中山道六十九次のうち六十宿目で中山道美濃十六宿の十六番目の宿「今須宿」をご案内します

六十九次
のうち
六十宿

岐阜県不破郡関ヶ原町

美濃国

JR東海線柏原駅下車

   「今須宿」の巻は今須峠を越え、今須宿入り口の石仏群「百萬巻経碑」、復元「今須一里塚」、平井道口を経て聖蓮寺、
境目城の松尾城址、家康腰掛石のある「青坂神社」、御嶽神社、宿場入口の今須橋、学校になっている今須宿本陣跡、
二軒あった今須宿脇本陣、ダダ法師の大足跡がある「妙応寺」、今も残る「問屋場」山崎家、無くなった荷物が出てきて
寄付された「常夜灯」、愛宕神社参道にある今須灯篭「壱」、真宗寺、法善寺、八幡神社鳥居、参道が1kmもある
「若宮八幡神社本殿」、今須宿灯篭「参」、「車返しの坂」と「車返し地蔵尊」、国さかい芭蕉句碑、「寝物語の里」碑、
寝物語由来碑などをGPS位置情報と共にご案内します。

    

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
常盤御前の墓寝物語碑までの2700mを案内します

今須宿

旅籠屋は中七軒、小六軒の十三軒。 
人馬継問屋は七ケ所あり、内三ヶ所が御朱印・御証文を担当、
四カ所が賃人馬を担当しました。

問い屋は平常は当番を決め、問屋一人・馬一人・馬指一人・人足指一人が詰めていました。
思い通行の時は全員が出勤したと言います。

宿場の概要

幕領・大垣藩領、 宿高 一千五百石、 人口 1,800人、 家数 464軒、 

旅籠 十三軒、 本陣 一軒、 脇本陣 二軒、           

関ヶ原宿から 一里(今須一里塚、)

柏原宿まで 一里

「岐蘇路安見絵図」による当時の今須宿の解説は

岐阜市歴史博物館 蔵

今須

両国の境、小溝をへだち、家をちかく作りならべり。

此処に此所を寝物語といふ。車返しの里ともいふ。

此みぞ、美濃・近江国境

岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵

    歌川広重・渓斎英和泉「木曽海道六拾九次之内 今須」(大判錦絵)
     岐阜県恵那市「中山道広重美術館」所蔵 収集家 田中春雄氏旧蔵(許可番号2002−46号)
                             説  明
 
今須は、美濃国最西端の宿場である。 関ヶ原からさらに西に進むと、歌で知られる「不破の関」があり、それを越えると今須の宿に入る。
 本図は、町の西の外れ、近江と美濃の国境の光景。 今須宿の先に位置する長久寺という集落である。
 一尺五寸ばかりの溝が国境になっており、これを挟んで西の近江国側には20軒、東の美濃側には5軒あったという。
 本図において、手前に描かれる茶屋は近江屋、奥は両国屋とみられる。 近江屋の軒先には、「仙女香坂本氏」と白粉(おしろい)の宣伝が、両国屋には「寝物語由来」という看板が見られる。 この国境では、両国の人が、壁越しに寝物語をしたことから、この辺りを「寝物語の里」ともいった。 看板の「寝物語由来」は、そのことである。
 ここを越えれば近江の国。旅の終わりも近い。

「中山道分間延絵図」の判読できるところを表記しました。
下の現在の住宅地図と比較してください

モノクロ画像の「今須宿」航空写真
画面下から「関ヶ原方面」→「「中狭川」を越えて→「常夜燈」→「本陣跡」→「問屋跡」→
「金比羅常夜燈」→「柏原方面」(滋賀県柏原=かしわばら)

「中山道」550mほど西へ進み難所と言われた今須峠(今は道が掘削され低くなって車が越えられる)
を越えて220mほどで「国道21号線」と合流します。

今須峠を過ぎると手前右(北)側の道の上に「百万巻経の碑」があります。

百万巻経の碑

不破郡関ヶ原町今須字門前

北緯

35

20

48.9

東経

136

26

34.2

時期により夏草が生い茂って近寄れません。

手前の国道21号線へ出てきます。

百萬巻読経碑は今は高いところにありますが昔は碑と同じ高さのところを中山道が通っていました。

明治以前はこの碑の前を中山道が通っていました。

「百萬巻強碑」から「国道21号線」を横断すると復元された「今須の一里塚」があります

今須の一里塚

不破郡関ヶ原町今須字門前

北緯

35

20

45.1

東経

136

26

27.2

宿場手前に「一里塚」があります。
江戸から数えて122番目「一里塚」、岐阜県内三十の塚の中で一番「西にある一里塚」です。
昭和30年頃国道工事で取り壊されましたが、地元の要請で平成2年にやや東に復元されました。
塚の上には往時と同じようにエノキが植えられています。

昔の位置よりやや東に復元された「一里塚」

今須宿へ入る前に南へ延びる平井道があります。
この先に関ヶ原合戦の転機を作った小早川秀秋が陣を張った松尾山城がありました。

平井道松尾山城址

不破郡関ヶ原町今須字門前

北緯

35

20

47.0

東経

136

26

24.9

今須宿入口に南へ延びる平井道

今須宿から約2kmで集落へ出ます。

途中松尾山山頂の道標があります

小路を山の麓まで行き1.6km(約40分)で山頂へ

山頂には松尾山城址が公園化されています。

松尾山城址

不破郡関ヶ原町今須字溝口

北緯

35

20

43.3

東経

136

26

26.2

松尾山城址

 松尾山城は、美濃・近江の両方を一望でき、眼下に東山道と伊勢街道・北国街道が通じる典型的な境目の城です。

 松尾山城は、「境目の城」として美濃(織田氏)・近江(浅井氏)が領有し、その時々に美濃へ近江へとそれぞれ備えたことで、境目の城だが大手・搦手が両様にある城となっています。

 天正元年、浅井長政を滅ぼした織田信長は、不破光治を松尾山城に置き国境警備に当たらせたが、天正4年に安土城へ居城を移し、岐阜城に嫡男織田信忠を城主としたことで境目の城としての役割を終え、天正7年に廃城となった。

 慶長5年の関ヶ原合戦の折、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋が松尾山城に陣取り、北麓に陣取っていた大谷吉継の陣へと攻め降ったことで有名。

松尾山から元の道へ戻り南へ50mほど進むと聖蓮寺の道標があります。

平井道と聖蓮寺

不破郡関ヶ原町今須字平井

北緯

35

20

38.2

東経

136

27

25.7

松尾山口より南に聖蓮寺道標があります
鎌倉時代に親鸞聖人が念仏の教えを説かれ古刹です。
八葉形半鐘(県重要文化財) 朝鮮総督府の高官が寄贈 戦争で供出されたが文化財として返されたそうです。
八房の梅(県指定天然記念物) 貞永(じょうえい)年間に親鸞聖人が食膳に出た梅干しの種を植えたところ芽が出た

平井道(関ヶ原飛ばし)
平井道は「九里半街道」(詳しくは「関ヶ原宿」にあります)の
途中の牧田宿から関ヶ原宿を通さず今須宿までバイパス
させ荷主の経費と時間を浮かせ、関ヶ原宿ともめた街道です。
関ヶ原宿玉の今須宿柏原宿飛ばし
関ヶ原宿は関ヶ原宿玉(たま)から長浜まで荷を送り、今須宿と柏原宿から
苦情が出て争議をおこしています。

再び今須宿口まで戻ります。
「一里塚」駐車場から北西を見ると「東海道本線」踏切があります。
その向こうに「青坂神社があります。

青坂神社拝殿

不破郡関ヶ原町今須字門前

北緯

35

20

47.0

東経

136

26

24.9

この神社の拝殿は東海道本線の上下線の間にあり、
本殿は上下線の向こうにあります。

拝殿までの参道は長く、奥の拝殿横には「家康の踏み石」があります。

「東照宮天下御踏台」
家康は合戦で大勝した翌日で機嫌もよく本陣で休息し、庭石に腰かけ「ここはなんと言う村か」と尋ねました。
不破郡居益村と答えると、家康は
「破れ不(ざ)る郡、居る所は益々盛ん。天下は巌のように破れず益々栄えるだろう。この巌はいつまでも大切にしておけ」
と言ったと伝えられています。

「徳川家康腰掛石」
関ヶ原合戦に勝利した家康は、慶長五年(1600年)九月十六日(合戦の翌日)
近江佐和山へ軍を進める途中、ここ「今須宿」「伊東家」で一休みしています。

これはその時に家康が庭で腰掛けたと言う石で、江戸時代を通じて本陣の指定を受けていた当家は、代々これを大切にしてきました。

しかし、明治三年(1870年)本陣廃止以降は、当境内に移して公開展示されることになったのです。

この拝殿脇の階段を上って本殿へお参りするのです。

青坂神社本殿

不破郡関ヶ原町今須字門前

北緯

35

20

48.4

東経

136

26

24.5

本殿への階段は途中「東海道本線上り線」の上を越します。
承久の乱(1221年)の後、鎌倉から今須に来た武将「長江重景」が
先祖の「鎌倉五郎景政」を祀ったとされています。

この辺りは雪が多いのか本殿はもう一つの屋根で覆われています。
ここからの眺めは最高です。
下には東海道本線の上下線と国道21号線が見えます。

階段を下る時はあまりの急勾配でびっくりします。
下にJR東海道本線のレールが見えます

今須宿口まで戻りがいよいよ美濃最後の宿「今須宿」へ入ります。
(復元された今須の一里塚から270mほど進と宿の入口の「今須橋」を渡ります。)

今須橋

不破郡関ヶ原町今須字中町

北緯

35

20

44.2

東経

136

26

21.2

宿入り口はには「中狭川」に架かる「今須橋」を渡ります。

「今須橋」の袂には立派な銅版で葺かれた常夜灯があります。

 

上の写真は昭和31年頃の今須宿です。

今須小中学校前辺りが本陣跡です

今須橋から70mほどで「本陣跡」へ出ます。

今須宿碑

不破郡関ヶ原町今須字中町

北緯

35

20

43.8

東経

136

26

18.6

中山道今須宿本陣跡・脇本陣跡
 当宿は美濃国と近江国の境の宿として栄えました。 二百十五坪の本陣が一軒で、現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。 また脇本陣は美濃十六宿の中でも当宿のみ二軒あり、各々現在の小学校駐車場辺りにあったのです。 後者河内家の母屋は寛政年間に現米原市伊吹町の杉沢地内妙応寺末寺玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。  
なお関ヶ原合戦の翌日、佐和山城攻めに際し、家康が本陣伊藤家のお庭先で休憩した折、腰掛けた言う石は、現在東照宮大権現腰掛石として青坂(せいばん)神社境内で保存されています
(関ヶ原町)

「本陣」は建坪二百十五坪(約710u)の立派なものでしたが、今はなく「今須小学校、中学校」になっています。

学校の向かい側が「妙応寺」門前です

ダダ法師の大足跡がある
妙応寺

不破郡関ヶ原町今須字中町

北緯

35

20

48.6

東経

136

26

17.4

「妙応寺」へはJR東海道本線の下を通ります。

山門碑には享和元辛酉(かのととり)年(1801年)の文字があります。

          「ダダ法師の大足跡」
 裏山に伝説の巨人、ダダ法師の足跡があります。
 モッコ(縄で編んだ土地などを入れて運ぶもの)で伊吹山と養老山を作り、
 モッコからもれて落ちたた土で南宮山が出来たと伝えられ、その時の足跡だと言われています。

                 「妙応寺」
 天正十五年(1360年)に曹洞宗の大徳莪山禅師を開山として建立した「曹洞宗総持寺」の末寺であります。
 南北朝時代に鎌倉から移ってきた長江重景が母「妙王」のために建てた「長江氏」の氏寺です。
 この寺の墓地は、長江氏のものであります。
 宝物館には史料、寺宝、母「妙応」が使った大きい枡、小さい枡が寺が伝わっています。

             由緒在る鏡池
 当寺は正平十五年(1360)に、今須領主長江重景が創建した県下で最も古い
曹洞宗寺院です。
 その後、土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新まで永く続きました。 宝物館には、町重文の文書をはじめとして当地出身の喜田華堂筆の縁起絵巻などが展示されています。
                      (関ヶ原町)

最近境内の講堂を取り壊していました。立替でしょうか?

中山道へ戻り西へ190mほど進むと「問屋場跡」へ来ます。

今須宿問屋場跡

不破郡関ヶ原町今須字中町

北緯

35

20

43.0

東経

136

26

10.1

                                    問屋場
 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行ったが、当宿には一時七軒もあり全国でも珍しいとのことでした
 美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その威容を今に伝えているのはここ「山崎家」のみです。
 縁起物の「永楽通宝」の軒丸瓦や、広い庭と拭き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。
                        (関ヶ原町)現地説明板

問屋場の屋根にあった「永楽通宝」の軒丸瓦
(岐阜新聞「ぎふ峠ものがたり今須峠」より)

 

              今須騒動の爪痕
 明治維新によって宿場町はさびれ、その上全国的な凶作で物価も上がり大きな被害を受けた今須宿の農民は明治二年(1869)村役人に対して借金の返済延期、貯蔵米の貸下げ、助郷人足賃の支払いなどを要求したが、これを聞き入れてくれなっかため、本陣や庄屋を襲った。
 驚いた村役人らは大垣藩に鎮圧を依頼し、藩兵数百人が出動して武力で鎮めた。
 この騒動を今須騒動といわれています。

今は取り壊された脇本陣 庄屋に残る刀傷

「問屋場」から50mほどの中山道左(南)の民家(谷口家)の前に常夜灯があります。

京都の河内屋が寄贈した
今須宿常夜灯

不破郡関ヶ原町今須字西町

北緯

35

20

42.0

東経

136

26

07.1

                 「常夜灯」
 街道が賑わっていた江戸期の、文化五年(1808年)のことです。
 京都の問屋「河地屋」(かわちや)は、大名の荷物を運ぶ途中、それを紛失し途方にくれていました。
 そこで「金毘羅さま」に願をかけ、一心にお祈りをしましたところ、ここ今須宿にあることが分かり、荷物が出てきました。「河地屋」はそのお礼にと、「本田家」の前に建立したのがこの常夜灯です。
 (当時は灯篭を寄付することはそれにかかる毎日の油代も併せて寄付することです。
 一般的には菜種油が必要な量採れる畑も併せて寄送しました。

建立は文化五年(1808年)で、正面には「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれています。

更に75mほど西へ進むと今須宿灯篭「壱」があります。

愛宕神社参道の
今須宿灯篭 「壱」

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

42.4

東経

136

25

05.8

この奥(北)にある愛宕神社の灯篭? 建立は「明治三十年 石工 古川栄次郎」の銘があります。

灯篭から60mほどの左側(南側)に真宗寺があります。

真宗寺

不破郡関ヶ原町今須字西町

北緯

35

20

41.6

東経

136

26

03.8

詳細不明

真宗寺から中山道を西へ300mほどで法善寺へ出ます。

法善寺

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

39.2

東経

136

25

48.0

門碑が見当たらないお寺さん

「法善寺」を過ぎて20mほど西へ進むとに南に「八幡宮」の鳥居があります。

八幡神社鳥居

  不破郡関ヶ原町今須字門間 

北緯

35

20

38.5

東経

136

25

45.7

由緒ある八幡様です。 今須宿灯篭「弐」  

中山道の「法善寺」前の三叉路を南へ入ると名神高速道路の下を通ります。

広い田んぼの中の道を南へ300mほど下ると綺麗な赤い橋が見えてきます。

八幡神社本殿

本殿  不破郡関ヶ原町今須字竹之尻

北緯

35

20

29.8

東経

136

25

45.1

創建は、応仁元年(1238年)と伝えられます。
この地は「不破の関」に近く古くから重要な地であった。
「承久の乱」以来、鎌倉幕府がこの地を治める拠点として、
当社を重要な役割を持っていたと思われます。

立派な本殿があります。

中山道の鳥居まで戻り西へ100mほど進と今須宿3つ目の灯篭があります。

今須宿灯篭 「参」

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

39.1

東経

136

25

43.1

今須宿、唯一の信号機の在る交差点の手前ひだり(南)にあります。
この灯篭には年号も何も彫られていませんが、かなり古いものと思われます。
今までの灯篭も全部街道から下がった場所にあるので「常夜灯」とは思われません。

今須宿灯篭「参」から西へ150mほど進みます。

車返し坂
車返地蔵尊

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

43.9

東経

136

25

36.9

中山道は舗装道路から左へ反れて坂を上ります。

車返しの坂

旧跡「車返」美濃国不破郡今須
と彫ってあります。

「今須宿」の西はずれの坂。
 文明年間(1469〜87年)、摂政の「二条良基」が「荒れ果てた不破の関屋の板ひさししから、もれる月の光が面白い」と聞き、わざわざ都からやってきた。 ところが不破の関では高貴か方がいらっしゃると聞き、見苦しいものは見せられないと、あわてて屋根を修理してしまった。 良基はこの坂の途中で、修繕の話を聞いて嘆き
「葺きかえて 月こそもらぬ 板庇とく 住みあらせ 不破の関守」と詠んで、都へ車を引き返した。

以来この坂を「車返しの坂」と呼ぶようになったという。

車返地蔵尊

不破郡関ヶ原町今須字門間

境内はひっそりとしています。
地蔵堂の軒下に小さな碑があります。 ここで行き倒れた旅人の碑? 天明八申(さる)年(1788年)俗名池田善四郎

「中山道」はここで「国道21号線」を横断します。

いよいよ、美濃中山道十六宿の旅も終わりに近づきました。

「国道21号線」を横断するとすぐに「JR東海道本線」の踏切を渡ります。

国道21号線横断

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

45.6

東経

136

25

36.3

踏み切りを渡ると150mほどで右側に芭蕉の句碑が見えてきます。

芭蕉句碑

不破郡関ヶ原町今須字門間

北緯

35

20

47.8

東経

136

25

31.4

画面左の2軒のうち左が滋賀県(近江国)右の白い家が岐阜県(美濃国)。 
その手前の桜の木の下に「芭蕉碑」があります。

「正月も 美濃と近江や 閏月」 芭蕉

芭蕉句碑は昭和52年建立

右の小さな石には
「貞享元年十二月 野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため
熱田よりの帰路二十二日ころ、ここ地 今須を過ぎるときの吟」

とあります。

芭蕉句碑から50mほど西へ進むと国さかいです。

寝物語の里

岐阜県側 不破郡関ヶ原町今須字門間
滋賀県側 坂田郡山東町 

北緯

35

20

47.4

東経

136

25

28.7

この場所が「安藤広重」の「今須宿」で場所と思われます。

本物は関ヶ原の「歴史民族記念館」にあります

近江国長久寺村の文字が見えます。

往時の複製碑

ここまで、関ヶ原町東境から8.5km       
長野県境から120.2kmです。

「美濃国」から「近江国」へ

美濃国:岐阜県不破郡関ヶ原町今須

近江国:滋賀県坂田郡山東町長久寺 

この溝が今でも岐阜県と滋賀県の境

画面 左が滋賀県の大木さん 右が岐阜県の西脇さん
学校も役場もこの溝で分かれています。
それぞれの車のナンバーも「滋賀」と「岐阜」でした。 

県境から12mほどの滋賀県がわに「寝物語の里」碑があります。

寝物語由来碑

近江国:滋賀県坂田郡山東町

北緯

35

20

47.5

東経

136

25

27.9

「寝物語由来」
近江と美濃の国境は、細い溝でした。
この溝を挟んで両国の茶屋や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので
寝物語の里の名が生まれたと言われています。

また、平治の乱(1159年)後源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から、家来の江田行義と巡り合った」
所とも伝えられています。

「寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌などにもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の も しのぶばかりに」 太田道灌

「寝物語碑」の奥に廃寺となった寺跡がありました。

今須宿の近江側ものんびりした風景画続きます。

少し近江側へ入ってみました。 松並木がこちらにも残っています。
この先の宿は「柏原宿」まで2.2kmです

あと少しで京です。旅の終わりも近いでしょう。
此処でとりあえず「美濃中山道十六次」は終わりにします。

街道コラム

【宿駅制度の終末−2】

本陣と宿駅制度の廃止
  明治三年(1870)閏十月二十四日、民部省の布達によって、「各宿駅にある本陣の名を廃止し、諸手当等一切中止」し、補助金を無くし、今まで持っていた本陣の特権を剥奪して、通常の旅籠と同格として廃止した。

 明治五年(1872)一月十日には東海道各宿の伝馬所と助郷が廃止され、同年七月二十日に、「中山道やそのほかの街道の伝馬所や助郷も8月末をかぎり廃止する」との太政官布告が出された。

 かくて江戸時代270年間余にわたって街道輸送を担ってきた中山道の宿駅制度は、明治五年8月末をもって廃止と決まり、宿場には宿役人も宿人馬も助郷人馬もなく、問屋場も本陣も脇本陣もなくなって、運送業務は新しく生まれた「陸運会社」の手に移ることとなった。

長いことお付き合いいただきありがとう御座いました。

mori@silver

    

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。