関ヶ原宿から旧東山道・不破の関跡を経て今須宿へ向かいます

六十九次
のうち
五十九宿

岐阜県不破郡関ヶ原町

美濃国

JR東海線関ヶ原駅下車

「不破の関と常盤御前墓」巻は、藤堂高虎・京極高知陣跡、「東山道の東城門跡」、「月見の宮」の福島正則陣跡、
天武天皇が御祭してある「井上神社」、「関の藤川」の向こうにあり弘文天皇がお祭りしてある「若宮八幡宮」、
不破の関庁跡の天武天皇の兜掛け石と沓脱石、不破の関「鍛冶工房跡」、不破の関跡、不破の関史料館、関の藤川、
「新旧中仙道碑」、箭先(せんさき)地蔵堂と矢尻の池、壬申の乱弘文天皇の自害峯の三本杉、不破の関高札場跡、
山中の八幡宮と大谷吉隆陣跡と墓、壬申の乱で川が染まった「黒血川」、鶯滝、常盤御前の墓、関ヶ原山中大師道標などを
GPS位置情報
と共にご案内します。

       

この頁で紹介する中山道区間図赤線:中山道 )
関ヶ原西首塚常盤御前の墓までの1,840mを案内します

西首塚から西へ向かい50mほど進むと南側に小路があります。
その道を南へ60mほど進むと関ヶ原中学校があります。校門を入って右側20mほどの場所に陣跡碑があります。

藤堂高虎・京極高知
陣跡

不破郡関ヶ原町大字関ヶ原3242

北緯

35

21

22.2

東経

136

28

01.5

中山道から進むと関ヶ原中学校の校門へ来ます 校門から中へ入ると右側に目印の幟が見えます
藤堂高虎・京極高知陣跡
藤堂・京極隊は、ここ中山道の南に位置する柴井に陣し、松尾山(今須宿口・小早川秀秋陣)や
山中村(大谷吉継陣)などの西軍に備えました。 ところが小早川隊の寝返りで戦況は一変したのです。
大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真っ只中へ、本両隊が突入し、これで呼応した脇坂隊らの攻勢も
加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。  (関ヶ原町)

藤堂高虎・京極高知陣跡から中山道へ戻り200mほど西へ進むと「松尾」の信号交差点があります。

国道21号線
松尾交差点

不破郡関ヶ原町柴井

北緯

35

21

26.6

東経

136

27

49.2

この交差点を左折して国道21号線と別れ中山道は西へ向います

「中山道」は大変狭い道ですので車ではすれ違いが出来ません。

100mほど進むと斜めに道路と交差します
この辺りが関の東城門跡です。

東山道東城門跡

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

23.0

東経

136

27

48.1

「美濃不破の関」のほぼ中央部を東西に「東山道」が
通り抜けていました。
関の東端と西端には城門が設けられ、兵士が守固していました。

日暮れとともに閉門、また、奈良の都での変事や天皇の崩御など
国家的な大事件がおきると「中央政府」の指令によって
固関が行われ、関の通行が停止されました。

この三叉路を東へ曲がり70mほどの南側に道標が立っています。

月見の宮

福島陣跡碑

不破郡関ヶ原町字松尾

北緯

35

21

23.6

東経

136

27

49.9

「月見の宮  福島陣跡」の文字が見えます。 

道標脇の道を南へ進みます。

100mほど南へ進むと道標があります。

そこを西へ70mほどで「春日神社」があります。

月見の宮
福島正則陣屋跡

不破郡関ヶ原町東町2丁目

北緯

35

21

21.0

東経

136

27

50.0

「春日神社」は神社ですが珍しく鐘突き堂があります

福島正則陣跡
関ヶ原合戦で東軍の先鋒となった「福島正則隊」(約六千人)は、ここで南天満山の「宇喜多隊」と対陣していました。
一番鉄砲の功名を「井伊隊」に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、
「宇喜多隊」に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防が続きました。
その戦いの中家臣の「可児才蔵」が首取りで手柄を立て、家康の賞賛を受けたとされています。

「月見宮 大杉」
この地から南宮山の頂きに上がる月が見えるため、「月見宮大杉
(つきみのみやおおすぎ)」と名が付けられました。

この杉の巨木は「関ヶ原合戦図屏風」にも描かれていて、
樹齢は八百年あまりと推定されています。

福島正則(1561〜1624年)
尾張に生まれ、幼少のころから秀吉につかえた。「賤ケ岳七本槍」の筆頭で勇猛な武将として名をはせた。
西軍大将石田三成との確執はすざまじく、関ヶ原の合戦では徳川家康方の東軍に属し、率先して先鋒を
名乗り出た。 対決した西軍宇喜多秀家隊に押されるも辛うじて勝利し、西軍突破の道筋を付けました。
家康に武功を認められ、安芸広島城主となり、49万8200石の領主となりましたが、後に広島城の無断
修理を問われ領地を没収され、不遇の死をとげました。 享年64歳。

元の道へ戻り50mほど西に「井上神社」の道標があります。

道標を南へ340mほど進み「東海道新幹線」の下をくぐると西側に「井上神社」があります。

壬申の乱の天武天皇
井上神社

不破郡関ヶ原町字松尾

北緯

35

21

10.6

東経

136

27

53.9

        「壬申の乱」と「天武天皇」
 672年、藤古川を挟んで西軍の弘文天皇と東軍の「天武天皇」との天下分け目の戦いがありました。
 この戦いで「天武天皇」が大勝利をおさめることが出来たのは美濃の国の人々が活躍したからと云われています。
 この「井上神社」は「天武天皇」をお祭りしています。
 「藤古川」の向こうの山中藤下の「八幡様」には「弘文天皇」がお祭りしてあります。

この「井上神社」から元の街道へ戻る途中(東側に地蔵堂があります)に「不破の関の鍛冶工房跡」があります。

不破の関鍛冶工房跡

不破郡関ヶ原町字松尾

北緯

35

21

17.0

東経

136

27

50.0

街道までの150m手前付近が「鍛冶工房跡です。
案内板が道の西側にあり、向かいにお地蔵様が御祭りしてあります。

此処は「不破の関」の南東にあたり不破の関の重要な地点です
土塁で囲われた内側を調査したところ炉跡や鉄滓などが出土し、
鑑定から奈良時代の工房跡を思われます。

一方、中世の陶器と共に中国銭が数多く出土し、鎌倉時代には伊勢街道沿いのこの地点で、
税が徴収されていたことも明らかになりました。

「中山道」の「井上神社」道標まで戻り西へ進みます。

90mほど進むと北側へ入る小道があり入ると奥の畑の中に
不破関庁跡と天武天皇の兜掛石と沓脱石があります。

不破の関関庁跡
天武天皇の兜掛石と
沓脱石

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.8

東経

136

27

42.2

不破の関跡が見える手前90mほどの右(北)の民家の庭に
「不破の関庁舎跡・天武天皇の兜掛石・沓脱石」の標識があります
標識のある家の庭を奥へ入りガレージの脇の細い道を更に奥へ抜けると広い畑に出ます。

不破関庁舎跡
 この辺りに不破関庁舎の中心建物があったとされ、関内の中央を東山道(とうさんどう)が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(108m)四方の席庁が設けられ、内部には兵舎、食料庫、兵器庫、望楼等々が建っていたそうです。

畑の中央(上の画面の右の茂み)に兜掛石
左手(下面左の畑を耕している人の左)の小さな木の脇に沓脱石があります。

標識に沿って畑の中を進むと兜掛石があり説明板もあります。

兜掛石
 ここに祀られている石は、壬申(じんしん)の乱の時、
天武天皇が兜を掛けられた石と伝えられています。

兜掛石の西の畑の中に小さな紅葉の木の囲まれた茂みがあります。
天武天皇が靴を脱ぐのに使われた石だそうです。

90mほど進むと中山道の南に「不破の関跡」があります。

不破の関跡
不破の関守跡

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.3

東経

136

27

41.0

「不破の関」のいわれ
今から、およそ1300年前「壬申の乱」の後、
天武天皇は此処に「関」を置き破ることが出来ないと云う意味をこめ
「不破の関」と名づけました。
関の規模は約650uでした。

                 日本の三関
 そして天下の変乱に備えるとともに、通行人を一々取り調べていました。
 越前(福井県)の「愛発」(あらち)、伊勢(三重県)の「鈴鹿」とともに古代律令制下の日本三関と唱えたれ、
天皇皇后崩御の時、皇族重臣などの死去の場合、謀反人が出た場合などには関を閉めることになっていました。

        広大な敷地を土塁で固める
 関の規模は六町四方(約600m四方)あったといわれています。
 一町四方(100m四方)に内郭が構えられ、瓦葺の建物が数多く見られたそうです。
 130年間続いた関も平安時代初期の延暦八年(789年)桓武天皇の時代には世の中が平和になり廃止されました。

              不破関守跡
 「木曽路名所図絵」にもえがかれている、関藤川より大木戸坂を登り切った辺りのこの一帯が、関守の屋敷跡です。 関守は延暦八年(789)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。  関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、段丘際の眺望の良い所にあり、格好な地にあったと言えましょう。
                        (関ヶ原町)

関内へは関守跡から入れます。

          江戸時代まで「固関儀」は残る
 廃関された後の平安時代にも天皇右崩御や重大事件のたびに固関使が派遣されました。
 その後、江戸末期まで儀式化しながら固関の儀が続けられました。
 土塁は今も残り、「鍛冶工房跡」なども見られます。

関内には多くの碑が残っています。

関が停廃された後も「関守」は置かれ、平安時代以降は、
多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されました。

「中山道」は「不破の関跡」すぐ西で二つに分かれます。

新旧中仙道道標

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

21.3

東経

136

27

39.6

「左 旧中山道」は途中、橋がなく「藤古川」を渡れません
「右 大谷吉隆墓」はもう少し先の「山中地区」からの道が整備されています。
「左 旧中山道」          
「右 中山道 大谷吉隆之墓」

ただし「不破の関資料館」はこの道標の数メートル先で北へ坂を上がるとあります。

不破の関資料館

不破郡関ヶ原町松尾

北緯

35

21

23.2

東経

136

27

38.5

「大宝令」によって「日本三関」が設置される。
「壬申の乱」(672年)の後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大宝令(701年制定)によって
東海道の「伊勢鈴鹿関」・北陸道の「越前愛発関」(あらち)と共に東海道の「美濃不破関」が「三関」として規定されました。

「不破の関」は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点でしたが、延暦八年(789年)七月、
「三関」は突如として停廃されました。
兵器・狼備(狼煙の設備)は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移築されてしまいました。

岐阜県教育委員会が昭和49年から五次にわたって実施した不破の関跡発掘調査によって「不破関」の概要が明らかとなり、是を契機に昭和57年、不破関の一角に資料館が建設されました。

道標の「左 旧中山道」のとおり左の道をとります。
坂を下り100mほどで関の藤川があります。その手前に不破の関西城門跡があります。

不破の関西城門跡
戸佐々神社

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

18.5

東経

136

27

26.7

不破関西城門と藤古川
不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。
川面と段丘との高度差は約十〜二十米の急な崖になっており、またこ辺一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘名地で、詩禅の要害を巧みに利用したものでした。
ここには大木戸という地名も残っており、「西城門」があったとされています。
(関ヶ原町)

ここで関の藤川を渡ります

大谷吉隆の陣跡と墓への道は東海道本線横断が危険のため
安全な道の画像は常盤御前墓の地図にあります。

関の藤川

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

20.2

東経

136

27

34.4

この川は伊吹山麓を発し、関所の傍を流れていることから、「関の藤川」と呼ばれていました。
「壬申の乱」(672年)では、両軍がこの川を挟んで開戦。
更に「関ヶ原合戦」では、大谷吉隆」が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。

またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。

                                      「藤古川」
 この川は古くは関の藤川と称し、「壬申の乱」には川を挟んで東が「天武天皇軍」、西側には「弘文天皇軍」が陣し、この地区の民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は「天武天皇」を祭って「井上神社」と号し、川西の藤下、山中地区では「弘文天皇」を祭って氏神とし、現在に至っています。

昭和25年頃の関の藤川と新旧中山道の橋

               関の藤川(藤古川)
 この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川とよばれていました。
 壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
 またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。            (関ヶ原町)

藤古川の「藤下橋」を渡るとすぐに「若宮八幡神社」の道標があります。
道標に従い南へ150mほど入ると「弘文天皇」をお祭りした神社があります。

藤下若宮八幡神社

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

12.4

東経

136

27

35.7

 

「藤下若宮八幡神社本殿」
本社の創建は定かでなく、「若宮八幡社ご縁記」によると、
元応十一年(1320)に「弘文天皇」を祭り、「応永九年」(1404)と
明応九年(1500)に社殿修理が見られます。

また明治十二年の修理の際の「棟札目録」では、
「天文二十二年」(1553)にも造営修理の記録がみられ、
本殿は檜皮葺の桃山式の極めて貴重な建造物です。
(関ヶ原町)

「若宮八幡神社道標」から西へ50mほど坂を上がると道標と地蔵動があります。

箭先(せんさき)地蔵堂矢尻の池

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

18.8

東経

136

27

31.1

国道工事で枯れた泉
付近に二つの泉があり、「弘文天皇矢先の池」と「矢尻の池」と呼ばれていました。
「壬申の乱」の時に軍兵が小さな泉を大きく掘ったと言われています。

しかし国道工事の際、水脈を途切れさせ泉が枯れてしまいました。

峠箭先堂
矢尻の池(井)
関ヶ原宿から今須宿に向う中山道のうちでも、不破の関・藤川と続くこの辺りは、
「木曾名所図絵」にも描かれ、歌枕となっていました。

箭先(せんさき=矢先)地蔵堂
明治11年(1878年)に坂を開削した時出土した地蔵と弘文天皇稜の傍にあった地蔵を合祀してあります。

矢尻で掘ったので「矢尻の池」
この井戸のような窪みは「壬申の乱」(672年)のとき、
水を求めて大海人皇子の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。
永い年月を経た今では、その名を僅かに留めているに過ぎません。

「大谷吉隆之墓」は別の道から
「大谷吉隆之墓」
は右へ坂を登り「国道21号線」を横断して道標にしたがって約15分(1km)で行けますが途中からの道が整備されていませんので「山中地区」の東海道本線」下のトンネルをくぐって行く
登り道がいいと思います。

大谷吉隆墓 七丁(700m)

この地蔵堂で道は二つに分かれていますが右が中山道です。

中山道から見た地区の工事中の道路
「安楽寺」へはいけませんでした。(画面左の登り坂の上が「安楽寺」)

先ほどのふたつに分かれた道が、また一緒になる所に道標があります。

自害峯の三本杉道標

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

18.5

東経

136

27

26.7

街道の南へ150mほど山道を登ると「三本杉」あります。

「壬申の乱」(672年)の時、関の藤川の西岸に近江軍、東岸に「吉野軍」が対峙しました。
「日本書紀」によると、七月の初め「近江軍」の精鋭が玉倉部をつき「吉野軍」がこれを撃退します。
是を機に吉野の大軍は藤川を越えて、近江の国へ進撃を開始します。

この時の激戦で、この山中川は両軍の血潮で黒々と染まったといいます。
その後、川の名も「黒血川」と変わり、激戦の様子を今に伝えています。

「白波の岸の岩根にかかれども 黒血の橋の名こそかはらね」
室町時代の文学者 関白太政大臣「一条兼良」

道少し登ると下に「黒血川」が見えます。

「自害峯の三本杉」
「壬申の乱」(672年)は天智天皇の子「大友皇子」と実弟「大海人皇子」の間で起きた皇位継承争いでした。
その戦はこの辺りから始まり、その後「近江の瀬田」で大海人皇子」は「大友皇子」を破ったのです。

自害峯の三本杉

北緯

35

21

13.8

東経

136

27

29.1

「大友皇子」の頭が葬られている
ここで自害された「大友皇子」の頭が葬られていると伝えられ、「弘文天皇御陵候補地」です。
「三本杉」がそのしるしとなっています。

なぜ此処に大友皇子の頭が
「壬申の乱」に敗れた「弘文天皇」(大友皇子)は大津の山前で自害しました。
東軍の武将「村国男依」は天皇の首をいただき、不破の野上に帰り、
「天武天皇」の首実検のあと、この丘陵に葬ったと伝えられています。

麓へ戻り西へ100mほど進みます

不破の関高札場跡

不破郡関ヶ原町藤下

北緯

35

21

18.8

東経

136

27

22.7

「中山道」は「国道21号線」と交差します

この辺りに「旧藤下村」の「高札場」がありました。

国道を横断して再び旧道へ入ります。

国道21号線横断後

北緯

35

21

18.1

東経

136

27

19.3

200mほど西へ進むと北側に「若宮八幡神社」の道標があります。

若宮八幡神社
大谷吉隆陣跡碑

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

19.3

東経

136

27

12.4

道標の奥には鳥居が見えます

道標の横には「宮上 大谷吉隆陣跡」の道標もあります。
宮上とは「八幡神社」の上にあるという意味でしょう。

階段を上り鳥居をくぐり更に階段を上ると「東海道本線」の線路があります。
線路の向こうに本殿が見えますが、危険ですので渡らないで下さい。

 中山道を200mほど西へ進むと「大谷吉隆陣跡」「大谷吉隆之墓」と「八幡神社」への道があります。

「八幡神社道標」から200m西へ行くと三叉路があります。

常盤御前の墓のある辺りは「鎌倉時代の東山道の山中宿」跡です

そこを流れる川が「黒血川」です。

壬申の乱の血潮で染まった黒血川

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

19.2

東経

136

27

04.0

黒血川(くろちがわ)
 壬申(じんしん)の乱(672)で、ここ山中の地で両軍の衝突が起きています。 七月初め大友軍は精鋭を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら=関ヶ原町玉)を経て大海人(おおあま)軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。 
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の激しい様子を今に伝えています。 この川は、青野ケ原や関ヶ原の戦い等、古来軍事上しばしば利用されてきました。  
(関ヶ原町)
「黒血川」は、ここから先ほどの「自害峯の三本杉」の下へ流れて生きます。

この三叉路を北へ行くと「大谷吉隆之墓」「大谷吉隆陣跡」「若宮八幡神社」へ行けます。

大谷吉隆墓
への

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

21.1

東経

136

27

03.7

北へ曲がるとすぐに「東海道本線」のトンネルをくぐります。

トンネルをくぐり山の中の道を進みます。

大谷吉隆墓
の登り口

北緯

35

21

28.5

東経

136

27

00.7

300mほど山へ入ると公衆便所があり、登山口があります。(此処までは車でこられます)

途中までは車でもこられそうですが急に狭くなるので車では入らないで下さい。

300mほど登ると平らな場所へ出ます、
そこに「大谷吉継の墓三十間(50m)」の道標があります

大谷吉継

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

34.1

東経

136

27

08.4

 

          国史跡「大谷吉隆(吉継)墓」
 吉隆は三成の挙兵に対し、再三思いとどまるよう説得しましたが、三成の決意を変えられませんでした。
 旧友の決意に対して吉隆は、とうとう死を共にしても戦うことを決意し、死に装束でここ宮上に出陣しました。 壮絶な決戦の末、吉隆は首を敵に渡すな、と云い自害しました。
 ここの墓は敵方の「藤堂家」が建てたものでした。

また50mほど戻り道標にしたがって「陣跡」へ進みます。

大谷吉隆(継)陣跡

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

28.3

東経

136

27

18.3

親友「三成」の懇請を受けた「吉隆」、死に装束でここ宮上に出陣しました。
松尾山に面し、東山道を見下せるこの辺りは、古来「山中城」といわれるくらいの要害の地でした。

九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、
「浮田隊」ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成らの主力の着陣を待ったと言います。

そぐ下には「若宮八幡神社」の社殿が見えます。

そこから道標に沿って下ります。

若宮八幡神社

北緯

35

21

21.8

東経

136

27

20.9

本殿脇へ下りて来ます。

本殿の参道を更に下ると「東海道本線」が見えます。

ここから再度中山道へ戻り西へ進みます。

西へ進むと、すぐ目の前に「鶯滝」があります。

鶯 滝

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

18.7

東経

136

27

03.0

「鶯の滝」

「黒血川地蔵尊」と「鶯滝地蔵菩薩」
滝の横にある地蔵さん

鶯の滝
中世(鎌倉・室町期)の「山中村」は旅人も泊まる「東山道」の宿駅として栄えていました。
近世(江戸期)では、関ヶ原・今須宿の間(あい)の村として、荷をはこぶ馬を曳く馬子や、駕篭をかく人夫たちが杖を
立てて休む立場(たてば)や酒屋・餅菓子屋・果物屋古手屋等が軒を連ね、活気を帯びていました。         

今須峠を上る人や、峠を越してきた旅人にとって、ここは旅の心を慰める珍しい滝がありました。
滝の高さは一丈五尺(約4.5m)と記録されており、水量も豊かでした。
何より冷気が立ち上り、年中、鶯の鳴く、平坦地の滝として街道の名所の一つとなりました。

室町期の文学者で関白太政大臣でもあった「一条兼良」は
「夏きては 鳴く音をきかぬ 鶯の 滝のみなみや ながれあふらむ」と詠んでいます。
(関ヶ原町)

最近「黒血川地蔵尊・鶯瀧地蔵菩薩」に
お地蔵さんが加わりました。

「鶯の滝」を70mほど進むと道は二つに分かれます。
右の狭い道が中山道です。

中山道の上を新幹線が通っています。新幹線の上を東海道線が通っています。昔から交通の要所だったんです。

東海道新幹線の下をくぐって80mほどで、道の右に小さな祠があります。

山中の地蔵尊

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

14.8

東経

136

27

56.2

年号などは判読できません

地蔵尊の脇を通り北へ30mほど入ると常葉御前の墓が見えてきます。

常盤御前の墓

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

14.0

東経

136

26

55.7

祠の横の道を奥へ入ると「常盤御前墓」があります。

「木曽路名所図会」より常盤墓

義経の母「常盤御前」
宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔が立ち並んででいるが、
その中の一つが牛若丸(源義経)の母「常盤御前」の墓と伝えられています。
義経を訪ねる途中、この地で病に倒れ俗に殺された
「常盤御前」は京都九条院雑仕の娘で、源義朝の側室となり牛若丸を生んだ。
「平治の乱」の後、牛若丸が鞍馬山を抜け出し東国へ走ったと聞き、あとを追ったが、
この地で土賊に襲われて殺害された。 後に牛若丸が上洛中、仇を討ったといいます。

「義朝の 心に似たり 秋の風」芭蕉

「常盤御前の墓」
都一の美女といわれ、十六歳で義朝(よしとも)の愛妾となった「常盤御前」。
義朝が平治の乱で敗退すると、敵将「清盛」の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ
一時は清盛の愛妾にもなります。
伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追ってきた常盤は、
土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。  (関ヶ原町)

源氏の系図(源義家から四代までの抜粋)

「旅と犬と史跡巡り」(23pro.tok2.com/freehand2/rekishi/keizu-genji.htmを参考にさせていただきました。

┬ 義朝────┬義平(母は三浦義明娘とも京都橋本の遊女とも。平治の乱後に捕らわれ斬首) 
│                    │ 
├義賢──┐   ├朝長(母は波多野義通の妹。平治の乱後に自害)        ┌千鶴丸(3歳で祖父に殺される。母は伊東祐親の四女・八重)  
│             │    │                                                                               │
├義憲(義廣)   ├頼朝(母は熱田神宮大宮司藤原季範の三女・由良御前)──┼大姫(20歳で病死。以下、実朝まで母は政子)
│             │    │                                                                               │
├頼賢   │    ├義門(頼朝と同母?・平治の乱後に戦死?)                      ├頼家(ニ代将軍)──┬ 一幡(母は比企能員の娘若狭局。 
│             │    │                                                                               │                           │
├頼仲   │    ├希義(頼朝と同母?・土佐で戦死)─希望(土佐吉良氏の祖)  ├乙姫(14歳で病死)   ├ 公暁(実朝を殺し死亡)        
│             │    │                                                                               │                           │
├為宗   │   ├範頼(母は近江池田の遊女)─範円─為頼─義春─義世    ├実朝(三代将軍)    ├ 栄實(承久元年自害)
│             │    │                                                                               │                           │
├為成   │    ├阿野全成(母は常盤)─時元                                        └貞暁                   ├ 禅暁(京都で殺害される)  
│             │    │                                                                                                             │
├為朝    │    ├義圓(母は常盤。墨俣川の合戦で討死)                                                         └ 竹御所(藤原頼経室
│             │    │             
├為仲     │    └義経(母は常盤。平泉高舘で自害)
│          │
└行家     ├──仲家(義賢が殺された時は在京し頼政の養子となる。後に宇治川で平家と戦い討死)
               │
              └──義仲(母は義賢の側室・小枝御前)─義高(母は山吹御前・巴御前説もあり)  │       

ここには水洗トイレがあります。

中山道へ戻り更に西へ向かいます

「常盤御前墓」前から「中山道」西へ200mほど来ると三叉路に差し掛かります。
そこに山中大師道標が祭られています。

難所と言われた今須峠を越えると今須宿

関ヶ原山中大師道標

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

09.5

東経

136

26

54.4

 

道標を兼ねた石仏です。 左手の山への道は平井道沿いにある聖蓮寺への近道です。(後で紹介)

右肩には「右 聖蓮寺道」とあります

建立は大正六年です。

大師道標から30mほど西に地蔵尊が祀られています。

山中の地蔵尊

不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

09.1

東経

136

26

53.9

地蔵尊は年月のためか自然石に近いほど磨耗して建立年号などは読めません。

馬頭観音から150m程西へ進むと「JR東海道本線」の踏切へ出ます。
この辺りは勾配が急なので「JR東海道本線」は上り下り分かれています

JR東海道本線

踏切

北緯

35

20

58.1

東経

136

26

48.4

「中山道」はJR上り線の踏切を渡り、下り線に挟まれて「今須峠」へ向います。
この峠には五、六軒の茶屋(立場)があったようです。

ここから西へ「中山道」は1kmほど山の中を通り、昔は旅人を泣かせた今須峠を越えると「今須宿」へ出ます。

今須峠
今は車が通れるよう峠を低く掻いて坂も緩やかに

今須峠を越えると「国道21号線」と交叉し「今須宿」へ入ります。

街道コラム

【宿駅制度の終末−1】

大政奉還後の宿駅制度の改革
 慶応三年(1867)朝廷は徳川幕府の大政奉還をうけたが、朝儀の決定で「暫くは今まで通り幕府に諸政を委任し・・・」
ということになった。

 慶応四年(1868)、ついに江戸城は開城された。しだいに新政府の体制も整いはじめ、閏四月に政体所が発布され、太政官職制改正が行われ、会計官のなかに駅逓司が設けられて駅逓のことを専門に管理する部署が生まれた。
 駅逓司は、明治元年(1868)、御朱印と証文の無賃人馬の使用を停止し宿と助郷が一体で継立てることとした。
問屋場を「伝馬所」に問屋を「取締役」に改名するなど次々と改定した。

       

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく中山道から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。