、この岡山(現 勝山)です。
以来家康が到着するまでの約二十日間、東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて
大垣城を本拠とする、石田三成らの西軍と対峙しました。ちなみに大垣城へはこの岡山から東南方向わずか4kmにすきません。

大垣の敵をおびき出すには最適の場所を家康の家臣は選び家康を迎えたようです。
(頂上にはこの他に模擬の「家康物見台」が作られています。)

「杭瀬川の戦い」の模様
慶長五年九月十四日の午後、家康の着陣による将兵の同様を抑えるため、西軍の「島右近」や「蒲生郷舎」、「明石全登」らは
大垣城を出撃し、杭瀬川一帯で東軍の中村一栄・有馬豊氏の両隊と戦い、勝利しました。(杭瀬川の戦い)
家康はこの戦いの一部始終を岡山の本営で食事を取りながら観戦し、飯粒がひざの上に落ちるのも気が付かないほどであったといいます
古記録では扉を営舎の屋根にのせて観戦したようです。

家康の馬印とのぼり旗
慶長五年九月十四日の正午頃、約三万の軍勢を率いた徳川家康がついに赤坂に到着
、岡山山頂の営舎に入りました。同時に大垣城に向けて自らのの馬印とのぼり旗を立てさせ、大垣城の西軍を動揺させたと言います。
この時の様子は、「金の扇子の大馬印」、「銀の繰半月の小馬印」、「離稜土欣求浄土の流旗」、
「丸に三つ葉葵紋三段ののぼり旗」と、「総白ののぼり旗」が数知れずたなびいたと言います。

第二次世界大戦では高射砲陣地も置かれその記念碑もあります

四ツ辻へ戻り中山道を西へ90mほどの南側に脇本陣跡の榎屋旅館があります。
「旅籠」
は中九軒、小八軒の十七軒を数え、京枡屋、松屋、藤屋、大増屋などがあったそうです

赤坂宿脇本陣跡

赤坂子安町

北緯

35

23

14.6

東経

136

35

02.4

脇本陣は155坪の平屋建の書院造りの座敷は今も以前のままで上段の間も残されています。

今は旅館「榎屋」に変わっています。

「赤坂宿脇本陣」
脇本陣は当家一所ケ所でした。(大きな宿では二ケ所ある場合もあります)
 大名や貴族の宿舎である「本陣」の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、
領主の監督を受けて経営されていました。

当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り、脇本陣を勤め、又問屋、年寄役を兼務して
明治維新に及び、その制度が廃止した後は独立し、榎屋の家号を用いて旅館を営み今日に至っています。

脇本陣から西へ30mほどに「妙法寺」があります。
宿場の中の街道は緩やかな坂になって西へ登っています。

戸田三弥と所郁太郎の墓のある
妙法寺

大垣市赤坂子安町

北緯

35

23

13.8

東経

136

35

00.4

大垣藩家老の家に生まれた戸田三弥赤坂宿出身の幕末の蘭医学志士所郁太郎の墓がある

赤坂出身の幕末の蘭医学志士
「所郁太郎」の墓
所郁太郎は、天保九年(1838年)
赤坂宿の酒造家「矢橋亦一の四男
として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町
西方の医師「所伊織」の養子となった。
その後、勤王の志を胸に国事に奔走し
長州藩遊撃隊参謀となりました。
井上多聞(後の元老井上肇)が刺客に
襲われ、重傷を負うと外科手術を
施し一命を救いました。
元治二年(1865年)山口市吉敷の
陣営において二十八歳の若さで病没しました。

大垣藩家老の家に生まれ
「戸田三弥」の墓」
戸田三弥(寛鉄)は文政五年(1822年)
に大垣藩家老の家に生まれ、幕末維新の際には藩老「小原鉄心」と共に紛糾
する幕論を勤王に統一するのに
尽力しました。
また、戌辰戦争では大垣藩が東山道
先鋒を命じられると軍事総裁として
東北各地を転戦し軍功を上げました。
明治維新後は新政府の
要職を歴任しました。

 

 

赤坂宿お嫁入り普請

大垣市赤坂子安町  海抜  26m

北緯

35

23

14.

東経

136

35

01.

お嫁入り普請探訪館
県道216号(県道赤坂垂井線)「妙法寺」山門向かいです。

「お嫁入り普請探訪館の紹介」案内板
(入場無料)
[展示内容]               
◎皇女和宮に関する資料    
◎温故焼き             
◎お嫁入り普請の解説と図面  
◎代理石製品           
◎赤坂地域の名所、旧跡の写真

なお、見学を希望される方は、折戸(0584-712832または090-8077-7023)までご連絡ください。
中山道赤坂宿まちづくりの会

 

皇女和宮降嫁
文久元年(1861 明治維新の6年前)公武合体の政略結婚のため皇女和宮の東下にあたり、赤坂宿に大行列の一行が
宿泊したため、この宿場だけで特別に新築された家54軒は「お嫁入り普請」とよばれ、平屋では見栄えが悪いので一見2階建て
のような造りにした家を建てたようです。その後改造はされているようですが2〜3軒残っています。

 

中山道を西へ向かい、中山道「赤坂宿-2」へ進みます。

街道コラム

【宿場と情報伝達】

 宿場は情報伝達の場でもあった。近代的な通信機関のない江戸時代は飛脚による手紙か馬子や往来人、行商人などの口伝が通信手段で、宿場から田舎の村々へも届いた。
 大阪で起きた大塩平八郎の乱、浦賀へのペリー来航、幕末の戊辰戦争など、中山道の宿場へは割合早く伝わった。
 特に幕末の横浜の生糸値段の上下は、いち早く飛脚によって信州や東濃へも知らされていた

          

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。