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中山道六十九次のうち五十七宿目で中山道美濃十六宿の十三番目の宿「赤坂宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十七宿

岐阜県大垣市

美濃国

近鉄養老線東赤坂駅下車

「赤坂宿ー2」巻は、八王子神社、正安寺、大垣藩の幕末の志士所郁太郎の生誕地、赤坂宿場西の御使者場跡の「兜塚」、
安産の「子安神社、平将門の首がある「御首神社」(みくびじんじゃ)、昼飯(ひるい)大塚古墳、二ツ塚古墳、車塚古墳、
鉄砲塚古墳群、長塚古墳、高塚古墳、平将門の矢が通った矢剣神社、昼飯(ひるい)の如来寺、安産の神「子安神社」、
昼飯(ひるい)の「如来寺」などをGPS位置情報と共に、ご案内します。

       

続けて「赤坂宿」を巡りましょう

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
赤坂宿お嫁入り普請JR東海道線昼食ガードまでの1,560mを案内します

もう少し奥へ進むと奥まったところにある神社

八王子神社

大垣市赤坂子安町

北緯

35

23

12.9

東経

136

34

55.7

八王子神社と谷汲山の御分身とが隣り合ってお祭りしてあります。

 

正安寺

大垣市赤坂町

縁起調査中

左rに西へ進むと幕末の志士「所郁太郎」の生家跡がありま。

幕末の志士
所郁太郎生誕地

赤坂子安町

北緯

35

23

12.9

東経

136

34

55.5

所郁太郎
赤坂宿出身の幕末の蘭医学志士で天保九年(1838年)に赤坂宿の酒造家「矢橋亦一の四男
として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町西方の医師「所伊織」の養子となった。
その後、勤王の志を胸に国事に奔走し長州藩遊撃隊参謀となりました。
井上多聞(後の元老井上肇)が刺客に襲われ、重傷を負うと外科手術を施し一命を救いました。
元治二年(1865年)山口市吉敷の陣営において二十八歳の若さで病没しました。

その横の路地を山手の方へ入ると子安神社があります

子安神社
秋葉神社

大垣市赤坂町

北緯

35

23

15.7

東経

136

34

53.8

応神天皇と神功皇后をお祀利する神社

四代将軍家綱が誕生した以来、安産祈願で有名です
近郷では子授けとして信仰がある「跨ぎ石」伝説など有名です。

隣には「秋葉神社があります

子安神社と秋葉神社の間の道を約1230mほど山へ進むと金生山明星寺へ来ます。
途中に金生神社境内に金生山化石館と神輿曳ヤマ保存館があります。

金生山明星輪寺

大垣市赤坂町

北緯

35

23

51.6

東経

136

34

53.7

日本三大虚空蔵の一つ
本尊は虚空蔵菩薩、朱鳥元年(686年)、持統天皇の命で役小角(えんのおずぬ=役行者)が開基したと伝えられる「明星輪寺」や無数の奇岩怪石画群立した「岩巣公園」があり化石でも有名です。
日本三大虚空蔵
一、伊勢の朝熊山(あさまやま)の朝虚空蔵
一、京都の嵯峨野(さがの)の昼虚空蔵  
一、美濃赤坂の宵虚空蔵

                             由来
           金生山明星輪寺

 持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686年)円の小角の創立にかかり七堂伽藍をはじめ一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す このとき恒武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。
 久安四年雷火の為に伽藍残らずに焼失したが時の住僧は八方に手を尽くし復興を図って本堂その他諸堂は再建されたが、塔は再建出来なかった その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建された。
 江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護す。
                  (現地説明板より)

       岐阜県指定天然記念物
    金生山の陸貝と生息地

 陸貝とは、陸生の貝類のことであり、殻を作るために多くのカルシウムを必要とすることから、良質の石灰岩で形成されている金生山は日本屈指の生息地となっています。
 陸貝は、非常に行動範囲が狭いため、その地域固有の種が群生し、金生山においても、クロダアツクチムシオイやオルサトギセルのような他所では発見されていないものも含め、ミカドギセル、イブキゴマガイなど約40種類が確認されたいる。
           (大垣教育委員会)
     国指定重要文化財 木造地蔵菩薩像と碑石
 この仏像は、檜材の寄木造で、平安時代の作と思われ、かっては、彩色が施されていた。
 岩の上に蓮華座を重ねた四重座人腰をおろし右足を曲げ、左足を下げて蓮華を踏む姿は、地蔵菩薩像としてはきわめて珍しい。
 また碑石は、金生山産の石灰岩で造られており、碑石上部に大きく「如法経」、その下部に「久安・二二年」(1148)と二行に小さな文字が薬研彫りで刻まれている。
 久安・二二年とあるのは、四(死)を忌んだもんと思われる。
 本来は、明星輪寺境内のいずれかにあった経塚の上に建てられていたと推測されている
                    (大垣教育委員会)
                  大垣指定重要文化財明星輪寺本堂
 この本堂は、文久三年(1863)に大垣藩十代藩主戸田氏彬によって再建されたものであり、日本三大虚空蔵の一つである本尊の虚空蔵菩薩が安置されていることから「虚空蔵堂」とも呼ばれています。
 正面は入母屋造りで、唐破風の向拝(ごはい)が付けられ、背面は切妻で、本尊が祀られている岩窟を覆う屋根が続いています。
 また、本堂の棟札には「慶長十四年(1609)高須藩主徳永寿昌再建」「明暦二年(1656)大垣藩主戸田氏信再建」と記されており、本堂再建の歴史をうかがうことができます。
                           (大垣教育委員会)
本堂奥の奥の院は岩屋の奥にあり神秘的です。

本堂脇からの眺めは素晴らしい!

            大垣市指定名勝 金生山岩巣公園
 岩巣公園は、大自然の巧みな造形によるカルスト台地の縮小版として、無数の奇岩・怪石が群立した自然公園です。
 古生代ペルム紀に造成された石灰岩層の露出面が、長期におよぶ自然風化の妙味を如実に物語っています。
 また、岩間にはクモノスシダやヒトリシズカをはじめ、ビワ、ハギ、桜、ナンテンなど、多くの草木類が密生し、濃尾平野の眺望に趣を添えます。          (大垣教育委員会)

江戸の宿場の町名の多くは「東町」「仲町」「西町」です

赤坂宿東町 西町

大垣市赤坂町

昔からの町名で「西町発展会」

この赤坂宿から南の大垣市荒尾地区に平将門の首を祭った御首神社(みくび)があります。

御首神社

大垣市荒尾

北緯

35

22

12.0

東経

136

35

07.8

以前は寂れた神社でしたが、誰言うとなく「進学の神様」となり社殿も立派になり参拝者が絶えません

特に入学試験のある時期は遠くからの参拝者が目立ちます。

 今から約千年前 平将門は時の朝廷の政策に憤りを覚え乱(天慶の乱)を起こしました。
 しかし藤原秀郷 平貞盛等に鎮められ将門は 捕えられ首を討たれたその首は京都に送られさらし首となったが 故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立ちました。
 この異変を知り 美濃の国「南宮神社」では 将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ 神社に座す「隼人神」が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落としました。

 その時 「隼人神」の射た「神矢」が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして 現在の「大垣市矢道町」がある この首が落ちた「荒尾の地」に将門公を神として崇め祀ることによって 再びその首が関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが「御首神社」であると伝えられています。

 

「みくびさま」の謂れによる「南宮大社」と矢が飛んでいった道の「矢道町」と
「平将門」の首が落ちたとされる「御首神社」の位置関係

   

こうした「平将門」にまつわる言い伝えは全国に5箇所くらいあります。
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/masakado2.html
をクリックしてください。
その他の四ケ所が紹介されています。

赤坂宿の西の出口に当たる「赤坂御使者場跡」があります
(御使者場とは大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所で
赤坂宿には宿の東口と西口にあります。)

古墳の上にある兜塚
赤坂宿西口御使者場跡

大垣市赤坂町   海抜  33m

北緯

35

23

09.

東経

136

34

44.

宿場西の「赤坂宿御使者場跡」は古墳にあり「兜塚」とも言われています。

兜塚
兜塚は古墳の上にある塚ですが中山道の「御使者場跡」でもあります。
(御使者場とは大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所)
兜塚の由来は「関ケ原合戦」の前哨戦「杭瀬川の戦い」を参照して下さい。

                      「兜塚」
 「兜塚」の由来は関ヶ原決戦の前日の「杭瀬川の戦い」で戦死した東軍の武将「野一色頼母」を葬り、その兜を埋めためと言われています。
 以来この古墳は「兜塚」と呼ばれています。      (大垣市教育委員会)

赤坂宿には多くの古墳が点在します

赤坂宿古墳群図
大きな「大塚古墳」「粉糠(こぬか)古墳」や小規模の「二ツ塚古墳」「車塚古墳」
「鉄砲塚古墳群」「長塚古墳」
と標識だけの「高塚古墳」などがあります。

大塚古墳は中山道を歩いていると町並みの間から見える大きな古墳です

昼飯大塚古墳

大垣市昼飯(ひるい)町

北緯

35

23

03.2

東経

136

34

26.2

古墳の宝庫
「昼飯」(ひるい)から「青墓」、さらには「垂井」にかけては古墳の宝庫で中山道沿線にも多くの古墳が存在します。
中でも「昼飯」「大塚古墳」は岐阜県内でも最大規模で、長さ150m、後円部直径約96m、前方部の長さ約50m
に及ぶ「前方後円墳」です。

   

車塚古墳の位置は矢印の位置の西の車塚公園内です

道に迷って偶然見つけた古墳です。

二ツ塚古墳

大垣市昼飯(ひるい)町

北緯

35

23

04.6

東経

136

34

34.6

大塚1、2号墳の2基の小古墳があり、合わせて二ツ塚古墳と呼んでいます。

大垣総合庁舎の正面の南道を南へ30mほど入ったと所にあります。

車塚古墳

大垣市昼飯町3区

北緯

35

22

54.2

東経

136

34

35.9

墳丘はほとんど残っていませんが、石灰岩で築かれた横穴式石室が露出しています。
訪れたときは発掘調査中でした。

元日に金の鶏が鳴く車塚古墳
この古墳は、早くから墳丘の崩れが大きいため、墳形も不明ですが横穴式石室の天井石が露出しています。
石室は、長さ8,2m、巾3,3mで南北方向に整然と並び・・・・(一部判読できず)
明治年間に発掘調査時の出土品は東京国立博物館に保管されています。
昼飯の南にあって、昔から七ツ塚のうちといわれ延元二年(1337)青野ケ原合戦のおり、
戦死した将兵をこの塚に葬ったと伝えられています。
また、この塚には金の鶏が元日の朝来て鳴くという伝説も伝わっています。(大垣市教育委員会)

大垣市昼飯町、東海道本線西側の矢橋林業西側一帯に分布する古墳群です。

鉄砲塚古墳群

大垣市昼飯町

北緯

35

22

36.9

東経

136

34

19.4

 、弥生中期の集落跡である東町田遺跡と範囲がほぼ一致します。工場西端の敷地内に小型の墳丘が1基、その西50mに、低いマウンドが1基、その南西200mの道路沿いの林の中に大きな円墳1、小円墳数基が残っています。林の中の古墳に1〜3号墳の名称がつけられています。

大垣市矢道町の田圃の中に残されています。

長塚古墳

大垣市矢道町一丁目

北緯

35

22

10.9

東経

136

33

34.2

長塚古墳
上図の左端にある「長塚古墳」は「矢劔神社」脇の道を西へ100m程の南側にあります。

以前訪れた時より荒れて全体像がつかめません
三角縁神獣鏡など六面が出土した長塚古墳
この古墳は、四世紀後半頃に築造された前方後円墳で、規模は墳長87m、後円部径65×53m
前方部巾44m、高さは現況で2.7m、くびれ部巾32mである。
昭和4年の調査で出土した主な副葬品は、三角縁神獣鏡をはじめとする鏡六面、鍬形石、石剣など石製品、
銅鐸などで現在東京国立博物館に収蔵されている。なかでも石剣の数は、
現在のところ奈良・櫛山古墳に次ぐものとして知られている。(大垣市教育委員会)

無残 
四世紀後半の全長87mの前方後円墳で、左右で周濠の形が違う珍しい構造です。
墳丘はかなり削られており。後円部は主体部だけが円墳のように独立して残されています。

大正時代に土取りのため消滅した古墳「高塚古墳」

高塚古墳

大垣市矢道町二丁目

北緯

35

22

12.9

東経

136

33

29.6

古墳は土取りされ田圃に
長塚古墳のそばにありましたが、大正時代に土取りのために消滅し、現在は石碑だけが建っています。
五世紀前半の全長70m以上の前方後円墳で、主体部は竪穴式石室でした

長塚古墳の東300mほどのところに平将門に関係のある矢劔神社があります。

矢劔神社

大垣市矢道町二丁目

北緯

35

23

13.9

東経

136

33

47.0

平将門の首級を射落とした矢の通った道の地名の由来
創建は明らかでないが、既に千年前「正三位矢剣大明神」と美濃国神明帳に見え例年国司奉幣の御神徳高い古社である。
古伝に由れば遠く天応年間の平将門(たいらのまさかど)の乱に、その首級怨霊となって虚空を京に西上せんとするのを
南宮大神が神矢を放ってこれを御首社に射落とされ、この時通る矢に矢剣大明神と更に神威を憑(よ)せられた故(ゆえん)
を以って以来この地を矢道と呼ばれるに到ったと伝えられる。(現地説明板より)

「昼飯」(ひるい)の由来

昼飯如来寺

大垣市昼飯(ひるい)町

北緯

35

23

04.7

東経

136

34

13.5

如来寺の由来
善光寺如来が難波より信州へ向う途中、昼飯の供養をした、関係から建久五年に、
僧の定尊が村東の花崗岩の上に、三尊仏を安置し、名を如来寺といいました。
後年織田信長の兵火にあい当地二移り秘仏となりました。
また御本尊の開帳は八年目毎におこなわれます。

御本尊は善光寺の分身としては日本最初ですから時に一体分身の如来といい、
現在は大垣市重要文化財の指定を受けています。

昼飯町の由来
みかし、善光寺如来と言う仏像が大坂の海から拾い上げられ、長野の善光寺へ納められることになりました。
その仏像を運ぶ人々が青墓の近くまで来た時は五月に中頃でした。
近くの山々は新緑におおわれつつじの花が咲き乱れ、巣張りしい風景です。
善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池の傍で、ゆっくり素晴らしい風景に見とれました。
一行は、ここで昼飯(ひるめし)をとりました。
それから、この付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりましたが、その名が下品であると言うので、
その後飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが、
「いい」は言いにくいので、「ひるいい」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と云われ記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと言うことです。

大垣市指定重要文化財
善光寺式阿弥陀三尊仏
当寺の本尊は長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから、善光寺式阿弥陀三尊仏と呼ばれています。
この仏像は鎌倉時代の柵と伝えられ、法身は中央の阿弥陀如来像が49cm、脇侍の「観音菩薩像」と「勢至(せいし)菩薩像」
が共に33cmと三体の均整が取れた作風です。
また、三尊が一つの光背に納まっている一光三尊仏であり、
善光寺の分身物にふさわしい浄土来迎を思わせる紋様も彫刻されています。

昼飯の街道

中山道は「東海道本線」のガード下をくぐると青墓へ入ります。

JR東海道線下りガード

大垣市昼飯(ひるい)町

北緯

35

23

00.9

東経

136

34

10.3

JR東海道本線下りのガード
JR東海道は「大垣駅」と「関ヶ原駅」間は上り線と下り線は
別ルートを走っています。

青墓の里は旧跡の多い街道です。

蒸気機関車時代の名残
蒸気機関車の力が弱く関ヶ原までの急勾配を上がれないので垂井区間は2ルート。
今では下りの一部の列車を通すための線路となっています。

次のページは青墓の「源朝長の墓」、「大炊家の墓」、「旧円興寺跡」などをご案内します。

街道コラム

【宿人馬と助郷人馬】

宿人馬
 宿場が一日に提供すべき義務のある人足や馬のことで、御定人馬・定立人馬・常置人馬・常備人馬・宿駅人馬などの多くの名称が付けらている。 宿人馬数は幕府が定め、時代により二十五人・二十五疋・や五十人・五十疋と異なるが、普通「東海道百人百疋・中山道五十人五十疋」といいました。

囲人馬
 予定にない公用荷客が来宿したときのために、宿場には常備準備する宿人馬のことで、其の数は宿によって異なり、ない宿もあるが、三〜六疋が多く、坂本宿のように十人十疋野宿もあった。

助郷人馬
 宿人馬では不足する場合、それを補充するための人馬である。幕府は中山道では宿場の近村で約一万石ほどの村を指定して、宿場継立業務を援助させたが、この村を助郷村といい、其の人足や馬を助郷人馬といった。 

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。