中山道六十九次のうち五十七宿目で中山道美濃十六宿の十三番目の宿「赤坂宿」をご案内します
六十九次 |
岐阜県大垣市 美濃国 近鉄養老線東赤坂駅下車 |
「赤坂宿」巻は、美濃路追分、赤坂宿東の御使者場跡、赤坂湊跡、四ツ辻にある「赤坂宿碑」と「谷汲街道道標」、
谷汲巡礼街道から谷汲山華厳寺へ、華厳寺の精進落しの鯉、赤坂宿本陣跡、子育て呑龍大士の天晴院と馬頭観音石仏、
大垣城石垣の石を出した「石引神社」、「旅館榎屋」になった赤坂宿脇本陣、幕末の志士「所郁太郎生誕地」、
岐阜城下の信長千畳屋敷を移築した「お茶屋敷跡」、善光寺本尊が休んだ「安楽寺」、家康の岡山陣を張って
関ヶ原合戦に勝って「御勝山」、所郁太郎の墓の「妙法寺」、皇女和宮のための「嫁入り普請」、
などをGPS位置情報と共に、ご案内します。.
この頁で紹介する中山道区間図(赤線:中山道
) |
赤坂宿 |
宿場の概要 大垣藩領、 宿高 一千八十石、 人口 1,250人、 家数 300軒、 旅籠 十七軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 美江寺宿から 二里八丁(美江寺一里塚、青木一里塚) 垂井宿へ 一里十三丁(青野一里塚) |
「岐蘇路安見絵図」による当時の赤坂宿の解説は
赤坂岐阜市歴史博物館 蔵
昔、熊坂の長範か討たれしは、此宿也。(昔、熊坂長範が討たれたのは、この宿なり) 谷ぐみ道、五り有。谷汲山華厳寺までは、五里=20km=余りあり) 青墓は昔は赤坂と同しく宿なり。名所也。 円願寺 よし平・よしとも・とも長の石塔有。 追分 中山道・大垣藩。(追分=先ほど紹介した国道417号線=大垣道=と分かれるところ) |
大垣市赤坂町赤坂東町の「赤坂湊」あと付近と思われます。
広重が描いた川には石がごろごろしていますが、当時「桑名」との物流の拠点だったはずです。
歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 赤坂」(大判錦絵) 岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号) 説 明 図は、宿場の東側を流れる杭瀬川を描いていると思われる。 本図は杭瀬川に架かる土橋と向こうに望む赤坂の宿場を描く。 丁度雨が上がったところであろうか。 画面右手前から、宿場に向かって橋を渡っていく女性の手には閉じかけた傘が見える。 橋のたもとにある榜示杭(ぼうじくい=立て札杭)には「自是(これより)大垣藩領赤坂宿」とあったのだという。 広重描く杭瀬川は川幅が狭く浅瀬になっているが、実際は赤坂湊として桑名との間に舟運が発達しており、数百隻の舟が出入りしていたものだという。 『木曽路名所図会』にも、洋々と流れる大河が描かれ「船渡しなり」とある。 広重のこの図の出典はどこに求められるのであろうか。 |
中山道分間延絵図の読み取れる文字とと住宅地図の比較 |
杭瀬川と「壬申の乱」 赤坂宿は昔「杭瀬川駅」 舟便の発達と「赤坂湊」 大垣藩領だった「赤坂宿」 助郷制度 |
モノクロ画像の赤坂宿航空写真 |
少し前までは不破郡赤坂町でしたが現在は合併して大垣市赤坂町になっています。
美濃路追分 碑 :大垣市赤坂新町3丁 |
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画面、左が「池尻一里塚跡」から来た「中山道」です |
中山道は「国道417号線」と共に杭瀬川を渡り |
いよいよ「嫁入り普請」などで有名な「赤坂宿」です
道標
赤坂宿から東へ向うとすぐに道が二股に分かれるため |
赤坂宿へ入るとまず目に入るのが「赤坂湊」跡です
浅間神社の境内にある赤坂湊跡 |
しかし、その前に橋の手前、左には「赤坂宿御使者場跡」があります。
(御使者場とは大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所)
赤坂宿東口御使者場跡 大垣市赤坂東町 |
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これは他の宿の番所、木戸などに当たるもので、徳川家康は特にこの赤坂に思い入れが 赤坂宿西の出口は「兜塚」に同じく「赤坂宿御使者場」が設けられていました |
「杭瀬川駅」と大飢饉
全国的な飢饉が襲った鎌倉時代に庶民から大勢の餓死者が出たことを伝え聞いた鎌倉の執権「北条泰時」は、
役人を派遣して「杭瀬川駅」で食糧を給して庶民を救ったと言う話も伝えられています。
赤坂湊跡 大垣市赤坂町 |
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元杭瀬川
現在は元の位置から200mほど東を流れる杭瀬川も、享禄三年(1530年)の大水で水路が大きく変わり、
川幅も狭くなったが上流の「池田山」からの豊富な湧き水で港としての機能は十分に果たしていました。
そして大正時代まではこの川を数百艘の船が上下していました。
舟便の発達と「赤坂湊」 江戸時代以降も「杭瀬川」の舟便は活発となり、 特に明寺・大正時代には「石灰産業」の発展に伴って 「赤坂湊」に出入りする船は数百艘を数えたと言われています。 |
「杭瀬川宿」の記録
杭瀬川の船便は古くから利用されていたようで、平安末期には川の付近に「杭瀬川宿」が出来て
地域の流通市場の中心になっていたようです。
尾張国 養老元年之図 |
治承三年(1179年)に太政大臣「藤原師長」が尾張の「井戸田」に流された時も、この宿場にとまってる記録があります。
「赤坂湊」の横に「浅間神社」があります。
浅間神社 大垣市赤坂町 |
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浅間神社 |
宿場の街道を西へ進むと踏み切りに出ます。
西濃鉄道本町踏切 大垣市赤坂町 |
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中山道を横断する引込み線は、この地の産業 |
西濃鉄道の踏切を渡ると本陣跡があります。
赤坂宿本陣跡 赤坂東町 |
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「本陣跡」 寛永以降、馬淵太郎佐衛門に次いで平田又佐衛門が代々本陣役を継ぎ、 |
明治になって本陣の一部は解体され町役場になり、残りは旅館になったそうです。
和宮顕彰碑 |
本陣公園には赤坂出身の幕末の蘭医学志士「所郁太郎」像が建っています |
「所郁太郎」
天保九年(1838年)に当地 赤坂宿の酒造業「矢橋亦一郎」の四男として生まれ、
医師「所伊織」の養子となった。
その後勤王の志を胸に志士として国事に奔走する。
井上聞多(いのうえもんた=後の井上馨)が刺客に襲われて重傷を負うと、外科手術を施して |
赤坂宿碑 谷汲街道道標 大垣市赤坂町 |
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宿場の町並みは東西で七町十七間(約800m) 東町、子安町、羽根町、と続き、
辻から南北へ新町、中町、横町と広がり「本陣」は東町にあり、
「脇本陣」は子安町にありました。
赤坂宿の四ツ辻 大名行列や多くの旅人が往来し、また荷物の輸送で交通は盛んでした。 東西に走る街道筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠十七軒と商家が軒を並べて繁盛していました。 中山道の宿駅として指定されるまでは、西隣の青墓町が「東山道」の宿駅として利用されていました。 |
この辻から「谷汲街道」が延びていました。
宿場の真中にある「四ツ辻」と呼ばれる谷汲街道のある道標
「高札場」は東町にあり、高さ一丈三尺八寸(約4.2m)あったと言われています。
宿場の中心で「四ツ辻」と呼ばれる交差点にあり |
辻の向かいに「矢橋家」が昔ながらの重厚な姿で建っています。
ここで、谷汲巡礼街道で谷汲山華厳寺へ道草をします。
谷汲巡礼街道 谷汲道はこの四ツ辻から北へ池田町市橋〜池田町池野で近鉄養老線を横断し〜池田町杉野の三町大橋あたりで揖斐川を渡り〜揖斐川町三輪〜谷汲村深坂を経て谷汲山華厳寺へ延びています。 |
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昔の人はエライ! 「西国三十三カ所霊場巡り」の満願札所である谷汲山華厳寺(揖斐川町谷汲徳積)に向かう約28kmの街道。 ここ中山道赤坂宿(大垣市)から現在の池田町を北上し、 揖斐川本流を渡船で渡り、揖斐川町に入った後、華厳寺に至る道程です。 通説では、巡礼風習が定着したと される室町時代から街道が栄え始めたとされています。 シルバー@も歩いてみたいと思いましたが、途中の峠付近の道が整備されていないので、思案中です |
訪れた時は54年ぶりのご本尊の御開帳の時でした。
谷汲山華厳寺 (54年ぶりの御開帳) 揖斐川町谷汲徳積 |
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平成21年3月54年ぶりにご本尊の御開帳 揖斐川町谷汲徳積の華厳寺で1日、本尊の十一面観音像を直接見ることができる「ご開帳」が始まり、好天と日曜日が重なり約2万人の参拝者(谷汲観光協会調べ)でにぎわった。 54年ぶりとなるご開帳は14日まで。 谷汲山華厳寺は「西国三十三所」霊場巡りの終着点で、満願の寺として知られる。 |
参拝客で満員 本堂にある十一面観音は、奥州会津に送られる途中、この地で動かなくなったという伝承があり、高さ約7尺(215センチ)の大きなもの。 姿勢を低くして下から覗き込むようにしても、お顔はハッキリと拝めませんでした。 御本尊につながっている紐に触ろうと群がって大変でした。 |
精進落としの鯉 この鯉は「精進落としの鯉」と呼ばれていて、かつての巡礼者達は西国三十三ヶ所巡礼を精進料理で禁欲生活を強いられ、満願をむかえ華厳寺に到達するも、参道の両側に美味しい匂いを漂わせるご馳走に堪らず、満願のお参りをする前に、この鯉に触れることにより精進生活から開放され、先にご馳走にあり付く事が出来たそうです。 |
谷汲山華厳寺から谷汲巡礼街道を戻り赤坂宿四ツ辻まで来ます。
「問屋場」は東町に二ケ所、羽根町に一ケ所の三ケ所ありました。 |
赤坂四ツ辻を北へ入り230mほどの左に赤坂公園があり、その奥に八重垣神社があります。
八重垣神社 大垣市赤坂町3334 |
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大蛇に追われた虚空蔵さま |
赤坂公園から40mほど北に子育て呑龍大師と馬頭観音石仏があります。
子育て呑龍大士と 大垣市赤坂町3334 |
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浄土宗天清院 子育て呑龍さん「呑龍大士」は群馬の高僧で、貧困で苦しむ農家の子供達を引き取って育てるなどをされていた。 明治15年に当時の住職が「呑龍大士」の像を勧請したのがきっかけで育児や健康、安産祈願のお寺とされている。 堂内には寄進された沢山の提灯が提げられています。 |
馬頭観音 かっては赤坂宿の西はずれにあり、宿役人が支配していた。 その裏手に馬捨場があり、宿継ぎ伝馬の制に働いた人馬の霊を弔ったと言われています |
同じ境内に立派な仁王門観音堂がある。 |
呑龍大師堂から北へ50mほどの西に石引神社があります。
石引神社 大垣市赤坂町 |
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桑名の「石取り祭り」との因縁 |
石引神社から四ツ辻まで戻り、そのまま南へ進むと「お茶屋屋敷」、「安楽寺」、「御勝山陣跡」があります
赤坂宿 大垣市赤坂町 |
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御茶屋敷(おちゃやしき)は将軍上洛の際の休泊設備で、
徳川家康が、慶長九年(1604年)に開運の地である「勝山」の北に設けました
史跡「お茶屋敷跡」 「お茶屋敷跡」は中山道の道中四里毎に造営され 現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことができる |
建物は全部で六十二 本丸のほかに六十二あったという建物は、現在は残っていないが、 城郭建築様式により周囲に土塁・空壕などの遺構が竹薮で囲まれ残されたいます。 |
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周りを空壕で囲み土塁を設け、城郭と同じ構えとなっていました |
将軍の休泊所 |
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お茶屋敷「御殿跡」 ここはかって織田信長が岐阜城に新築した千畳敷御殿を |
お茶屋敷「大手門」跡 ここは同屋敷の正面入口「大手門」の跡です。 |
屋敷の外は「矢橋家」屋敷でNHKtvにも出た |
中学校建設のため土地を提供 |
跡は「矢橋家」の大理石工場が延々と続きます。 |
そのほかには「矢橋家」一族の屋敷が巡っています |
勝山の中腹にある「聖徳太子」建立のお寺「安楽寺」
安楽寺 大垣市赤坂町 |
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「聖徳太子」建立の由緒ある寺 |
三つ葉葵 |
「家康」寄進の梵鐘 応永六年(1619年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と記されている古鐘で、品格がが退化しているといわれる |
「おかやま」(岡山)から「おかちやま」(御勝山)
宿場の「四ツ辻」から南に約500mにある丘で、「徳川家康」が関ヶ原合戦で最初に本陣を置いた所で有名になりました。
名前も「岡山」から「勝山」と変え地元では「お勝山」と呼んでいます。
御勝山 大垣市赤坂町 |
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高さ53mの小さな丘ですが、上からの展望と大垣城を威圧するための本陣として最適な場所です。
山の半分は「安楽寺」の墓地であるため、お墓がびっしりと並んでいます。 |
関ヶ原合戦の緒戦で戦死した「久世友輔」の墓も「おかち山の墓地」にあります。 |
赤穂城無血開城の貢献者「戸田権左衛門」
この他、「安楽寺」の境内から裏の「御勝山」にかけて、古い石像供養塔も残り
赤穂事件で大垣藩正使として赤穂城を無血開城に導いた家老「戸田権左衛門」はじめ、
幕末の志士たちの墓など、数多くの歴史にまつわる物語や人物の遺構が残っています。
「安楽寺」境内から上ると墓地の真ん中を登っていきます。
この山は「壬申の乱」の時も重要な場所になりました |
「壬申の乱」の碑や塚も残されています。 |
史跡 関ヶ原岡山陣跡 この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年) またこの山は、聖徳太子の創建と伝えられる「安楽寺領」であり、 |
「岡山の陣」 |
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大垣の敵をおびき出すには最適の場所を家康の家臣は選び家康を迎えたようです。 |
「杭瀬川の戦い」の模様 |
家康の馬印とのぼり旗 |
第二次世界大戦では高射砲陣地も置かれその記念碑もあります |
四ツ辻へ戻り中山道を西へ90mほどの南側に脇本陣跡の榎屋旅館があります。
「旅籠」は中九軒、小八軒の十七軒を数え、京枡屋、松屋、藤屋、大増屋などがあったそうです
赤坂宿脇本陣跡 赤坂子安町 |
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脇本陣は155坪の平屋建の書院造りの座敷は今も以前のままで上段の間も残されています。
今は旅館「榎屋」に変わっています。 |
「赤坂宿脇本陣」 当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り、脇本陣を勤め、又問屋、年寄役を兼務して |
脇本陣から西へ30mほどに「妙法寺」があります。
宿場の中の街道は緩やかな坂になって西へ登っています。
戸田三弥と所郁太郎の墓のある 大垣市赤坂子安町 |
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大垣藩家老の家に生まれた戸田三弥と赤坂宿出身の幕末の蘭医学志士所郁太郎の墓がある |
赤坂出身の幕末の蘭医学志士 |
大垣藩家老の家に生まれ
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赤坂宿お嫁入り普請 大垣市赤坂子安町 海抜 26m |
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お嫁入り普請探訪館 |
「お嫁入り普請探訪館の紹介」案内板 なお、見学を希望される方は、折戸(0584-712832または090-8077-7023)までご連絡ください。 |
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皇女和宮降嫁 文久元年(1861 明治維新の6年前)公武合体の政略結婚のため皇女和宮の東下にあたり、赤坂宿に大行列の一行が 宿泊したため、この宿場だけで特別に新築された家54軒は「お嫁入り普請」とよばれ、平屋では見栄えが悪いので一見2階建て のような造りにした家を建てたようです。その後改造はされているようですが2〜3軒残っています。 |
中山道を西へ向かい、中山道「赤坂宿-2」へ進みます。
街道コラム
【宿場と情報伝達】 宿場は情報伝達の場でもあった。近代的な通信機関のない江戸時代は飛脚による手紙か馬子や往来人、行商人などの口伝が通信手段で、宿場から田舎の村々へも届いた。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。