赤坂宿から昼飯(ひるい)を通り、照手姫や盗賊熊坂長範、平治の乱で傷を負って、ここまで逃れたが
亡くなった源頼朝の兄朝長の墓などがある青野を通り垂井宿へ向かいます。

六十九次
のうち
五十七宿

岐阜県大垣市

美濃国

近鉄養老線東赤坂駅下車

「源朝長の墓」巻は、「旧円興寺跡」と「源朝長之墓」、「旧円興寺仁王門跡」、「源朝長墓参」の「芭蕉句碑」、「刀石」、
「史跡源朝長墓」、「大炊家の墓」、大きくないのに「灌頂大橋」(がんしょうおおはし)、「現円興寺」と国指定「木造聖観世音立像」、
青墓宿の遊女が捨てた粉糠が小山となった「粉糠山古墳」、お取つぶしになった青野城の大門を移築し「延長寺」の山門、
「昼飯(ひるい)と青墓の民家」、「青墓のよしたけあんと円願寺跡」、「照手姫水汲みの井戸」、
安八郡安八町町屋結(むすぶ)にある照手姫伝説と結神社と町屋観音堂などを
GPS位置情報
と共に、ご案内します。

       

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
JR東海道線昼食ガード県道216号線横断までの
900m
を案内します

東海道本線下り線昼飯ガード手前を北へ曲がって1.5kmほど進みます。

JR東海道線下りガード

大垣市昼飯(ひるい)町

北緯

35

23

00.9

東経

136

34

10.3

JR東海道本線下りのガード
JR東海道は「大垣駅」と「関ヶ原駅」間は上り線と下り線は
別ルートを走っています。

 

青墓5丁目追分

北緯

35

23

21.0

東経

136

34

07.2

県道214号線の途中に現「円興寺」への道標があります。左に進みます。
(大垣市青墓町4丁目(左)3丁目(右)の境)

 

源朝長(ともなが)之墓
道標

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

24.7

東経

136

33

50.0

源朝長(みなもとのともなが)は源頼朝・義経のです

さらに北へ進むと道標があります
「史跡 源朝長之墓 是より右へ五丁」

その脇に古い道標があります
左円興寺 右朝長公御墓

Y字型の道を右へ

「源朝長之墓」と「旧興寺跡」の
表参道

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

35.5

東経

136

33

43.6

表参道入り口には駐車場やトイレも整備されています。

案内板もあります。
道は多少複雑ですのでメモして登ったほうが
いいと思います

 

この案内板は裏参道のものです

 

裏参道登り口

大垣市青墓町

北緯

35

23

45.2

東経

136

33

38.1

表参道からさらに数百メートル北へ進むと「裏参道」口があります。
距離的には裏参道が短いのですが、うっそうとした山道は気味が悪いので表参道を登りました。

表参道を入ると道幅は広くて車でもいけそうですが、此れは上流で「防災ダム」工事用の道で途中駐車場は無いので
車は駐車場へ置いて登られることを勧めます。

数百メートル進むといよいよ石段の登り路です

また数百メートル進むと広場へ出ます

仁王門跡と推定される場所まで10分くらいです。
この付近には他に句碑などもあります

興寺仁王門跡

大垣市青墓町

北緯

35

23

44.0

東経

136

33

56.1

仁王門跡推定地
この地は、創建当時の円興寺仁王門の
立てられていた場所と推定されます。

金剛力士像とは本来金剛杵を持った夜叉の像が
二体並んで寺門を守るので二王(仁王)と呼ばれます。

右を那羅延金剛、左を蜜述金剛と呼ぶこともあるが、
本来は蜜述金剛で、蜜述とは仏に近侍して
秘密の奇跡を知ると言う意味です。

朝長之墓にお参りした松尾芭蕉の句碑

大垣市青墓町

正徳二年(1712)刊 京都萬屋喜兵衛版
「花の市」寸木撰に所載
美濃の里朝長の墓にて

苔埋む蔦のうつヽの念仏哉

俳聖松尾芭蕉の身の来遊は、貞享・元禄難関前後
四回に及び、そのつど大垣を訪れ、
谷九太夫を始め多くの門弟友人と信仰を深めた。
その際芭蕉がここ円興寺山の
源朝長之墓に詣で詠んだ句です。

仁王門跡からさらに数百メートル登ると道標があります

道標から数メートルのところに「刀石」があります

刀石

源朝長公の墓へお参りするとき礼儀として帯刀を一時預けておくためのもので「刀石」と呼ばれています

刀石の脇にお墓があります

史跡 
源朝長
(ともなが)

大垣市青墓町

北緯

35

23

48.5

東経

136

33

00.8

源朝長は源頼朝、義経の兄
源朝長(ともなが)は源義朝の次男で頼朝、義経の兄にあたります。
父源義朝は知多半島の家来の家までたどり着き、受け来に裏切られ風呂に入っているときに討たれました。
その後、頼朝は捕らえられ伊豆へ流され、幼少のため義経は鞍馬寺へ預けられました
将軍献上の長良川の鮎鮨と源頼朝
この地から逃れる頼朝は途中長良川の漁師の家へ宿を請い、鮎鮨を食べました。
その後鎌倉幕府の将軍になった頼朝は美濃長良川の鮎鮨を鎌倉まで献上させて食べました。
家康も献上させる
江戸幕府の将軍になった徳川家康も頼朝の故事にならい代々江戸まで鮎鮨を献上させました。

源氏の系図(源義家から四代までの抜粋)

「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。

┬ 義朝────┬義平(母は三浦義明娘とも京都橋本の遊女とも。平治の乱後に捕らわれ斬首) 
│                    │ 
├義賢──┐   ├朝長(母は波多野義通の妹。平治の乱後に自害)        
│             │    │                                                                                                  
├義憲(義廣)   ├頼朝(母は熱田神宮大宮司藤原季範の三女・由良御前)
│             │    │                                                                                                   
├頼賢   │    ├義門(頼朝と同母?・平治の乱後に戦死?)                            
│             │    │                                                                                                   
├頼仲   │    ├希義(頼朝と同母?・土佐で戦死)─希望(土佐吉良氏の祖)  
│             │    │                                                                                                  
├為宗   │   ├範頼(母は近江池田の遊女)─範円─為頼─義春─義世    
│             │    │                                                                                             
├為成   │    ├阿野全成(母は常盤)─時元                                                
│             │    │                                                                                                             
├為朝    │    ├義圓(母は常盤。墨俣川の合戦で討死)                                                          
│             │    │             
├為仲     │    └義経(母は常盤。平泉高舘で自害)
│          │
└行家     ├──仲家(義賢が殺された時は在京し頼政の養子となる。後に宇治川で平家と戦い討死)
                │
               └──義仲(母は義賢の側室・小枝御前)─義高(母は山吹御前・巴御前説もあり)  │       

源朝長の墓
「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の一行(8人)は、
平治元年(1159年)十二月二十七日 京都から逃れ、
美濃国における源氏の拠点、東山道青墓宿にたどり着きました。

義朝の次男「朝長」は落延びる途中、僧兵に襲われて足に傷を負い、
この地で進退窮まり自害して果てました

その後、壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼし、父義朝の敵を討った
三男頼朝は、兄朝長の菩提を弔うため、この地を訪れています。

源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。

大炊家之墓

大炊家の墓
大炊(おおい)氏は、「壬申(じんしん)の乱」で活躍した多臣品治
(おおのおみはむじ)の孫で、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)
の地である美濃国の多(おおい)地方(後世東大寺領になる頃には大井荘とよばれた)の荘官(しょうかん)でしたが、この青墓の地に移り住み、
姓を「大炊」と改めのが始まりであると伝えたれます。

平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の
娘「延寿」は源義朝の側室となり息子達も源義朝や義平に仕えるなど
源氏の家臣であり、外戚でもありました。

「旧円興寺跡」へ行く予定で展望台へ出てしまいました

興寺跡

大垣市青墓町

「円興寺」は信長により焼かれました

延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
この山に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。

その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領五千俵と伝えられています。

天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)に麓に移して立てられました。

(途中、地図を読み間違い旧円興寺跡にはいけませんでした)

元円興寺跡(現円興寺は麓に再建されています)

 延暦九年(790年)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて
山頂付近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を
創建されたと伝えられます。

 当時は、坊舎末寺など、百余ケ寺、寺領五千俵を領し、山麓一帯は多数の
仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われます。

 天正二年(1574年)織田信長の兵火に罹り、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、
慶長元年(1596年)田之堂(ふもとの現在地)に本堂と五坊とが再建されました。

 しかし、承応元年(1652年)雷火によって再び焼失した際に、
この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(1658年)偏在の円興寺が
この山の麓西に建立されました。

 

この間にわき道を辿ると鐘楼跡、御堂跡(本堂)、講堂跡、僧房跡、金堂跡、多宝塔跡などがありますが
一人で心細く、寄れませんでしたので画像はありません。

展望台

 

麓へ下りて現「円興寺」へ行く途中にある小さな橋ですが名前は「大橋」

灌頂大橋
(がんしょうおおはし)

大垣市青墓町

北緯

35

23

41.0

東経

136

33

34.5

このあたりは「大垣市青墓町5丁目」

「がんしょう橋」の由来がありましたが意味がよく分からない由来でしたが、
地元の早野様のご説明では「がんじょう」とは”仏門に帰依する行事で(聖水をそそぐ)”という
いみだそうです。

「がんしょう橋」を渡るとすぐに「円興寺」が見えてきます。

「圓興寺」

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

44.4

東経

136

33

32.4

天台宗篠尾山圓興寺

山頂の「圓興寺」は信長により焼かれました

延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
山頂に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。

その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領五千俵と伝えられています。

天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)にこの地に移して立てられました。

国指定重要文化財「木造聖観音立像」
この仏様は、寺伝によると伝教大師が円興寺のご本尊として自ら刻まれたと伝えられます。
像高140cで檜の一本から彫りだした一木彫成像です。
顔や体にぐっと張り詰めた緊張感がみなぎり、また衣文にあらわれた波線の切れ味は鋭いうちにも温容をあらわした平安前期貞観彫刻の典型です。
像面は茶褐色の木地をあらわしているがもとは彩色であったものと思われます。
県内にある貞観彫刻のうちでも最も優れた像といわれています。

木造観世音立像

難を逃れた観世音菩薩像

山頂にあったあった「旧円興寺」が天正二年(1574)織田信長により焼かれましたが
本尊の観音像は難を逃れ
万治元年(1658)にこの地に移して「円興寺」が立てられ祀られました。

国指定重要文化財
「木像聖観音立像」


  この仏像は、延暦九年(790年)伝教大師最澄が
円興寺を建立するにあたり、その本尊とするため
自ら造像したものと伝えられます。

 像身は檜材の一本彫で、等身の像を上回る
彫刻的な大きさがあり、実物大以上の量感と高度な
緊張感にあふれ、彩色の面影が残ります。

 また、頭部の形成、幅広い天冠台、翻波(ほんぱ)式の
衣文(いもん)は平安時代の弘仁(こうにん)・貞観
(じょうかん)期の特色があり、
その表現は穏やかで肉付けも控えめです。

大楠

境内を覆う大きな「楠」

元の「中山道」へ戻って「東海道本線下り線」のガード(大垣市青墓町)をくぐって西へ。

 

ガードをくぐってすぐに北へ入る道があります。
この道を北へ進むと100m位で西側に「粉糠山古墳」が見えてきます

古墳の上にお墓
粉糠山古墳のほとんどが墓地になっています。
現在なら文化財保護違反になりそうですが古墳の上にお墓を作ってなぜ悪い!
と言うような理論が先行したのではないでしょうか

粉糠(こぬか)山古墳

大垣市青墓町1丁目  海抜  29m

北緯

35

23

02.

東経

136

34

01.

粉糠(こぬか)山古墳
粉糠山古墳は墳長100mで東海地方でも有数の規模を誇る「前方後墳」です。
4世紀の尾張から5世紀におけるこの地方の有力な豪族の墓と伝えられる
古墳時代を偲ぶ貴重な遺跡です。

大垣市指定史跡粉糠山古墳
青墓の「粉糠山古墳」は「前方後墳」としては東海地方で最大規模で、
長さ
100m、後方部一辺の長さ50m、前方部の幅は45mもあります。
(大垣市教育委員会)

大垣市指定史跡粉糠山古墳
粉糠山の由来
この塚はここ青墓の宿場が盛んな頃、
遊女達が朝夕の化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり重なって小山となったので、
「粉糠山」と呼ばれるようになった言う伝説があります。
(大垣市教育委員会)

 

青野城址の大門を移築の
延長寺
の山門

大垣市青墓町1丁目

北緯

35

22

56.2

東経

136

33

55.2

山門は青野城の大門を移築したもの

 

白髪神社

大垣市青墓町1丁目

北緯

35

22

56.2

東経

136

33

55.2

   

昼飯と青墓の民家

地域の名家でしょうが大きな家が多数見受けられます。

 

青墓よしたけあん
円願寺跡

大垣市青墓町2丁目

 

北緯

35

22

50.9

東経

136

33

45.4

落のびる「牛若」

平治の乱(1159年)で元治が敗れたあと、父「源の義朝」は知多半島で討たれ、兄「頼朝」ともは離ればなれになり、
隠れ住む鞍馬山も危うくなった「牛若丸」が、奥州の「金売り吉次」一行に隠れ「東山道」の当地 青墓で休息したたとき、
持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦、竹となれ」 
と読んだ場所と伝えられています。

青墓は美濃源氏の拠点
青墓は源氏の拠点で「平治の乱」後、源義朝一行も此処「青墓」で休息し落延びたといわれています。
また、義朝の次男「朝長」は途中「僧兵」に襲われて戦傷を負いながら青墓までたどり着いたあとに
十六歳で自刃しました。
その墓は「旧円興寺」にありましたが、現在は「円興寺」の南西にあり、地域の信仰を集めていると言われています。

牛若丸(源義経)の杖

「木曽路名所絵図」より
小篠竹(こざさたけ)の塚
青墓にみかし照手姫という遊女あり、 この墓なりぞ  照手姫は東海道藤沢にも出せりその頃両人ありし候や詳ならず

「よしたけあん」の向かい電柱の脇に小さな石碑があります

「照手姫水汲井戸」とあります

照手姫水汲井戸

大垣市青墓町2丁目

北緯

35

22

48.9

東経

136

3346.4

 

石碑を南へ100mほど進むと伝説の「井戸」が見えてきます

伝説「小栗判官と照手姫」
昔、武蔵・相模(むさし・さがみ)の郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいました。
「小栗判官正清」と相思相愛となりますが、判官は便代の家来に毒殺され、彼女は悲しんで放浪の末、
人さらい遭い、この地の青墓長者の元へ売られてきてした働きとしていじめ抜かれました。
一方、判官はその後霊泉につかり蘇生して、照手姫を探し出して妻に迎えたと言う伝説があります。

「伝説の井戸」

 伝説の井戸は、長者にいじめられ、カゴで水を汲めと無理難題を
 押し付けられ、十八町(約2km)も歩き、
風呂の水を満たした井戸と言われています。

小栗判官正清と照手姫伝説は藤沢市の「遊行寺」にもあります。
小栗判官の名前も内容も少し違いますが、昔 かなり有名な実話がいろいろ変えて伝わったと思われます。

小栗判官照手姫の伝説(藤沢遊行寺)

--------------------------------------------------------------------------------
遊行寺には長生(ちょうしょう)院があります。別名小栗堂とも呼ばれています。

長生院に伝わるこの伝説はとても有名です。

小栗判官満重(おぐりはんがんみつしげ)が足利持氏(1398-1439)に謀反を起こし、そのため持氏は兵を出して応永30年(1423)、
足利持氏は今の茨城県真壁郡にあった小栗城を攻め落としました。

城主の満重は、三河国(今の愛知県)にいる一族を頼って逃げる途中、藤沢の横山大膳(たいぜん)の館に泊りました。
盗賊の頭だった大膳は、満重を殺してしまい財宝を奪おうと、酒盛りを開きました。

酒には毒が入れてあり、これを飲んだ満重の家来10人は死んでしまいましたが、大善の遊女(ゆうじょ・今でいうと娼婦)である
照手姫からこの殺害計画のことを知った満重は飲んだフリをして一時仮死状態となりました。
その後、当時の遊行寺14代上人である大空(たいくう・または太空)によって満重は助けられました。

助けられた満重は遊行寺に一時逃げ、大空上人により紀州の熊野にある湯ノ峰温泉に密かに送りました。
そこで満重は体を全快させました。
満重は、のちに大空上人および照手姫の恩に報じて、横山一党を敗り、旧領をとりもどしました。

その後、謀反の疑いが晴れた満重は照手姫を妻として迎え幸福な生活を送りました。
満重が亡くなった後、照手姫は長生院に住み、終生尼となって満重の菩提を弔いながら余生を送ったそうです。

この伝説はいろいろな内容にかわっていき、話の筋も同じというわけではありません。
説教節や浄瑠璃の題材にもなり、これらの主人公も満重の子である小次郎(または子次郎)助重(すけしげ)とする
浄瑠璃などもあります。

また、遊行寺周辺や藤沢市内の東・西俣野、横浜市金沢区、神奈川県津久井郡相模湖町にも
小栗判官照手姫伝説に関する史跡や伝承が残っています。

 

浄瑠璃にもなった「照手姫井戸」
昔、武蔵・相模の郡代の娘で「照手姫」と言う絶世の
美人が居ました。
この姫と相思相愛の「小栗判官正清は郡代の家来に
毒酒を飲まされ殺されてしまいました。
「照手姫」は、深く悲しみ家を出て放浪して、
青墓の大炊長者のところでまで売られてきました。
長者は、その美貌で客をとらせようとしますが、
姫は拒み通しました。
怒った長者は一度に百等の馬に餌をやれとか、
篭で水を汲めとなどと無理な仕事を言いつけました。
一方毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、
「照手姫」が忘れられず、姫を探して
ついに見つけ妻に迎えました。
この井戸の跡は「照手姫」が篭で水を汲んだと
伝えられるところです。

美濃地方での「照手姫」伝説
(安八郡安八町町屋結)
鎌倉街道
 長良川畔の「墨俣町」から揖斐川畔の「町屋」までに「鎌倉街道」が残っています。
「鎌倉街道」は鎌倉時代、源頼朝が「鎌倉幕府」を開いた時に、鎌倉から京都まで整備した「官道」で、
さまざまな文化の行き交った道として歴史的にも貴重な街道です。

地名にも残る安八町結(むすぶ)
この「鎌倉街道」が通っている岐阜県安八郡安八町結(むすぶ)にも「照手姫」の伝説が残っています。

「小栗判官」と結ばれるよう祈願して結ばれたので「照手姫」が治めた
黄金仏が祭られている「町屋観音」「結神社」、地名も「結」(むすぶ)

町屋観音堂

町屋観音堂
 照手姫の護持仏と言われる黄金仏を頭上にいただく十一面観音は聖徳太子の頃の栴檀(せんだん)木の作です。
 その像を祀る観音堂です。

照手姫伝説
 慶永30年(1424年)小栗判官と結ばれたい照手姫はお告げにより、明神神社(結神社)へ願を掛けたところ願いが叶い守護仏を神社に納めました
 有為転変の末、平成の代に今の地にお堂が建てられました。

「観音堂」脇の案内板。
「鎌倉街道」など詳しい説明があり

結神社にまつわる照手姫(てるてひめ)伝説

 結神社には、相模(さがみ)国(現神奈川県)の郡代横山修理大夫の娘「照手姫」と常陸(ひたち)国(現茨城県)の
小栗判官小次郎助重(おぐりほうがんこじろうすけしげ)との愛と信仰にまつわるロマン伝説が残っています。

 今からおよそ560年前永享〜嘉吉年間(1429〜1444年)のころ、照手姫は故あって、結の地にとどまり、
姫の守り本尊(黄金仏)のお告げによって、結大明神(結神社)に7日間の願をかけました。

 その満願の日に、結大明神が照手姫の枕もとに立って、「よく守り本尊の指図に従って祈願した。

 それで、姫の願いを叶えてやりたいのだが、姫が持っている黄金の守り本尊は、わたくしに縁のある仏だから、
この結大明神に納めてくれれば、姫の願いを叶えてやろう」と告げて消え去られました。

 照手姫はなつかしい小栗判官さまに再会したいという願いが叶うならばと、願望の成就を喜んで黄金の
守り本尊を結大明神に献上して東国へ旅立ちました。

やがて、なつかしい小栗判官に再会することができたという伝説です。

鎌倉街道沿いに続く長い参道

照手姫が結ばれた「結神社」
 安八の「鎌倉街道」沿いの西結にある「結神社」(嘉応年間(11691171年)の創設。

 常陸国の小栗判官殿再会を願った相模国の照手姫が願をかけたところ、のちに結ばれたので「結神社」と言われるようになった伝説が残ることから、縁結びの神として信仰を集めています。

 境内には、側神像群、石狛犬、御手洗鉢、など町指定の文化財も数多くあります。
 このあたりの地名もこの神社から由来しています。

広い境内の奥に立派な本殿が

また、この地方に小栗判官にまつわる墨俣・生八幡(小栗の社)が掲載漏れですと
地元の早野様からご指摘がございましたので、近日掲載したいと思っています。

次の頁は「美濃国分寺跡」を紹介します

街道コラム

【美濃十六宿の成立】

当初の美濃十六宿
 当初、東から落合宿ーー中津川宿ーー大井宿ーー御嶽宿ーー(伏見宿)ーー土田宿ーー鵜沼宿ーー岐阜町ーー河渡宿ーー美江寺宿ーー赤坂宿ーー垂井宿ーー関ヶ原宿ーー今須宿で、大湫宿・細久手宿・大田宿・加納宿はなかった。

その後の美濃十六宿
 大湫宿は慶長は八・九年の十三峠改修に伴ない同十一年に、十五年に細久手宿が創設された。加納宿は寛永十一年(1634)にせいりつした。大田宿の成立は不明だが、慶安四年(1651)に鵜沼祝賀移転して新しい大田宿経由の中山道が成立した。そして元禄七年(1694)伏見宿が創設され、土田祝賀廃止になった(伏見宿は当初からあったという説もある)

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。