中山道六十九次のうち五十九宿目で中山道美濃十六宿の十五番目の宿「関ヶ原宿」をご案内します

六十九次
のうち
五十九宿

岐阜県不破郡関ヶ原町

美濃国

JR東海線関ヶ原駅下車

「関ヶ原宿」巻は宿場入り口の土塁、若山八幡宮、樋口家の「関ヶ原與市の宮」、江戸時代から続く旅籠「ます屋」、
予想される「関ヶ原一里塚跡」、関ヶ原一里塚跡、八幡神社になった「関ヶ原宿本陣跡」、門だけ残った「関ヶ原宿脇本陣」、
大蛇伝説の「十九女(つずら)池」、「伊勢街道、北国脇往還道標」、九里半街道、関ヶ原合戦場跡の「東首塚」の
徳川宗春霊廟だった合戦供養堂と霊廟山門、境内にある首洗い井戸、と松平忠吉・井伊直政陣跡、田中吉政陣跡、
家康最後の陣跡、関ヶ原合戦「決戦場跡」、岡山狼煙場跡、笹尾山の石田三成陣跡、「関ヶ原歴史民族記念館」、
「西首塚」などをGPS位置情報と共にご案内します。

       

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
関ヶ原宿若宮八幡宮関ヶ原西首塚までの1,090mを案内します

関ヶ原宿

宿場の概要

幕府領、 宿高 千九百石、 人口 1,400人、 家数 270軒、 

旅籠 三十三軒、 本陣 一軒、 脇本陣 一軒、 

助郷高 7,430石   十二ケ村 (助郷についてはこの頁末に説明あり

垂井宿から 一里半(垂井一里塚、)

今須宿まで 一里(今須一里塚、)

垂井宿から一里十四町(約5.5km)。旗本竹中氏の知行地でもあります。
宿の長さ十二町四十九間((約1.4km

町の規模は美濃十六宿2番目
「壬申の乱」の戦場となり、不破の関が置かれ、関ヶ原合戦の舞台となるなど古代から現代に至るまで、交通の要衝です。
関ヶ原は伊勢へつながる「伊勢街道」、長浜や越前に向う「北国街道」(北国脇往還)への分岐点として大いに賑わいました。

町の長さは美濃十六宿で城下町「加納宿」に次ぐ長さで、規模も一,二を争うほどです。
町並みはほぼ直線で、東町、中町、西町があります。

二百年前に防火対策都市
宝暦十年(1760年)の大火で大半の家屋が焼失したため、復興後は防火対策として道幅を倍に広げ、中央に水路を通しました。

「岐蘇路安見絵図」による当時の関ヶ原宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

関ヶ原

大関村は、むかし不破の関の有りし所也。
(大関村=現在は松尾=は、むかし不破の関のありし所也)

川ばた左の方に、古木に藤の巻付きたる有。

此所也とも云。

清見原の天皇と大友皇子、合戦の地也。(壬申の乱のことと思われます)

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 関ヶ原」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                             説  明
 
石田三成率いる大阪方と徳川家康とが、豊臣秀吉没後の覇権を争った地として著名なここ関ヶ原は、北国街道の分岐点でもある交通の要衝であった。 関ヶ原の戦いの史跡をはじめ、絵の題材となるモティーフに富んでいるこの宿場の図として、広重はあえてなのだろうか、茶屋ののどかな様子を選んだ。
 提灯には「名ぶつさとうもち」。看板には「そばきり」「うどん」とも記される。 店内には草鞋や笠、扇も売っているようである。
 店先の縁台にはそれぞれ客が座っており、一人は名物のさとう餅に、今まさに箸をつけるところである。 旅先での楽しみはこれに尽きるといった表情。 店の女性はお茶をお盆に載せて、もう一人の客に注文を聞いているところだ。 季節は春、茶屋の傍らの梅ノ木は花をつけている。
                     (以下 mori@シルバーが付註)
 
画面 向こうの道が下り坂勾配に下りるあたりを、考えると現在の関ヶ原駅前信号辺りと思われます。
 関ヶ原の戦い始め画材のモチーフには事欠かない関ヶ原で広重はあえて、茶屋ののどかな風景を画材にしたのは政治的な時代背景があったのではないでしょうか。

このあと関ヶ原宿の中の「中山道」は「国道21号線」と一緒です。

関ヶ原宿の江戸側口には土居(土手・土塁)がありました。

宿の往還入口は枡形・柵・土居のいずれかを設けているところが多い
枡形が江戸側にある・・・落合・大湫・伏見・鵜沼・美江寺・赤坂・垂井
枡形が京都側にある・・・中津川・御嶽                  
枡形が複数ある・・・大井・加納・大田                   
枡形がない・・・細久手・河渡・関ヶ原・今須                
しかし、関ヶ原宿には江戸側に土居があったようです。

「国道21号線」の「東町」の信仰交差点」を過ぎると右手に「若宮八幡宮」が見えてきます。

関ヶ原宿
若宮八幡神社

不破郡関ヶ原町東町2丁目

北緯

35

21

38.2

東経

136

28

46.7

「国道21号線」沿いにあるので車で立ち寄るのは難しいとこです。

明示末期の宿場
関ヶ原宿は美濃十六宿のうち一、二を争う規模の宿場でした。

「若宮八幡宮」を過ぎて東町1丁目へ入ると北側にGSがあります。

関ヶ原與市の宮

不破郡関ヶ原町東町1丁目

北緯

35

21

37.0

東経

136

28

41.8

このガソリンスタンドの敷地内に「与一の宮」があります。(裏手に見える大きな木があるところです)

「関ヶ原與市宮」の伝え
源平時代の関ヶ原の郷士・「関ヶ原與市(藤原基清)を子孫が祀った宮です。
承安四年(1174年)、上洛した際に與市の馬が牛若丸に泥水をかけて衣を汚したので争いとなり、
従者数十人とともに殺されました。

子孫が健保六年(1218年)に宮祀ったのが「與市宮」です。
與市のそれ以前の業績は定かではありませんが、水不足の関ヶ原のために春日谷の水を引く工事を行ったが、京都で殺されたため、完成しなかったと言われています。

伊勢街道沿いに墓が残された居るそうです。

「與市宮」は樋口家の所有で当家の敷地内にあります。
お参りされる場合は樋口石油へ、お願いして下さい。気軽に案内してくださいます。

お参りはガソリンスタンドを通り裏へ回り「與市宮」は西側に入り口があります。

「與市宮」(樋口家の記述)
当社は源平時代に関ヶ原村の郷士・開拓者として仰がれた「関ヶ原與市の霊を祀ってあります。
樋口家では、與市を当家の始祖としてのみならず、関ヶ原の始祖としても、代々崇敬を怠らず今に至っています。

特記すべきことは、家康が合戦の翌日、関ヶ原を出るに際し、当家に禁制を寄せていることです。
この「禁制」は当家の家宝として秘蔵されていますが、戦乱から当社は守られたのでした。

「樋口石油店」から「東公門」の信号交差点を越え70mほど行くと江戸時代からの旅籠屋があります。
現在は建物は立て替えられましたが由緒ある「升屋」です。

現在関ヶ原の位置が明示されていません

どこへ行ったか「関ヶ原一里塚跡」

「垂井一里塚」から「今須一里塚」間がプロアトラス(アルプス社)で測定すると
7,880mです。その中間(約3,900m)点が東公門町信号交差点付近です
しかし、現地を探しても一里塚跡の標識は見当たりません

証拠(1) 中山道分間延絵図には公門町あたりに一里塚が描かれています

住宅地図に当てはめてみると一里塚はこの辺りと思われます

参考資料
 岐蘇路安見絵図の一里塚は若宮八幡宮より宿入口側に
描いてあるので違うように思われます

更に西へ進むと右側にかっては旅籠だった「旅館ます屋」があります。

江戸からつづく
旅籠
「ます屋」

不破郡関ヶ原町公門(くもん)3丁目

北緯

35

22

33.9

東経

136

28

25.5

「旅籠 升屋」の看板

「創業永長元年」の文字が見えます

旅館「升屋」の次の信号「関ヶ原駅前」を過ぎて50mほどでバス停「中町」の前に
脇本陣があります。

関ヶ原宿脇本陣跡

不破郡関ヶ原町中町

北緯

35

21

32.6

東経

136

28

20.5

今は建物の痕跡は無く門だけが名残をとどめています。

関ヶ原脇本陣
脇本陣は建坪七十九坪(261u)

慶長年間(1596年〜1615年)は
「問屋」・「脇本陣」を努め、天保十四年
1843年)当時、持高六石を持ち家内は
十一人(下男・下女3人を含む)。

 本陣は何も営まなかったが、
脇本陣は旅籠屋を営んで居ました。

宿泊料金は武士と農民・町人では
差があったと言われています。

(しどうぶなんぜんじ)  
禅僧「至道無難禅師」誕生地

脇本陣「相川家」は江戸初期の
禅僧「無難禅師」の生家でもあり、
生誕地の石碑が立っています。

「無難禅師」は慶長八年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の高僧です。禅師は法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。なお寛文二年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います。当家は後に脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。 (関ヶ原町)

脇本陣西の歩道橋をくぐル変則四叉路があります。
この道を北へ行くと「本陣跡」へ行きます。

その前に
南へ行く狭い道を300mほど進んで大蛇伝説のある「十九女池」(つづらいけ)へ行きましょう

大蛇伝説の
十九女
(つづら)

不破郡関ヶ原町関ヶ原字十九女(つづら)

北緯

35

21

26.8

東経

136

28

48.8

池に棲む大蛇が若い女に化け、毎夜、旧家に椀を借りにきました。
返す時に生臭かったので怪しみ、蛇が嫌う針を椀の下に刺して貸したら、以来立ち去りました。
大蛇が棲んだという池を「十九女池」(つづらいけ)と呼ぶようになりました。

十九女池(つづらいけ)と竜女伝説
今は昔、当宿東町地内を時折、廿才前後の美女が笛を吹いて歩き、
また民家へ時々「椀」を借りにきて返すとき生臭かったと言います。

古老が怪しみてある夜借りに来た椀の糸底に針をさしてその糸を家人につけさせせましたところ、
この池の辺で見失い、以来再び椀を借りに来なくなったといいます。

今もこの「椀」は今も「法忍寺」に預けられています。

今は「十九女池」の真ん中を東海道新幹線が走っています

もう一つの「伝説」
領主「竹中家」の「横笛記」によれば、
「ある夜 宿場の相川家へ娘来たり、横笛を出して、是を買えと言う、
合川氏これを求め「何処へ帰る」と問うに「池へ」と答える。
奇異に思い後を追うに十九屋と云う池のあたりで、消えしという。」

その後この池を「十九女池」と云うようになった。

この横笛は後「ほととぎす」と銘がつけられて「八幡神社」の社宝として今に残る。

もう一度「中山道まで戻ります。

画面の地方銀行の付近から北へは「北国街道」、南へは「伊勢路」が分岐していました。

ここにあった道標は「関ヶ原歴史民俗記念館」の軒下に移設保存されています。

伊勢街道道標

北陸街道道標

不破郡関ヶ原町中町

北緯

35

21

31.9

東経

136

28

19.0

中山道から分かれて伊勢街道に至る
歩道橋のあたりにありました。

「是より やうろう くわな道」
と記されています。

今は歴史民族資料館前に移築されています

北陸街道道標はかっての本陣西側の
街道入り口にありました。

 石碑には「北国 ゑちぜん 
右 きのもと道」
と刻まれています。

歴史民族資料館前に移築されています。

伊勢路は牧田で伊勢東街道(牧田川で船旅で桑名まで)と伊勢西街道(山道で国道365号線で亀山まで)に分岐し
西街道は関ヶ原合戦で島津軍が背走したとしても有名で、東街道は九里半街道として宿場争いで有名です。

九里半街道

北緯

 

 

 

東経

 

 

九里半街道は名古屋、桑名から揖斐川を上り、牧田川右岸の船附・栗笠・烏江の美濃三湊への
水路を経て、関ヶ原宿回りで近江米原湊(朝妻港)までの牛馬による陸路が九里半街道と称された。
その里程が九里半になることから名が付いているそうです。

九里半街道と関ヶ原宿騒動(定本中山道美濃十六宿 郷土出版社)

江戸時代、美濃三湊、現在の養老町栗笠、船付、烏江から牧田を中継宿場として米原までの物資輸送の道。
その道程から九里半街道と呼ばれた。

 岐阜県と滋賀県の県境に位置する関ヶ原町。
 関ヶ原の合戦で知られるこの地は、古くから交通の要所でもあった。
 東西に京―江戸をむすぶ中山道、北に近江、北陸に通じる北国脇往還、南に三重県の伊勢に通じる伊勢西街道、伊勢東街道、また舟運が盛んな三湊(船附、栗笠、烏江)と近江国朝妻湊(米原湊)を結ぶ物資輸送を目的とした九里半街道が通っていた。

 合戦以降、中山道は東海道と並ぶ主要道路として関ヶ原宿、今須宿が設けられ、大名の参勤交代も往来し、
本陣、脇本陣、旅籠に加え商人たちの問屋や木賃宿が並び、人も物資もその行き交いは相当なものであった。

                  関ヶ原宿騒動
 慶長十六年(1611)には濃州三湊からの上り(京都方面へ)荷物を平井道(牧田ー今須宿)で、関ヶ原宿を通さず直接 今須宿へ送ったことから関ヶ原宿は牧田宿に対して論争を起している。
 それだけ、上り荷物(京・北陸方面)が下りに比べ取り合いの対称となるほど多かったことを物語っている。

              九里半街道と地理的条件
 養老町は北東を大垣市、南側にかけては輪之内町、海津町などの低湿地帯に囲まれ、西側は養老山地に限られており、濃尾平野の西端に位置している。山裾に沿い国道と近鉄養老線が通じ、古い集落はこの滝線に沿い立地していったのだろうと思わせる。
 実際養老の滝は有名で観光客の訪れも多い。
 町域の代表的な町は旧高田(島田)村で、これは関ヶ原の合戦直後、美濃国の仕置を担当した代官衆の一人、間宮彦次郎より市場の制札を受けたことで本格的な賑わいを示すようになった。
 制札の条例には楽市・楽座の項も盛り込まれ、自由に商業を行える下地が築かれた。
 「嶋田町中」と呼ばれる町並を形成し、市も盛んに開かれるようになった。

                   牧田川と揖斐川の水運の利便性
 もともとこの地区は「九里半街道」の終点でもあり、ここから濃州三湊と呼ばれた揖斐川の支流・牧田川にある三つの港町を控えていた。
 九里半街道は中山道の今須宿(現関ヶ原町)から分岐していた枝道で、特に上方の物資を伊勢や名古屋城下、さらには江戸方面へ運ぶのに珍重された。
 荷物は大量輸送の可能な水運に委ねられることが多く、琵琶湖を利用した水運の荷を米原で一旦陸揚げされたものがここ牧田に運ばれ、再び牧田川ー揖斐川による舟運に委ねられていたのであ

                    (定本中山道美濃十六宿 郷土出版社より)

地方銀行の「三叉路」北へ入ると八幡神社があります。

関ヶ原宿八幡神社

不破郡関ヶ原町中町

北緯

35

21

33.3

東経

136

28

18.6

突き当たりは「枡形になって八幡神社があります。

関ヶ原宿本陣跡

不破郡関ヶ原町中町

本陣庭には「スダジイ」が植えられていましたが、今は八幡宮の境内になっています。

本陣の建坪は152坪(約500u)。寛永元年(1624年)から努めているが、
天保十四年(1843年)の当主「兵四郎」の持高は三石四斗。
家内(家に住むもの)6人(下男・下女各1人含む)。

脇本陣は旅籠屋を営んで居ましたが、本陣は何も営なんでいませんでした。

スダジイは目通り4.4mで県天然記念物に指定されていす。

八幡神社の横の道は「北国脇往還」です。

この「北国脇往還」を北へ進むと東海道本線の上を通り、関ヶ原合戦の史跡の地へ入ります。

関ヶ原合戦跡

東海道本線を渡るとすぐに首塚があります。
首塚は二ケ所ありますが、此処は「東首塚」です。

東 首 塚

不破郡関ヶ原町陣屋野

北緯

35

21

37.2

東経

136

28

14.6

国史跡「東首塚」
この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主「竹中家」が築いたもので、
家康によって首実検された将士の首が、此処に眠っています。
左奥に見えるのは尾張名古屋藩から身売りされた徳川宗春の霊廟(合戦戦没者の供養堂)と
手前の門が霊廟の山門

画像右は東海道本線の橋です。

     徳川宗春 身売りの霊廟
 尾張藩主七代藩主、徳川宗春(1696〜1764)は、仁王山護国院(現在の永平寺別院、名古屋市東区代官町)に、霊廟が建てられ祀られた(文政四年=1821)。
 派手好みの宗春は、倹約第一の将軍吉宗の政策にさからい、開放政策を打ち出し名古屋を繁栄させた移植の藩主。在位八年で藩主の座を追われ、25年間幽閉。死後も罪人とされ墓石に金網をかぶせられた。
         戦災を免れ今も残る
 護国院の奉安殿内にあった旧山王社本殿(霊廟)と唐門は昭和十六年(1941)、3千円で売り渡され、翌月に早速解体され関ヶ原に運ばれた。
 これが結果幸いし、戦災を免れた。 しかしこの建物が宗春霊廟だった由緒を知る人は少ない。
              (中日新聞より)
 なお、その時期になぜ売り出されたかは不明です。
  首塚の門前には道標があります。
「東首塚  陣屋野 一丁半」の文字が見えます。

「東首塚」の同じ敷地内にあります

首洗いの古井戸

不破郡関ヶ原町陣屋野

供養堂と門は名古屋から
合戦で討ち取られた西軍の将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を作って懇ろに葬られました。
首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級を血や土などが洗い落とされ多と伝えられています

戦国期の戦場では、首実験は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築句と言うのが慣わしだったようです。

文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が立てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、
名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。

塚内にはいろいろな碑が立っています

首塚の東は「松平忠吉、伊井直政の陣跡」でもあります。

松平忠吉、井伊直政

陣所跡

不破郡関ヶ原町陣屋野

関ヶ原合戦の火ぶたを切った井あやすの四男
慶長五年九月十五日の合戦の役に「中山道」の敵を目標とする「福島、藤堂、京極隊」、
北国街道を「黒田、竹中、細川などの隊」、
その中央にあたるこの地に家康の四男「松平忠吉とのちの彦根城主、伊井直政」が
六千の兵で陣を構えた。

 午前八時ころ、軍監「本田忠勝」より改選を促され、直政、忠吉を擁して前進し「宇喜多秀家」の前面に出たが、先鋒は「福島政則」であると咎められ、方向を転じて「島津義弘」の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られました。

東首塚の門前の道標にしたがって北へ150mほど進むとまた道標があります。

「←(北) 陣屋野  →(東)岡山 東軍烽火場 4丁」の道標があります。

陣屋野の方向へ30mほど進むと「田中吉政陣跡」があります。

田中吉政陣跡

北緯

35

21

42.5

東経

136

28

08.7

「甲斐墓 田中吉政陣所古跡」の文字

田中吉政陣跡
田中隊はここから「石田隊」に向かって塀を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。
本隊が二・三百メートルほど引き下がる。
そこに他の東軍諸隊の兵が食らい付く。

と言うように両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。
石田三成が自分の意思で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後八日目のことでした。

陣屋野の方向へ30mほど進むと「家康最後の陣跡」があります。

徳川家康最後の陣跡

不破郡関ヶ原町陣屋野

北緯

35

21

44.0

東経

136

28

05.5

関ヶ原合戦は、関ヶ原の北側一帯で繰り広げられました。
徳川家康が最初に陣を敷いたのが、宿の東、「桃配山」です。
対する「石田三成」は合戦の舞台が見渡せる眺望のいい北西の「笹尾山」に布陣しました。

此処から東1.2kmが東軍がのろしをあげた「丸山」。
開戦地は「天満山」南麓の「宇喜多秀家隊」に対し、東軍の「福島政則隊」が挑発し、戦端を開いた場所。

決戦地は笹尾山山麓一帯、「小早川秀秋」の裏切りによって、「大谷、小西、宇喜多」各隊が敗れ、石田軍も敗走しました。

「大谷吉継」の墓は「藤古川ダム」から1km入った山中にあります。

「徳川家康最後の陣地」は歴史民族資料館」西で、首実検も行った。
首塚は東西二ケ所にあります。
これらはすべて国指定史跡になっているが、ほかにも合戦に関わる史跡は一帯にあります。

国史跡「徳川家康最後の陣跡」
草がたけなわになろと、家康は本営を「桃配山」から「笹尾山」の東南1kmのこの地点に進出させました。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦いが終わると部下の取ってきた首を実験しています。

周囲の土塁の中央高台は、天保十二年(1841年)に幕府の命により、
この地の領主の「竹中氏」が築いたものです

天下分け目の合戦で有名な「関ヶ原合戦」は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦でした。

慶長五年九月十五日、午前八時頃 伊井、松平が先ず進出して
宇喜多の隊に向って戦端を開いた。

是を見た福島の隊は、宇喜多の隊を攻撃した。

かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、
左翼の藤堂、京極の隊も大谷の隊と交戦し、戦いはいよいよたけなわとなった。

家康は最初「桃配山」にあったが、午前11時頃には、陣屋野に進出して全軍の指揮をした。

「松尾山上」の「小早川秀秋」はかねてから家康に内応の約があったので、
隊に反旗をひるがえして「太谷隊」を突いた。

小早川などの反応で「大谷隊」が壊滅すると形勢は逆転した。

そして最後に「島津惟新」は東軍の中央を突破し、伊勢街道へ脱出に成功しました。

その結果東軍が大勝し、徳川家康は、二世紀半にわたる泰平の世を実現することになります。

御霊神社由緒
慶長五年九月十五日(1600年)、東軍の将「徳川家康」と西軍の将「石田三成」の軍十五万余の将兵が運命をかけて関ヶ原一帯に展開された所謂「関ヶ原合戦」です。

この合戦で幾千、幾万とも云われる将兵がこの地に屍をさらし、
中には子孫も絶え慰霊すら行われていない将兵が多くあると言われています。

この諸霊を祀るため、広く有志の浄財を呼びかけ幸い、関ヶ原合戦三百八十周年を機として
神社建立の運びとなり此処に慰霊をすることになりました。

 

関ヶ原歴史民族記念館

不破郡関ヶ原町陣屋野

北緯

35

21

46.5

東経

136

28

09.3

関ヶ原町内にあった道標は道が狭いため通行や道路拡幅の邪魔になり
歴史民族資料館前の駐車場に集められています。

道しるべ(道標)
道しるべとは、広辞苑によると「道路を通行する人の便宜のため、木・石などで作り路傍に立って方向・里程(距離)
等を示す標示物・みちしるべ」とあります。

JR関ヶ原駅前の国道21号線にあった道標
正 面  左 東京、右 西京 道
右側面 右 養老、伊勢    
  
左側面 右 停車場 
         

江戸時代には、「道分け石」また「石しるべ」とも云っていたようであります。
地名・社寺などへの方向を示し街道の名・里程を彫り旅人の便宜を図っていたのが、道しるべでした。

近江と美濃の境で有名な「寝物語の里」の道標
旧蹟 寝物語 美濃国不破郡今須村

中山道と北国往還の交差点の道標
正 面 北国ゑちぜん道
右側面 右 きのもと道 
本陣西側の街道入り口にありました。 

中山道から分かれて伊勢街道に至る歩道橋のあたりにありました。

「是より やうろう くわな道」と記されています。側面には寛政十一年の文字も見えます。

これよりひらを 二り八丁
(平尾御望分岐にあったものと思われます)

右 松尾山   
左 牧田村  道

「歴史民族記念館」には、この他にも興味ある資料が展示されてます。

更に北へ1.2kmほど進むと「関ヶ原決戦地」の碑があります。

西軍の将「石田三成」陣跡の笹尾山への道筋ですので是非立ち寄ってください。

関ヶ原古戦場
決戦地

不破郡関ヶ原町小関

北緯

35

22

01.6

東経

136

27

52.8

「陣屋野」からの道から少し東に寄りますが、見晴らしがよく遠くからでも、よく分かります。

国史跡「決戦場」
西軍有利な陣形で臨んでいた戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、
たちまち戦況を一変させました。

小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、
石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦い続けました。

「笹尾山」を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。

この決戦場から「笹尾山」の陣跡が手にとるように見えます。

笹尾山の陣跡への道はすぐに分かります。

石田三成陣跡

笹尾山駐車場

不破郡関ヶ原町小関

北緯

35

22

02.9

東経

136

27

44.7

「笹尾山」麓は当時の陣を復元してあります。

「笹尾山陣跡」までは数分で登れます。

陣跡には指揮台が復元してあります。

天下分け目の合戦で有名な「関ヶ原合戦」は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦でした。

慶長五年九月十五日、午前八時頃 伊井、松平が先ず進出して宇喜多の隊に向って戦端を開いた。
是を見た福島の隊は、宇喜多の隊を攻撃した。
かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、左翼の藤堂、京極の隊も大谷の隊と交戦し、
戦いはいよいよたけなわとなった。

家康は最初「桃配山」にあったが、午前11時頃には、陣屋野に進出して全軍の指揮をした。
「松尾山上」の「小早川秀秋」はかねてから家康に内応の約があったので、
隊に反旗をひるがえして「太谷隊」を突いた。

小早川などの反応で「大谷隊」が壊滅すると形勢は逆転した。
そして最後に「島津惟新」は東軍の中央を突破し、伊勢街道へ脱出に成功しました。

その結果東軍が大勝し、徳川家康は、二世紀半にわたる泰平の世を実現することになります。

国史跡

「石田三成陣跡」

北緯

35

22

07.0

東経

136

27

42.1

ここ「笹尾山」一帯は石田三成隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、
前衛隊長の「島右近」らのもと、すざましい死闘を展開しました。

小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、
もはや是までと三成は北国街道沿いに敗退していきました。

笹尾山には国史跡に恥じない碑が立っています。

中山道へ戻り更に西へ進みます

西首塚

不破郡関ヶ原町西町1

北緯

35

21

27.0

東経

136

28

34.1

西首塚
関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。 この上に江戸時代から十一面観世音および馬頭観音
の堂が建てられ、付近の民家の手によって供養がなされている。(関ヶ原町教育委員会)

大木の裏には胴塚があります。

「西首塚」を過ぎると関が原宿を出て「不破の関」跡へ向います。

街道コラム

【掃除丁場雪の掘割】

掃除丁場
 街道の掃除・修理・保全および並木の管理・下草・落葉の取り払いや、橋の管理などは、街道沿いの村や近くの村々が指定されて行っていたが、これを掃除丁場といった。

堀割
 道中奉行により大雪のとき除雪令が出されたが、此の除雪を「堀割」といい、美濃十六宿で除雪量の多い今須宿・関ヶ原宿・垂井宿などで主に行われていた。

         

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。